【案内人ブログ№107】2026年8月 三浦夫妻と小檜山博氏との接点についての断想  記:森敏雄

案内人ブログ

昨年の7月三浦文学案内人ブログNo.95で、山口案内人が光世の郷里滝上町訪問の研修旅行を取り上げていた。光世と同郷の小檜山博氏。小檜山博氏は1937年4月生まれだから、光世の方が13年先輩に当たる。

小檜山氏は北海道新聞の編集者時代、綾子さんの本を何冊も手掛けられ、夫妻とは昵懇の間柄であった。余談だが、2012年(平成24年)3月22日私は旭川青年大学で小檜山氏に会っており、テーマ「ひとりでは生きられない」という講演を聴いたことがあった。

どんな内容であったか思い出せないが、3年日記帳には小檜山氏=「なかなかの苦労人」と記録が残っている。

綾子さんが亡くなった直後、朝日新聞社の小冊子「一冊の本」1999年12月号、追悼特集「三浦綾子」に、小檜山氏は「風土から生まれた作家」という一文を寄せている。それは次のような文章である。鋭い眼力・洞察力に感心する。

“優しいとは人を憂うと書く。彼女は無意識のうちに常に人の痛みを気づかって、それをいやしてあげたいと思っていたのだ。この圧倒的な思いやりの中に、ぼくは三浦文学の核を見るのである。”

“文学の主題が人間であることは当然だし、(中略)北緯44度の冬の氷点下30度という厳寒の地で生まれ育った作家が、その土地に居ついて書くということは、本州の暖かい地域しか知らないで書く作家とは、発想そのものが根本的に異なる。”

“三浦文学の根底に流れる精神の自由さと祈りは、こうした北海道の歴史の浅さゆえの自由さと、強靭な風土に鍛えられた者のみがもつ優しさによるものだ。”

”こうして三浦綾子は病気をも征服して養分にし、作品にした。文学におけるジャンルなどという狭い枠や垣を乗り越え、文学全体を上からおおうような大きな世界をつくり上げたのだ。”

そして、最後の結びは「三浦綾子さんが亡くなったいま、ぼくには彼女が本物の天女になって舞っている光景が見えるのである。」最大限の讃辞であった。          (完)

小檜山博著「太陽の讃歌」の145~149ページに、『思いやりということ』(Ⅰ)(Ⅱ)と題して、次のような文章が登場する。

“ぼくが45歳である文学賞をいただいたとき、三浦光世、綾子ご夫妻がお祝いにと札幌・三越で背広上下を2着も仕立ててくださった。ぼくは好みであるベージュ色の生地を選び、上着の襟裏あたりに刺繍で名前を入れてもらった。右側に小檜山博、左側の心臓がある場所に三浦光世、三浦綾子と二人の名前を並べてもらった。(中略)異常に緊張する講演のときなど、心臓のところにある三浦綾子夫妻の名前を考えると気持ちが落ち着くのだった。”

(コメント)

4 5歳で文学賞というのは、泉鏡花文学賞をさす。背広2着の件だが、初めから2着といえば辞退されるに決まっている。そこで綾子さんは一計を案じた。まずは1着。形がちょっと気に入らないので、もう1着。つまり同じものが2着となった。綾子さんは策士だ。

“三浦宅の居間にはカラオケがあり、ぼく専用のマイクまで用意してくれてあった。(中略)光世さんとぼくが歌うとき綾子さんは即興で踊った。洋服姿で居間を小走りに動きながら顔を上向け、両手を天空へ差しのべるのである。ぼくらが1曲を3番まで歌い終わるまで、そうやって踊るのである。その姿は天女が広々とした大空を舞っている光景に、ぼくには見えたのである。”

(コメント)

光世さんの美声は有名である。綾子さんは創作舞踊の大家(?)。ほのぼのとした光景がありありと目に浮かぶ。天女といえば、綾子さんは小3の時、日新小新設に伴う送別会で「羽衣」劇=綾子さんは漁師役を演じた。漁師と天女の会話「羽衣を返したら、舞を舞わずそのまま天にお帰りになることでしょう」「天人は嘘を申しません」「ああ、恥ずかしいことを申しました」/そんな場面を懐かしく想い出した。

“いつかぼくが旭川の商工会議所で講演したときである。会場へ入ると三浦ご夫妻が一番前の席に座っていて驚いた。ぼくはあわててそばへ行くと「お願いです、帰ってください」と言った。だが二人は座ったまま黙って笑っているだけだった。まわりにいる人たちもぼくを見て笑い、ぼくは首や頭から汗が吹き出た。(中略)そのあと廊下でぼくの著書のサイン会があった。やがて3種類の本を差し出してきた人がいて顔を上げると、三浦ご夫妻だった。びっくりした。帰らないでサイン会にまで残ってくれていたのだ。ぼくは筆を置いて立ち上がると「買わないでください。あとで送りますから」と本を押し返した。しかし綾子さんは「ほら、早くしないと後ろのみなさんが待ってますよ」と笑うだけだった。

(中略)三浦ご夫妻が買ってくれた本は3種類とも以前、刊行時にちゃんとサインをして郵送してあったのだ。”

(コメント)

一番前の席、誰もが敬遠して空席となるケースが多い。これは改めるべき慣行だ。また、刊行の際、親しき人々に贈呈する喜びは格別なものがあろうと思う。誇らしくすらある。

講演会にしても、聴衆が少なくては気の毒に思う。サイン会も自分たちが並べば、他の人々も本を買ってくれるかもしれない、つまり三浦ご夫妻は気遣いの達人でもあった。

小檜山氏は主婦の友社「三浦綾子全集」に三浦綾子作品の解説文を寄せている。この全集は全部で20巻あり、第1~14巻の末尾に著名の文芸評論家などが、次々と解説文を書いている。小檜山氏は第12巻に登場する。それによると、小檜山氏と三浦夫妻との出会いは、北海道新聞社での「ナナカマドの街から」というエッセイの出版時にあったようだ。光世さんがぼくと同じ滝上町出身と聞いてびっくりしたとある。

なお、「三浦綾子全集」第12巻には「嵐吹く時も」「雪のアルバム」「草のうた」の3編が収録されている。小檜山氏は三浦文学の原点である「草のうた」解説に多くのページを割いているが、とりわけ小4綾子さんが初めて海を見る場面、「海だっ!あれ!あそこに海が見える!」この場面の描き方、直接的で素朴な美しさに圧倒されてしまったと書いている。(ぼくも小6の時、同じ体験をした)「あっ」と声を出したまま、長いこと口もきけずに立ちすくんでいた気がする。以上、心に遺る素晴しい解説であったと思います。

文献:朝日新聞社「一冊の本」1999年12月号

   小檜山博著「太陽の讃歌」

    〃   「人生讃歌 北国のぬくもり」

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