そもそもの始まりは8月21日、北海道新聞論説委員白井高秋氏のオピニオン・コラムであった。主題は「小さき者へのまなざし」。1981年8月22日台湾旅行中、航空機事故で亡くなった向田邦子さんの没後41年を追悼したものだ。
『父の詫び状』の中の「薩摩揚」所収~小4の遠足の日、足の悪い同級生I子の母親が級長の向田さんに「みんなで食べてください」と大きな風呂敷包みに入ったゆで卵を持参した。「今でも粗末な風呂敷と、ほかほかの温かいゆで卵の重みを思い出す」「学校の成績よりももっと大事なことがあるんだな、ということが判りかけた」幼き頃の思い出。10歳の少女が鋭い観察眼で人間の機微を感じた。30年以上過ぎてから、幼き時に感じ取った痛みをエッセイで再現した力量には感嘆する。白井氏は、“向田氏は短期間で文筆家として頂点に上り詰めた”と激賞した。(参考)三浦綾子さんは古い記憶を辿りながら『草のうた』『石ころのうた』『道ありき』『この土の器をも』という一連の自伝小説を完成させた。
その日夜、BS-TBSで「向田邦子を恋して」というテレビ番組の再放送があった。向田邦子没後40年特別企画であった。ゲストは親友黒柳徹子氏と、マルチな才能を発揮し『向田邦子の陽射し』を著した太田光氏。両氏からの親密トークその他酒井若菜氏(女優)ほか数名が次々に登場し、脚本家・小説家・エッセイスト向田邦子さんの存在が強烈に印象づけられた。そして、テレビ番組放送後私は、向田邦子さんは三浦綾子さんに似ていることに気が付いた。二人は多くの共通点がある。
北海道新聞の読者はこのオピニオン・コラムをどのように受け止めたのであろうか。私は近くの図書館で文春文庫『向田邦子を読む』を見つけ、むさぼるようにして読了した。
このコラムの主題は「小さき者へのまなざし」である。小さき者=弱い者、即ち弱者。三浦綾子文学は弱者への熱いまなざしが満ち溢れている。そして、このコラムから向田邦子さんは級長だったことが判明した。三浦綾子さんも小3から級長を続けた。
向田邦子さんの父親敏雄氏は1904年(明治37年)生まれ。怒りっぽく威張り散らす。時に暴力を振るう。しかし涙もろい。三浦(旧姓堀田)綾子さんの父親鉄治氏は1889年(明治22年)生まれ。短気、頑固一徹。しかし子ぼんのう。二人は生命保険会社、中小新聞社勤務という同じような境遇のサラリーマン家庭に育った。向田邦子さんは長女、三浦(旧姓堀田)綾子さんは次女。二人の父親の没年は奇しくも1969年(昭和44年)であった。
向田邦子さんの親友は黒柳徹子さん、三浦綾子さんの親友は木内綾さん。向田邦子さんの代表作は『寺内貫太郎一家』(『父の詫び状』という説もある。)、三浦綾子さんの代表作は『氷点』。向田邦子さんは乳がんの後遺症でペンが持てなくなった時、左手に持ち替えて対応した。三浦綾子さんは腱鞘炎に悩まされた時、パートナー光世氏に助けを求め口述筆記を始めた。
教科書に載ったおはなしを調べてみると、向田邦子さんの場合、『父の詫び状』『眠る盃』『ごはん』『字のない葉書』の4点、三浦綾子さんの場合、抜粋ではあるが『塩狩峠』『泥流地帯』やエッセイ『あさっての風』などがある。
作家デビューをみると、向田邦子さんは46歳で『寺内貫太郎一家』を書いた。作家生活5年。三浦綾子さんは42歳で『氷点』を書いた。作家生活35年。二人とも40代の遅咲きだが、作家生活には大きな開きがあった。
二人の年回りだが、【2022年】に焦点をあてると、1929年11月28日生まれの向田邦子さんは生誕93年、1922年4月25日生まれの三浦綾子さんは生誕100年。そして向田邦子さんは没後41年、三浦綾子さんは没後23年となる。つまり向田邦子さんは三浦綾子さんより遅く生まれ、先に亡くなったことになる。
先般BS朝日で三浦綾子生誕100年記念番組「いのちの言葉つむいで」が全国放送された。ナビゲーター役は美村里江氏(女優・エッセイスト)。田中綾館長ほか数名がインタビューされ、三浦文学のテーマや魅力などが改めて浮き彫りにされた。また、三浦綾子記念文学館をはじめ、作品の舞台となった旭川市内、上富良野町、和寒町でも撮影が行われた。美村氏はテレビで向田邦子役を2度演じている。①2011年NHKBSプレミアム『おまえなしでは生きていけない~猫を愛した芸術家の物語~第3夜向田邦子』②2016年NHKドラマ『トットてれび』、彼女は3度目の向田邦子役を心待ちにしているという。
歴史上人物再現ドラマという点では、三浦綾子さんは向田邦子さんに大きく遅れをとってしまった。三浦綾子さんがテレビに登場するのはいつの日か、そして三浦綾子役を演じるのは誰か?実に興味深いものがある。
さて、私はネットで大胆にも「三浦綾子と向田邦子の接点」と検索してみた。が、期待するような答えは得られなかった。本ブログ冒頭の「ゆで卵」の件は『父の詫び状』の中の「薩摩揚」所収とあるが、これは短文で行数にしてわずか7行。エッセイ集『男どき女どき』の中の「ゆでたまご」にはもっと具体的に詳しく掲載されているので参照されたい。
いずれにせよ、この「ゆで卵」が登場する作品は正しく“小さき者へのまなざし”である。
三浦綾子文学作品でこれに匹敵するものは、『毒麦の季』所収の「貝殻」、三浦綾子全集第6巻所収の「片隅のいのち」を挙げたいと思う(「片隅のいのち」は、文学館発行の『雨はあした晴れるだろう』〔手から手へ復刊シリーズ7〕にも所収)。
ここまで独断で書き連ねてきたが、念のため三浦綾子記念文学館学芸員に“三浦綾子と向田邦子の接点”を照会してみた。すると、1981年6月16日朝日新聞「わたしとテレビ」というコラムに、三浦綾子さんは向田邦子作ドラマ「あ・うん」の脚本が小説づくりに役立っていると書いていることを知らされた。直木賞の選考委員だった作家山口瞳氏は、ある時この題名に苦情を呈したが、向田邦子さんは笑って聞き流していたのだという。
向田邦子さん及び三浦綾子さん、ともに戦後の一般大衆に「娯楽」の楽しみを植え付けた功績は極めて大きなものがある。片や直木賞受賞作家、片や北海道文化賞&北海道開発功労賞受賞作家。私たちは偉大な先達を決して忘れはしない。
by 三浦文学案内人 森敏雄