【案内人ブログ】No.61 『三浦綾子文学の本質と諸相』を読んで 記:森敏雄

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三浦綾子生誕100年記念として出版された竹林一志著『三浦綾子文学の本質と諸相』を読んだ。読み応えのある内容であった。

まずは三浦綾子文学の特徴が列挙されていた。寸分もスキのない見事な分析である。
① キリスト教信仰に基づく、伝道志向の文学
② 人間の本質的な二面性・平等性の強調
③ 希望・力を与える文学
④ 人間にとっての根本的問題を考えさせる文学
⑤ 北海道の風土に根ざした文学
⑥ 分かりやすい文章と巧みなストーリー展開
⑦ 光世と二人三脚での創作活動

本文中で私が心に留めようと思った事柄は、次の事項である。
□三浦文学の最大の特徴はキリスト教の伝道を目的としている。「キリストの愛」を伝えんとする文学である。読者を聖書へと導くことを願っている。
□三浦文学が指し示している神は、おもに、①愛ある神 ②罪を贖い赦す神 ③人と共にいるインマヌエルの神 ④教師なる神、である。
□三浦綾子ほど、人間の悪を描き切った作家はいない。罪に気付き、向き合ってこそ、光が見えてくる。
□〈自分は正しい〉〈自分の罪を認めたくない〉〈罪ある自分を受け入れるよりも死ぬほうがよい〉という思いこそ、神の前では傲慢であり、罪なのである。神が与えた命を自分で絶とうとすることも、神の前では大きな罪である。
□『氷点』における陽子の罪~「写真事件」には陽子の人間らしい過ちが描かれている。
 北原と見知らぬ女性の写真を見て、陽子は大きなショックを受ける。その女性は北原の妹なのだが、陽子は嫉妬し北原を赦せなく思う。⇒これは“罪”である。
□『続氷点』の「雲ひとつ」の章では、北原と徹のやりとりの中に、夏目漱石の作品『こころ』が登場する。
(参考)夏目漱石『こころ』のあらまし
~友人同士の二人の男が、一人の女性を愛し、破れた男は自殺し、裏切りによって勝利を得た男も、結婚後自殺する~
□キリスト教の文学研究において、遠藤周作論は沢山あるが、三浦綾子論は遥かに少ない。三浦文学には遠藤文学に劣らぬ魅力がある。人の生き方や考え方を変え、また苦難の中にある命を支える力がある。

さて、明治の文豪夏目漱石『こころ』と三浦綾子『氷点』『続氷点』の関連については、次のように取り上げられている。
① 『こころ』も『氷点』も遺書を中核・かなめとする点で共通している。遺書の内容等も大きな重なりが認められる。
② 『こころ』の先生も『氷点』の陽子も罪の意識から自殺へと向かっている。しかし、『氷点』の陽子は昏睡状態の末、一命をとりとめることを暗示して終わっている。三浦は陽子の死をもって終わらせることも考えたが、そうしなかったところに三浦文学=希望の文学たる所以がある。
③ 『こころ』も『氷点』『続氷点』も「淋しさ」をキーワードとし、「淋しさ」と「死」が深くつながっている。
④ 『氷点』『続氷点』で描かれている、陽子をめぐる辻口徹と北原邦雄の関係は、『こころ』における先生とKの関係と重なりつつ、ずれる。一人の女性をめぐる「こころ」の悲劇は如何にして回避し得るかという問題に対して、三浦は〈つらさの中でも、耐え忍んで愛他精神に生きること〉に答えを求めている。

最後に私見だが、本書69ページには三浦綾子『命ある限り』から次のような記載がある。

 小説はわたしが常日頃考えたり、話したり、行動したりしていることを核にし、形をととのえて世に発表したものにすぎない。(中略)わたしの場合、護教文学かも知れない、宣教文学かも知れない。それは、文学的には邪道かも知れない。そのことを充分承知の上で敢えて、わたしは今まで書きつづけてきた。(後略)

三浦綾子『命ある限り』第四章

邪道ということは正しくないやり方?文学としては成り立たない。三浦文学は邪道なのか?文学として相容れないものなのか?人間の本質を衝いたものがどうして邪道なのか?日本の文壇で、三浦綾子文学はどんな扱いを受けているのだろうか?気になるところである。それと、竹林先生は三浦文学はキリスト教伝道が第一義と断ずるが、それは必ずしも当たらないということを私は指摘したいと思う。

by 三浦文学案内人 森敏雄

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