【案内人ブログ】No.50 八柳務さんのこと 記:村椿洋子

事務局ブログ

私は頼まれていた郵便物の管理のため、一日おきに旧八柳宅を訪れていた。その時、近所で飼われているという猫が八柳宅玄関前をうろついていた。居間の高い窓を見上げている。
「アッ!この猫ちゃん、前に開けっ放しの玄関から家の中に入ってきた猫ちゃんだ!」
私は思わず猫ちゃんに話しかけた。

猫ちゃん、ここのお父さんね、一ヶ月前にお母さんのところにいっちゃったんだよ。猫ちゃんはお母さんのこと、知らないよね。私もよく知らないけど、私と同じ名前だったんだって。
三浦綾子さんの秘書をずっとやっていてね。
文学館ができたのが1998年6月。その頃、お母さんの病気が分かってね。で、お母さんが亡くなったのは1999年3月。ホラ、居間に飾ってた写真、あるっしょ(あるでしょ)。あれは1998年秋にお父さんが洋子さんと道内の恩人やら友達やらを訪ねたときのものだって、お父さん言ってたっしょ(言ってたでしょ)。
で、綾子さんが亡くなったのは1999年10月。
それからのお父さんは、綾子さんの夫の三浦光世さんを支えるようにして生きてきたみたい。ううん、お互いに支え合っていたんだね。
「(洋子がいなくなって)淋しくて淋しくて庭の木にロープをかけて死のうとしたら、枝が折れちゃってネ……」って光世さんに電話したら、すぐ駆けつけてくれたことがあったんだって。
「務クン、生きなきゃダメだよ」って言われたって。
猫ちゃん、時々、お父さんに甘えに来てたの?お父さん喜んでくれたっしょ(くれたでしょ)。えさももらえたかい?
お父さん、今年の春頃から食欲がなかったんだよね。
「お腹の調子が悪くてサ」
「エッ?私が届けたおかず悪くなってたんかな?」
「そうじゃなくて……」
「そうじゃなかったら、早く病院に行って検査してもらってよ」
そんな会話をして重い腰を上げて検査したのが6月末。
2週間程度の予定で入院したのに、たった5日で帰ってきた時は、てっきり言うこと聞かないガンコジジイが追い出されたのかと思ったんだよ。
そうじゃなかったんだね。
あれから介護認定を受けたり、施設や緩和病棟に入れる手順を模索したり、手伝ってくれた人達みんなで、知恵を絞りながらいろんな情報を探したんだよ。
だけどお父さんは、
「どこへも行きたくない。この家に居たい!」
って。
そんな時、「私が面倒みます!」って方が現れたの。
猫ちゃん、あんたが来てくれたのはその頃だね。
会わせてあげないばかりか追い出したりしてごめんね。
最期の一週間は、お父さんを心配してたくさんの人達がこの家に来てくれたんだよ。お部屋を掃除したり、玄関前の草取りをしてくれたり……。誰かがキーボードで賛美歌を弾くと、お父さんも一緒に口ずさんでいた。
クリスチャンもそうでない人も、お父さんと同じ教会の人も違う教会の人も。
教会という建物ではなかったけど、神様がここにいるなあって感じられる場所だった。
お父さんが眠るように亡くなった朝、お父さんの家のピアノで葬送曲を弾いてくれた人がいたけど、お父さんにも聞こえたよね。
お葬式の時、文学館のボランティア組織おだまき会の人達もたくさん来てくれたよ。お父さん、元気な頃、毎日のように喫茶コーナーに通ってくれてサ、居合せたお客さんに綾子さん、光世さんの思い出話をしてくれてネ、楽しい時間を過ごさせてくれたの。仕事で来られないと分かっている時は伝言してくれて、ボランティア同士でお父さんのこと情報共有してたんサ。
新型コロナウイルスがまん延し始めて文学館が休館になって、お父さんの姿が見かけられなくなって、お父さんのことを心配して私に聞いてくる人もいたよ。
私がお父さん家に一番近いからネ。ここから歩いて3分だもん。
猫ちゃん、こうやって話している私になついてくれたわけではないみたいだけど、それなのに、あの時は知らない人の中に入ってきてくれたんだね。
猫ちゃんにもお父さん家の変化が分かったのかな。
暑い暑い夏だった。お父さんが亡くなってから2ヶ月。今頃はもう奥さんの洋子さんや懐かしい方々に囲まれて淋しい思いはしていないネ。
猫ちゃん、お話聞いてくれてありがとうね。
これからみぞれが降って雪になってどんどん寒くなるからネ。道路の真ん中で長い時間猫会議していたら、凍えちゃうよ。
また春に会おうね。バイバイ。

by 三浦文学案内人 村椿洋子

八柳務さんは最期まで現役のピアノ調律師。文学館のピアノを調律している様子をおだまき会メンバーが撮影した(2018年頃)。
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