【2022年ゆく年くる年】年末年始読み物企画「三浦綾子生誕100年~新たな100年へ」第1章:(3)作家前夜その2 1964(昭和39)年

事務局ブログ
レイ
レイ

あけましておめでとうございます レイです。
今年もよろしくお願いいたします。

今回の分までを何とか年内までに公開したかったのですが、間に合わなかったので、年明けの公開となってしまいました。申し訳ございません。

それでは、1964(昭和39)年三浦綾子が応募作『氷点』で作家デビューを果たした一年間の出来事の前半部分をどうぞ!

前回までのおはなしと過去の読み物はこちらからお読みになれます。

第1章:(3)作家前夜その2 1964(昭和39)年

光世、危篤状態に! 姑のことばに励まされて

『この土の器をも』(三十二)を見るとこのように書いてあります。

昭和三十九年の年もあけた。さすがに二人共疲れが出た。当時の日記には、毎日のように疲れた疲れたと書いてある。わたしは右肩が物凄くこり、灸に通っていた。

三浦綾子『この土の器をも』(三十二)

同様に光世も疲れが出たのでしょうか。以下は、『この土の器をも』(三十二)や三浦光世『妻と共に生きる』(主婦の友社)や、『「氷点」を旅する』を基にこのころのことをまとめてみました。

1月23日、午後、光世の痰が茶色でおかしいと感じた綾子はすぐにかかりつけ医の佐藤永一に見てもらい、クロマイが処方されます。

1月24日、佐藤病院でレントゲンと撮った結果、光世の病状は急性肺炎と判明
(以後自宅療養となり、職場に復帰したのは4月23日のことでした)。

1月25日、光世の熱は40度まで上がり、危篤状態となります。光世の母・シゲヨ、妹・誠子、教会員・吉田義次の妻らが幾夜も看病をしてくれる。心配する綾子に対して、シゲヨはヨブ記を読むように助言します。

また、シゲヨは繕い物をしているときに、机の上に書き散らした『氷点』の応募原稿が積まれているのに気づき、

「おや、綾子さん、何か書いているの?」

と尋ねます。

「そんなものを書いている暇があるのなら、繕いものでもしたらどうですか」と言われそうな気がする綾子。ところが予想にも反し、シゲヨは優しい語調でこう言ったのです。

「そう。書いているの。ねえ綾子さん、神さまは人それぞれに才能を与えてくださっておられます。綾子さんは、女の仕事は下手だけれど、書くのが好きだから、その才能を大事に育てなさい」

三浦綾子「姑の死に思う」(『それでも明日は来る』所収)

 後年、綾子は「姑の死に思う」(『それでも明日は来る』所収)の中で「今でも、思い出すたびに、あれはすばらしい言葉だったと思う」と回顧します。また、この時のシゲヨのことばに「母の確かな信仰を見たような気がした」とも記しています。

第50回芥川賞受賞はあの人!

 さて、前後しますが、1964(昭和39)年1月の特記事項として田辺聖子の芥川賞受賞について紹介いたします。

すでに田中綾館長が館長ブログ「綾歌」でも紹介しておりますが(こちら)、1月15日に第50回芥川賞(1963年下半期)候補作が発表されます。

田辺聖子の自伝的小説『しんこ細工の猿や雉』では、大阪文学学校[1](初代校長=詩人・小野十三郎)時代を含む10年間の創作活動や、司馬遼太郎、眉村卓など関西在住の作家や文化人との交流、この当時流行した小説や世相、芥川賞受賞当時の様子が詳しく記されています。

 昭和三十八年度下半期の候補作は、年が明けて一月の十五日の新聞に載っていた。芥川賞は九篇で清水寥人「機関士ナポレオンの退職」井上光晴「地の群れ」佐藤愛子「二人の女」森泰三「砧」木原象夫「雪のした」平田敬「日々残影」鴻みのる「奇妙な雪」阿部昭「巣を出る」である。
 この時の直木賞は十篇が候補作に残り、川野彰子「廓育ち」江夏美子「脱走記」安藤鶴夫「巷談本牧亭」小松左京「地には平和を」樹下太郎「サラリーマンの勲章」戸川昌子「猟人日記」野村尚吾「戦雲の座」津村節子「弦月」山川方夫「クリスマスの贈物」和田芳恵「塵の中」であった。
 私は井上光晴氏が入っているので「万事休す」だとあきらめてしまった。氏はもう中堅作家で活躍している人で、実力者である。その他の候補作もことごとく、「新潮」や「文學界」に載った、いわばすでに篩にかけられて残った粒よりなのだ。同人雑誌に掲載されたものとしては、私の作品が一篇だけである。[2]

田辺聖子 『しんこ細工の猿や雉』(『田辺聖子全集 第1巻』集英社、2004年9月10日)、p522

第50回芥川賞(1963年下半期)選考会は1月21日18時より、築地の新喜楽にて開催されます。
選考委員=石川淳/石川達三/井上靖/井伏鱒二(欠席)/川端康成(欠席)/高見順(書面回答)/瀧井孝作/永井龍男/中村光夫/丹羽文雄/舟橋聖一[3]
19時、田辺聖子は電話で受賞を知らされます。[4]

「すべて神の祝福の中にある」

ここで再び、話を三浦夫妻に戻します。『この土の器をも』三十二から紹介します。

1月31日、朝日新聞東京本社学芸部から通知が届き、応募総数が731編であったことを知ります。731という数を知り、綾子は入選はないだろうなと諦めます。

3月に入り、所得申告を行うと、雑貨店は15万の黒字でした。月割だと1万2000円程の金額です。当時、光世の月給が、家屋のための返済、社会保険料、生命保険料、税金を差し引くと2万5000円ほどでしたから、光世の月給に感謝し、ありがたさを感じますが、一方で「今年こそ両親のための家を建てたい」という思いを強くします。が、光世は「親孝行の金は神が下さる」としか言わないのでした。

3月13日、階段を踏み外して尾てい骨を打った綾子は光世とともに数日寝込みます。

夫婦そろって寝込むような状態になると「何か悪いものが憑いているのではないか?」と感じる人もいるのでしょう。実際に療養時代の友人からこのように案じる葉書が届きますが、キリスト教を信じる二人は「すべて神の祝福の中にある」と感じます。

そのような心境にあったからこそ、自宅で家庭集会を開くことを考えたのでしょうか。5月中旬、光世は家庭集会開催案内を「いちじく」に記すと共に、集会案内のはがきを書きます。

「どうぞこの堀田綾子姉妹を、この場において証しのためにお用いください。」

ところが、6月19日、『氷点』を含む一次選考を通過した作品25編が発表されると夫妻の周辺はにわかにあわただしくなります。6月24日の午後、朝日新聞本社学芸部からデスク門馬義久記者と同社旭川支局長・小林金太郎の訪問を受けます。

この訪問により「もしかしたら入選するかもしれない」という新たな希望をいただくや綾子。別れ際に紙面の都合で一日分3枚半を3枚強に書き直してほしいと言われますが。書き直しの大変さがまだわからなかったため単純に「書き直します」と答えてしまいます。ちなみに、この日は妹・陽子の命日でもあり、『氷点』のヒロイン・陽子の名は妹からとっています。

このころ、夫妻は同じく旭川六条教会に集う藤原栄吉に出会いますが、このことは日を改めて紹介します。

7月5日、この日は日曜日で、綾子は旭川六条教会の礼拝に出席します。礼拝後、川谷牧師と家庭集会の打合せを行った後、小説の経過を報告し、祈ってもらいます。

くしくもこの日は綾子の受洗記念日でした。
1952(昭和27)年7月5日、綾子は札幌北一条教会の牧師・小野村林蔵により病床で洗礼を受けます。この時、西村久蔵(綾子の信仰の先輩で、伝記小説『愛の鬼才』の主人公)はこう祈りました。

「どうぞこの堀田綾子姉妹を、この場において証しのためにお用いください。また御旨にかなわば、一日も早く病床から解き放たれて、神の御用に仕える器としてお用いください」

三浦綾子『道ありき』三十三

7月6日、遂に『氷点』第一位入選の内定通知が届きます。早速光世の職場に電話した綾子。夕方、帰宅した光世と共に感謝の祈りを捧げたことは言うまでもありません。
※入選通知の電話を受ける綾子の写真は、『「氷点」を旅する』、合本特装版『「氷点」・「氷点」を旅する』に収録されています。

7月9日、入選発表前日、光世は綾子に店を休ませます。朝日新聞社の人から「一夜明ければ、もう今日までの生活はできないのですよ」と言われたように、夜になると地元メディアである北海タイムスや北海道新聞記者を避けるために、両親宅へ避難することになります。[5]

次の日、7月10日はいよいよ入選発表の日!
というわけで、1964(昭和39)年のお話はもう1話続きます!

(文責:岩男香織)


注 

※外部サイトには、新しいタブを開いて移動します。
※リンク先の内容は、予告なしに変更・削除される場合がございます。予めご了承をお願いいたします。

[1] 大阪文学学校は1959年7月に、詩人・小野十三郎によって創設された詩や小説の創作教室。田辺聖子など多くの作家を輩出した創作教室。

[2] 田辺聖子 『しんこ細工の猿や雉』(『田辺聖子全集 第1巻』集英社、2004年9月10日)、p522

※田辺聖子『しんこ細工の猿や雉』 初出「別冊文藝春秋」第139号(文藝春秋)1977年3月5日~「別冊文藝春秋」第146号(文藝春秋)1978年12月5日、全8回。後以下に収録。p267には夫妻とゆかりのある桝井寿郎のことが書かれている。

  • 『田辺聖子長篇全集 18』文藝春秋、1981年7月1日
  • 『しんこ細工の猿や雉』文藝春秋、1984年4月30日
  • 『しんこ細工の猿や雉』文春文庫、文藝春秋、1987年3月10日
  • 『田辺聖子全集 第1巻』集英社、2004年9月10日

[3] 西山嘉喜『芥川賞・直木賞150回全記録』文春ムック、文藝春秋、2014年3月1日、p77

[4] 田辺聖子 『しんこ細工の猿や雉』(『田辺聖子全集 第1巻』集英社、2004年9月10日)、p523に「二十一日の晩に知らせがあるということだったが」とあり、そのあと「七時ごろ、もう電話が掛って」と受賞を知らされる場面に続く。

[5] 「『氷点』のころ」『ごめんなさいといえる』所収参照
入選発表前夜、朝日新聞社の人から「一夜明ければ、もう今日までの生活はできないのですよ」と言われ、光世と二人だけで静かなひと時を持った。

タイトルとURLをコピーしました