【案内人ブログ】No.44 綾子さんと郷土誌「北の話」とのつながり 記・森敏雄

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昭和38年「北海道を旅する手帖」が札幌の八重樫實・津田遙子氏ご夫妻の手で創刊された。この雑誌はA5サイズで、小さな大雑誌として道民あるいは北海道を旅する人々の間で広く親しまれた。のちに「北の話」と改題。綾子さんが同雑誌からエッセイを書いて欲しいと要請されたのは、作家デビュー直後の1965年(昭和40年)10月号であった。その時の作品が「旅と新婚~層雲峡をめぐって~」と題するものであった。以後平成9年の終刊までに、綾子さんは20編の随想を同雑誌に発表してきた。

これらの20作品を熟読すると、館内ガイドを進める上で役立つ情報が沢山あることに気が付いた。例えば、①綾子さんの短編小説第1作は「井戸」である。執筆に当たり、丹羽文雄先生に極意を教わった。浅見淵(ふかし)先生がその出来映えを高く評価してくれた(1973年6月「北の話」55号「浅見淵先生のこと」、三浦綾子『遺された言葉』収録)。②綾子さんが帯状疱疹に罹り、食事療法で1ヶ月ほど静養した伊豆大島(東京都大島町)には秋の「紅葉」という自然現象が存在しない(1980年12月「北の話」100号「温暖の地」、三浦綾子『それでも明日は来る』収録)。③綾子さんは婦人文化サークル「オリーブの会」活動に熱心に取り組み、婦人の参政や地位・文化向上に尽力した(1983年2月「北の話」113号「呼び屋の真似ごと」、三浦綾子『それでも明日は来る』収録)。④北海道開拓長官黒田清隆とクラーク博士の出会いには、一般にはあまり知られていない驚愕の事実があった(1984年4月「北の話」120号「小説を書きながら」、三浦綾子『それでも明日は来る』収録)。⑤小説『氷点』の中に洞爺丸台風の一シーン(アメリカ人宣教師が救命胴衣を若い日本人男女に譲る)を組み込んだ(1988年6月「北の話」145号「青函連絡船の思い出」、三浦綾子『それでも明日は来る』収録)。⑥綾子さんの歌志内神威尋常高等小学校勤務時代、一クラス80名が在籍していた。午前と午後の二部授業が行われた。戦時下の炭鉱街は日に日に生徒数が増えた(1992年4月「北の話」168号「音楽と私」、三浦綾子『小さな一歩から』収録)―などなどである。

綾子さんを語るということは、時代を語ることに他ならない。綾子さんは昭和=戦争の時代と総括した。そういった観点から、小説『母』や『銃口』が生まれた。共に綾子さんの代表作である。2022年は綾子さんの生誕100年という記念すべき重大な時期を迎える。いろいろなイベントが計画されているが、それとは別サイドで、三浦文学作品『泥流地帯』と『われ弱ければ―矢嶋楫子伝』の映画化が予定されている。前者は北海道が舞台であり、後者は熊本・東京などが舞台である。小説と映画は別物である。しかし、原作が三浦綾子文学作品である以上、事実の捉え方やテーマの追求にそう大きな差異はない筈。40代の柴山健次監督&80代の山田火砂子監督の、映画に懸ける熱い思いがひしひしと伝わってくるでしょう。映像を通して、三浦綾子ワールドの一端を味わって戴ければ実に嬉しく思います。

綾子さんは全著作中、『泥流地帯』『続泥流地帯』が一番好きと語っておりました。『われ弱ければ―矢嶋楫子伝』はファンにあまり読まれていないと思います。ですが、映像からはいって行くのも文学に親しむ(楽しむ)第一歩と言えるでしょう。映画完成の際は、ぜひ劇場へ足を運んで戴きたいと思っています。その頃には、新型コロナウイルス感染症が終息に向かっていることを誰よりも固く信ずるものであります。

案内人森敏雄さんがまとめたもの(文学館図書室で閲覧できます)

by 三浦文学案内人 森敏雄

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