日本の近代文学研究者にとって、国立国会図書館デジタルコレクションは本当にありがたい存在です。明治期や大正期の書籍や雑誌を、パソコン画面で直接目にすることができるので、大いに利用させてもらっています。
時に、思いがけない資料に出合えることも楽しみの1つです。たとえば、〈三浦綾子〉で検索すると、まさかの明治期の書籍に遭遇! もちろん、作家・三浦綾子のことではありません。
1904(明治37)年3月刊行の、江見水蔭編『軍人の妻』(郁文舎ほか)は、日露戦争に関する小説集です。巻頭作品が江見水蔭「写真の葬儀」で、「事実中の事実――悲劇中の悲劇」の小見出しに続けて本文が。
戦死者の妻として最も年の若いのは三浦綾子であらう。今年の一月十日が満十六歳であつた為に、辛うじて結婚届が通過したと云う次第。
江見水蔭 編『軍人の妻』,郁文舎[ほか],明37.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/886184 (参照 2023-04-27)
悼ましきかな若き未亡人、殊更小説に作らずしても事実が既に立派な悲劇である。
史実に基づいた話らしく、旅順口の海戦で富士艦分隊長として戦死した海軍中尉三浦容夫(かねを)の若き妻・綾子を描いた短編です。
三浦容夫は、茨城出身、海軍兵学校第27期(1899=明治32年)卒業とのこと。綾子は、大阪の山内一誠の次女で、堂嶋高等女学校に通っていたそうです。祝言をしてほんの半月で三浦は出征、そして帰らぬ人となったのでした。
「満十六歳」の「未亡人」のもとには遺骸も届かず、軍刀の帯革のみ。写真だけを棺に入れて葬儀を済ませたことは、新聞や雑誌でも広く取り上げられ、当時の人々に「三浦綾子」の名は軍人の若妻として記憶されていたのでしょう。
より詳しい小説として、雲井白馬著『肉弾嬢』(山陽書房、1912=明治45年)もありました。12編の短編が収録されていて、「三のまき 遺骸の引取」にこのような記述が。
(略)半ば焦げた帯革と剣とは持ち来たされた。三人(田中注・三浦綾子と実父山内と、舅の三浦勉)はひとしく夫(そ)れを見入つた。綾子の眼には遉(さす)がに涙がある、幾許(いくばく)もなふしてハンカチーフは瞼に通ふた、実父山内はそれと見るが否。
雲井白馬著『肉弾嬢』,山陽書房,明45.7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/887608 (参照 2023-04-27)
『こりや綾、お前は如何したものぢや。名誉ある海軍軍人の妻でないか。殊に良人(をつと)が軍人であつて見れば、戦場に臨むといふことは豫(かね)てから承知の筈、して見れば何時戦死するか知れぬといふことも、今更らの覚悟ぢやあるまい、軍人の妻が人様の前で、良人が名誉の戦死したといふに、その記念(かたみ)を見て泣くなどゝいふことがあるか。え、それともお前は良人の名誉を無にする心算(つもり)か』
と、較(や)や辞声(こゑ)も荒くなつてくる。舅は聞きかねて取りなしした。
『山内さん、貴方そりや餘(あんま)り酷だ。嫁女の心として是が泣かずにゐらるゝものですか。泣きたい、私でも泣きたい。私は裏(うら)若い女子の身で、正体もなく泣きくづをれるといふやうな取乱しかたをせぬ嫁女が如何にも敬服ぢや、倅(せがれ)は好い嫁女を貰ひました、こりや私が貴方にお礼まをしあげる』
夫の戦死を名誉なこととして、人前では、涙を流すことさえはばかられた明治末期。〈三浦綾子〉さんのその後の人生を追った記事なども気になりますね(みなさま、一緒に調べてみませんか?)。