【案内人ブログ】No.51 秋岡康晴氏と三浦綾子文学・同文学館の接点について 記:森敏雄

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令和3年度旭川市文化功労賞は秋岡康晴氏が受賞した。今回の受賞は、毎週1回読書会を26年間継続して来たことや旭川藤高(現・旭川藤星高)在職当時の作文教育指導、自主夜間中学遠友塾へのボランティア支援などが高く評価された。作文教育といえば、三浦綾子作文賞で2000年(平成12年)当時、旭川藤高(現・旭川藤星高)は毎年のように入選者を輩出し、秋岡氏は教師冥利に尽きると総括していた。

三浦夫妻との接点は秋岡氏が文芸雑誌『火曜会誌-VITA』の編集役の時、光世さんの仲介でエッセイ『白いマリ』を寄稿してもらったのが始まりと語っていた(『塩狩峠に生かされて』参照)。

三浦綾子記念文学館との関わりは、平成18年3月井上文学館・三浦文学館合同講演会の生みの親的存在であった。この時、旭川ゆかりの文学者として、井上靖・三浦綾子・小熊秀雄・三好文夫の4氏を対象とし、井上靖文学は秋岡康晴氏が、三浦綾子文学は斉藤傑氏が、小熊秀雄文学は岡田雅勝氏が、三好文夫文学は石川郁夫氏がそれぞれ熱く語ったと聞いている。なお、三浦綾子文学を解説した斉藤傑氏は考古学研究者であり、旭川市教育委員会に籍をおいて発掘等に従事した。最後は市彫刻美術館館長で職を辞す。定年退職後三浦文学館副館長を務めた。斉藤玄輔学芸員のご父君である。

1994年4月5日あさひかわ新聞「きた紀行」において、秋岡氏は「三浦綾子作『銃口』・昭和の歴史とは-綴り方運動と表現の自由-」と題し、『銃口』=純愛小説論を展開した。逆境の中で、竜太と芳子の愛の絆はますます強く強固なものとなっていく。世は純愛が成立しにくくなっている。つまりは“愛”の不毛の時代。⇒四半世紀前の寄稿文だが、現代でも全く違和感がない。読者諸氏も三浦文学の集大成、昭和イコール戦争と総括した小説『銃口』を改めて見直すきっかけとなったのではあるまいか。

また、秋岡氏は月刊誌『グラフ旭川』で1993年7月~2010年4月にかけて「私の国語教室」を連載(通算200回)した。このうち三浦綾子文学については、計12回関連記事を載せている。具体的にみると小説『塩狩峠』関連が一番多かった。

2018年9月三浦文学館の分館建設に当たっては、寄付に率先協力し、分館入口の協賛者銘板の最上部に居心地悪くその名を留めている。なお、秋岡氏は三浦文学館の賛助会員であり、四半期に1回程度三浦文学館に足を運んでくれている。

秋岡氏は自著『旭岳の裾野にて』において、次のような一文を載せている。傾聴に値するもので、三浦綾子文学に対する熱い思いがひしひしと伝わってくる。

(北海道文学についての私見)
(前略)三浦綾子文学を育んだ旭川、三浦文学は日本での最低気温をマークした厳寒極まる自然風土と無関係ではあるまい。同じキリスト教文学でも、十字架に架けられたキリストの踏み絵を踏む、転ぶことに寛大な遠藤周作の『沈黙』とキリスト教の原罪を追究した『氷点』、殉職というスタイルで人生の尊厳を描いた『塩狩峠』、遠藤と三浦の相違は、二人の人間性のみならず、長年過ごした自然、社会環境の相違に起因しよう。また三浦綾子の『母』における小林多喜二の姿勢、官憲の拷問に屈服しなかったその生きざまは、妥協を許さぬ厳寒の風土を彷彿とさせる。(後略)

『旭岳の裾野にて』より

『塩狩峠』100年メモリアルフェスタ記念文集『塩狩峠に生かされて』の30ページには、「三浦光世、綾子ご夫妻に感謝」という秋岡氏の一文が掲載されている。これを読むと、エッセイ『白いマリ』は授業で活用させてもらったとか、(光世さん)2005年北海道ユネスコ大会での「平和をつくりだす」ご講演に感謝している、などの文章が載っている。
秋岡氏はこのイベントに実行委員として名を連ね、エッセイ・感想文コンテストの審査・講評役を担った。なお、秋岡氏は旭川ユネスコ協会の青少年・学習部会に所属しており、毎年小中学生ユネスコ作文コンクールの審査・講評役も担っている。

このメモリアルフェスタ記念文集が発行されたのは、2009年(平成21年)2月であった。(長野政雄様)目に見えるものは必ず消えていくが、あなたの死は永遠に残っていくだろう。今年はあの事故から112年、“光陰矢の如し”である。

by三浦文学案内人 森敏雄

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