【館長ブログ「綾歌」】中城ふみ子と三浦綾子と『試歩路』──歌集未収録歌の発見

「綾歌」館長ブログ

(※本稿は、角川書店「短歌」2024年8月号掲載原稿を転載したものです)

北海道帯広駅前の帯広市図書館2階に、「中城ふみ子資料室」がある。同市で1922年11月に生を受けたふみ子が、「短歌研究」五十首詠で入選し、作品が掲載されたのは1954年4月であった。そして息をひきとったのは、第一歌集『乳房喪失』刊行直後の同年8月――あまりにも短く鮮烈な歌壇デビューであったが、その間のこまやかな感情の動き、粘り強い推敲、編集者中井英夫への心くばりは、中井との往復書簡(『中井英夫全集10 黒衣の短歌史』所収)で読み味わうことができる。

作品の魅力はどこにあるのか。病める肉体と対峙しうるほどに華やぐ生、烈しさ。かつ、自己愛を超えた一貫した「生の原則(プリンシプル)」に着目したのは、ふみ子と同年に評論「敗北の抒情」で歌壇に登場した菱川善夫である。ふみ子没後五十年記念講演録「ふみ子からのメッセージ」(『菱川善夫著作集』第五巻所収)で、

葉ざくらの記憶かなしむうつ伏せのわれの背中はまだ無瑕(むきず)なり

あかしやの花ふりこぼす朝風に眩しく未遂の悪も宥(ゆる)さむ

遺産なき母が唯一のものとして残しゆく「死」を子らは受取れ

等を引用しながら、ふみ子の冷徹なほどの自己客観の目に言及していた。人間は誰もが不完全なものであり、その不完全な部分を補うために、他者的な醒めた目で冷静に自身を見つめることが必要となる。ふみ子の醒めた目は、一貫して不足点を烈しく求め続け、それらが歌として結実していたのだ。

ところで、ふみ子と同年生まれの作家に三浦綾子(旧姓・堀田)がいる。1922年4月、北海道旭川市に生まれ、脊椎カリエスのため1953年2月から札幌医科大学附属病院に入院。退院は10月であり、ふみ子は同年12月からそこに通院を始めていた。面識はなかったが、二人とも闘病し、かつほぼ同時期に短歌を作っていた事実が興味深い。

ふみ子は札幌の「新墾」や帯広の「山脈」、全国誌「潮音」に短歌を発表、一方の綾子は、1949年頃から全国誌「アララギ」の土屋文明選歌瀾に投稿し、「旭川アララギ会報」等にも出詠していた。

今春、綾子の歌集未収録であった新資料を発見したが、その中に次の一首があった。(※)

永病みに黝ずみし吾が乳暈よ触るればあはれ乳首(ちくび)の起ち来る   堀田綾子

「あかだも」1955年4月号に掲載

「あかだも」は札幌や小樽を中心とした「アララギ」の地方誌で、「乳暈」や「乳首」を材としながら、ふみ子とは異なる即物的な歌いぶりといえる。創作時期は『乳房喪失』刊行後と思われるが、旧知の札医大病院が舞台でもあるふみ子の歌集を、綾子が意識していたとしたら……想像は尽きない。

その「あかだも」1955年10・11月号に、ふみ子の一首も紹介されていた。

沈丁花閉ぢておぼろの春の夜をまた妻として泣くことなけむ 

(表記は左の歌集による)

年刊療養歌集編纂委員会編『年刊療養歌集1955年版 試歩路』(第二書房、1954年)所収、「故中城ふみ子(北海道札幌医大病)」の十五首からである。ふみ子の歌集には未収録の歌であり、初出は「山脈」1952年7・8月号であった。
『試歩路』の次の歌も歌集未収録であり、初出は「潮音」1954年1月号である。

用もなき乳房など持たず眠りをり雪は薄荷の匂ひに降りて

この『試歩路』は、伊藤整が「療養者の歌と私小説」で取り上げた歌集でもある。歌われた伝記的事実と受ける感動との関係を、素朴かつ本質的に指摘した論考であったが、伊藤整はふみ子の歌には触れていない。療養短歌の枠組みをはずしてもなお感動をもたらすふみ子歌の強靭(つよ)さを再考していきたい。

※田中綾・一色紗矢香・岩男香織「資料紹介 三浦(堀田)綾子の「あかだも」掲載歌」(研究紀要『北海学園大学人文論集』第76号、2024年所収)
http://hokuga.hgu.jp/dspace/handle/123456789/4830
でどなたでも自由にご覧いただけます。

田中綾

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