20161116-2
文学館を見本林から眺めるとヨーロッパの古い森に紛れ込んだような気持ちになる。私の故郷の宮崎とは全く異なる風景を目にするたびに、日本は縦に長いのだと実感する。私が宮崎→東京→旭川と北上しているのがおもしろいらしく、文学館には時折友人たちが遊びに来てくれる。旭川で仲良くなった友人も「初めて入った」と来てくれるようになり嬉しい限りだ。
先日案内した友人に、「綾子さんってこんなにいろんな人とつながりがあったんだね。知らなかった~!」と言われた。
三浦綾子は人との出逢いを大切にする人だった。ご来館されるお客様には生前の三浦夫妻と文通をされていた方もいらっしゃるし、「綾子さんを通じて●●さんと知り合って」というお話もよく伺う。あの優しく温かい笑顔で包み込むように接していたのかと思いきや、堀田綾子時代の綾子さんは、知れば知るほどツンデレだなあと思ってしまう。
自伝『道ありき』を読むと「なんでそんな対応なのよ、綾子さ~ん」と思わずツッコミたくなるシーンが度々登場する。
堀田綾子は27歳の時、結核治療のため札幌に1年間入院していた。知り合いが誰もいないはずが病室に一人の見舞い客があった。札幌北一条教会の長老をしていた西村久蔵氏である。彼は洋菓子のニシムラの経営者であり、札幌商業高校で教師をしていたことから、多くの人に「西村先生」と慕われていた人だった。彼は綾子の幼馴染で恋人の前川正氏からの「見舞いに行っていただけますか」の葉書を受け取り、綾子を訪ねたのである。自分の店のシュークリームを差し出した西村氏に対して綾子は、「先生、わたしは長い療養の身です。いつも人からお見舞いをもらうので、人から物をもらうのを、何とも思わなくなりました。人から物をもらうことに馴れると、人間がいやしくなります。どうかお見舞物などはくださらないようにお願いします」と見舞いの品を断った。ところが西村氏は大きな声で笑って、「ハイハイわかりました。しかしね堀田さん。あなたは毎日太陽の光を受けるのに、こちらの角度から受けようか、あちらの角度から受けようかと、しゃちほこばって受けますか」と言った。そして札幌に頼る人が誰もいないと知ると、「私を親戚だと思って、何でもわがままを言ってください」と温かい言葉をかけてくれたのである。二人が実際に過ごした時間は1年半と短かったが、西村氏の深い愛にふれた日々であった。綾子は1982年、西村氏と関わりのあるたくさんの人たちに取材をして西村氏の伝記小説『愛の鬼才』を執筆した。
また、綾子が旭川の自宅でギブスベッドに寝たきりだった頃、1人の男性からお見舞いに訪ねてもよいかの問い合わせがあった。ドライクリーニングの白洋舍を創設した五十嵐健治氏である。知人から「五十嵐先生が見舞いに行く」と紹介されていた綾子は五十嵐氏を牧師と思い込み、薄給なはずの牧師が高級なホテルに宿泊している事実(五十嵐氏は茅ヶ崎から札幌に出張しており、そのホテルの便箋で綾子に手紙を出した)に反発して見舞いを断ってしまう。その後、五十嵐氏から「恩寵と真理」というキリスト誌が送られ続け、1年後に綾子はようやくお礼の手紙を出す。そこから二人の文通が始まり、1956年6月、五十嵐氏は綾子の家を訪れた。五十嵐氏は「末娘が出来たようだ」と綾子をかわいがってくださり、綾子が結婚した後も互いの家を訪ねるほど親交が深まった。綾子は1986年に五十嵐氏の伝記小説『夕あり朝あり』を執筆した。
現在の企画展では、そんなツンデレの綾子さんが出逢い、後に本に記したすばらしい人達のことも紹介している。
(文 長友あゆみ)