【2022年ゆく年くる年】年末年始読み物企画「三浦綾子生誕100年~新たな100年へ」第1章:(4)『氷点』入選 1964(昭和39)年7月10日

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レイ
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あけましておめでとうございます レイです。
今年もよろしくお願いいたします。

今回の分までを何とか年内までに公開したかったのですが、間に合わなかったので、年明けの公開となってしまいました。申し訳ございません。

それでは、1964(昭和39)年7月10日からのお話をどうぞ!

前回までのおはなしと過去の読み物はこちらからお読みになれます。

第1章:(4)『氷点』入選 1964(昭和39)年7月10日

入選発表当日

7月10日、朝日新聞上の1面中央、全国版、道内版の三つにわけて『氷点』の入選が発表されます。[1]

『この土の器をも』では、『氷点』入選発表当日までで終わっています。後年、この続き――作家生活30年を自伝として書くように提案したのは、角川書店編集者・大和正隆でした。『命ある限り』は1995年1月より月刊「野生時代」(角川書店)にて連載されますが、残念ながら綾子の死によって未完となりました。

さて、入選発表当日の19時より、第1回目の家庭集会が三浦家で開催され、説教は川谷威郎牧師が行いました。

この時1本の電話が入ります。それは評論家で雑誌「信徒の友」編集員でもあった佐古純一郎からのものでした。[2]
用件は、涙なしではよめないあの作品に関することでしたが、長くなるため後日紹介いたします。

『ごめんなさいといえる』所収「三浦光世日記――『氷点』を世に産み出した五百五十日」に1963年1月9日~1964年7月10日が掲載されております。あわせてお読みいただければ幸いです。

講演旅行~作家たちとの出会い

7月19日、授賞式に出席するため、母・キサ、弟・秀夫と共に東京に向います。光世は職場の同僚から一緒に行くよう勧められましたが、急性肺炎で3か月間休んだこともあり、職場に迷惑がかからないよう同行せず、深川駅までの見送りにとどめました。このときの様子は『「氷点」を旅する』に収録された写真で見ることが可能です。

当時、旭川空港はなく、東京に行くには、一旦札幌へ出て、千歳空港まで行く必要がありました。この東京行きが綾子にとって、初めての飛行機搭乗となります。
途中札幌で札幌ホテル三愛(現・札幌パークホテル)に宿泊します。

余談ですが、札幌ホテル三愛(現・札幌パークホテル)が開業したのも『氷点』入選発表と同じく7月10日ですから[3][4]、最新の設備が供えられたはずです。

自伝『命ある限り』では、浴室に入り、蛇口をひねるとお湯が出ることに驚いた綾子が「神さま、神さま、わたしは何をしたからといって、こんなよい目に遭わせてくださるのですか」と祈り、感動のあまりに涙を流す場面が描かれています。

というのも、当時、綾子の家には風呂がなく、近くの銭湯で入浴していました。夏はともかく、冬場の寒さを思えば、一部屋ごとに浴室があり、蛇口をひねるとお湯が出る心地よさに感激したのはもっともなことでしょう。

一方、帰宅した光世はその夜ひたすら「婦人公論」の原稿を書き続けました。光世が書いた原稿は「一千万円懸賞小説に入選した妻」として、「婦人公論」1964年9月号に掲載されました。
(このことは、三浦光世『妻と共に生きる』等に書かれています。)

いよいよ7月21日13時より、授賞式および記念講演(定員600名)が朝日新聞社東京本社朝日講堂(現有楽町マリオン)[5]にて開催されました。

授賞式のあと、朝日新聞東京本社の社屋にあるレストラン「アラスカ」で祝会が持たれ、白石凡、今日出海、吉屋信子らと同席します。綾子は自己紹介や簡単なスピーチをさせられると思っていましたが、そのようなこともなく各自隣の人とおしゃべりをしているのでした。川端康成や丹羽文雄の名が出てくるのを聞きながら、この振る舞いは、初めて東京に来る綾子に余計な気遣いをさせないための細やかな心遣いだったことに気づきます。食事が終わるころには「どの人にも初対面とは思えぬ親しみ」を感じ、「白石凡、今日出海、吉屋信子の諸氏には、世をさられるまで親しくさせていただいた」と述懐するのでした。

この東京公演を皮切りに、同月24日には大阪で、27日には名古屋にて記念講演が開催されます。この講演では、吉屋信子にかわり中山義秀が参加しました。中山義秀が、死の直前に受洗したことは、山田風太郎『人間臨終図巻』Ⅱ(徳間書店)[6]でもM記者によるものと書いていますが、綾子も「中山義秀先生の受洗」(『ひかりと愛といのち』所収)で門馬義久によるものだと紹介しています。

旅によるストレスでしょうか、7月28日頃より旭川に戻るまで下痢が続きますが、8月3日には、北九州市で記念講演を行い、ようやく8月4日に旭川に戻ります。

が、自宅に戻ってからも講演会が相次ぎ、8月6日の夜には受賞記念講演会が旭川公会堂で開催され、伊藤整に初めて会います。

翌8月7日は、光世が休暇取得し、受賞記念講演のため、札幌までの移動に付き添ってくれました。

6日と7日の講演は、河盛好蔵「新聞小説論」、伊藤整「現代文学の問題」、白井凡「朝日新聞と懸賞小説」でした。

遂に全旅程を終えて帰宅したのは8月10日のことでしたが、留守にしていた20日間の間に、光世は体重50キロから2キロ減り、姑(光世の母・シゲヨ)も7キロ減ったといいます。

8月、三浦商店閉店

そして、『氷点』連載に備え、8月11日に閉店のあいさつを張り、三浦商店を閉店することにします。光世は「雑貨店をやりながらかけないかという人もいたが、二足のわらじは所詮無理であった。文筆生活に入って、がぜん忙しくもなった。講演に招かれることも多くなり、綾子は時に一人で、時に私もついて、よく旅に出るようになった」と自著『綾子へ』に記しています。

翌日以降、綾子は町内一軒一軒にささやかな品を持って光世と挨拶にまわります。後日、町内婦人会の主催が銭湯で開催され、二人で出席します。楽しい会だったのでしょうか。光世は終わりに1曲歌い、喝采を浴びたことが『命ある限り』に記されています。

文芸評論家・高野斗志美との邂逅

8月20日、入選祝賀会が二条ビルにて開催(主催=旭川市)されますが、二人にとってはもちろん、私たち三浦綾子ファンにとっても大切な人との出会いがありました。
そう、1998年6月13日開館した三浦綾子記念文学館の初代館長となる文芸評論家・高野斗志美です!

7月に「オレストの自由――戦後文学のエゴについて」で第4回新日本文学賞(評論部門)を受賞した高野斗志美との交流は生涯にわたり交流が続きます。

このころの日本は10月10日からの第18回オリンピック東京大会(~10月24日)に向けて急速に変化していきます。
例えば、9月17日、東京モノレール株式会社が浜松町から羽田空港間を開業。これは国内初の営業モノレールとなります。[7]

また、10月1日には、東海道新幹線開業。東京-大阪間を新幹線「ひかり」だと4時間で移動できるようになります(昭和40年11月1日からは3時間10分に短縮)。[8]

そして同月、『氷点』の挿絵を描くことになった日本画家・福田豊四郎が門馬義久と共に東京より訪れ、夫妻は緊張して迎えます。
その夜、福田豊四郎から「節を曲げたら直ちに挿絵をやめますよ」という言葉に突き動かされた綾子はこの言葉を生涯忘れえぬ言葉として心に刻みます。

二人が『氷点』の連載準備に追われていたのと同じく10月、道内では、渡辺淳一が「華やかなる葬礼」を同人誌「くりま」第8号に発表し、この年の北海道新聞社「道内同人雑誌秀作」に選ばれます。[9]

同月、永井路子の短編連作集『炎環』(光風社)が刊行されました。『炎環』は、文芸雑誌「近代説話」に発表した三作品(「悪禅師」「黒雪賦」「いもうと」)に「覇樹」を書き加えたものですが、この作品で第52回直木賞受賞します。[10]
今年のNHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を機にお読みになられた方もいらっしゃるのではないでしょうか。わたしもその一人。とくに「いもうと」はページをめくる手がもどかしかった! おっと話がそれました。

12月9日、『氷点』が朝日新聞朝刊で連載開始(~1965年11月14日)

12月9日、いよいよ『氷点』の連載が朝日新聞朝刊で始まります(~1965年11月14日)。前述の通り、ヒロイン・陽子の名を、妹・陽子からとったことが『草のうた』に記されています。

 私の小説『氷点』に、陽子というヒロインが登場する。この名は、私の妹陽子の名からとった。妹陽子は、昭和四年(一九二九年)六月二十二日誕生し、昭和十年(千九百二十五年)六月二十四日世を去った。わずか六年と二日の命であった。
 陽子が死んで、ずいぶん長い年月、私はこの子の死を悼んだ。『氷点』のヒロインに陽子という名をつけて、ようやく少し私は慰められた。

三浦綾子『草のうた』30

優佳良織織元・木内綾は、『氷点』の連載を十数回読み進めた時点で「すごい作家が旭川から登場したな」と感嘆しています。[11]

12月26日には、子供クリスマスを自宅にて開催し、50人ほどの子供たちが参加しました。[12]

作家になってからは、昨年とは桁外れの忙しさであったにもかかわらず、二人は「神のよろこびたまうこと」を行います。昨年子供クリスマスの中止を訴えた綾子に、光世は「神のよろこびたまうことをして落ちる小説なら、書かなくてもよい」と言下に答えましたが、綾子も子供たちの笑顔を見ながら改めて光世の言葉の意味を噛み締めたことでしょう。

その後も三浦家では綾子が亡くなった1999年も例年通り、子供クリスマスを実施。以後2007年まで毎年続けられました。

三浦綾子記念文学館が二人の思いを引き継いで、子供クリスマスを再開したのは2012年12月16日。この時の様子はこちらからご覧になれます。

昨年と一昨年はコロナ禍もありやむを得ず中止となりましたが、今年11月26日14時からは、3年ぶりにクリスマスツリーの点灯式に合わせて、西御料地小学校合唱団の演奏によるミニコンサートという形で開催いたしました。この時の様子はこちらからご覧になれます。子どもたちと音楽が大好きな三浦夫妻も喜んでいたことでしょう。

というわけで、続きはまた次回。今年もよろしくお願いいたします!

(文責:岩男香織)


注 

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[1] 朝日新聞百年史編集委員会編『朝日新聞社史 資料編 明治12年(1879年)~昭和六四年(1989年)』朝日新聞社、1995年1月25日、「1000万円懸賞小説に三浦綾子作「氷点」が入選と発表(12月9日から連載)」(p562)とある。

[2] 佐古純一郎が「信徒の友」の連載を綾子に依頼しようと提案した経緯は、『幼子のごとく 三浦綾子文学アルバム』(北海道新聞社)所収佐古純一郎「祈りの文学」p47-48に記載。

[3] 札幌パークホテルについて | 札幌パークホテル (park1964.com) ※7月10日、札幌パークホテルの前身、札幌ホテル三愛がオープンしたことが下記のリンクから確認できる。
札幌パークホテルについて | 札幌パークホテル (park1964.com)

[4] 新札幌市史第5巻上 (trc.co.jp)
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/ImageView/0110005100/0110005100100050/s595/?pagecode=69

[5] ブルーガイド編集部編『地図と写真で見る東京オリンピック1964』実業之日本社、2015年2月10日、p35-36の地図参照(このころ、朝日新聞本社は2021年現在もある有楽町マリオンの位置にあった)、旧朝日新聞本社ビルの写真はp41(数寄屋橋交差点から日比谷方面を望む)・p94に掲載。なお、当時はすぐそばに都電が走っており、駅に沿って寿司屋横丁があり(p38参照)、寿司屋横丁の写真がp93に掲載。

[6] 山田風太郎著『人間臨終図巻』Ⅱ(徳間書店、1996年11月30日刊)p266にある。なお、同著では門馬が「毎日新聞学芸部の記者」とあるが誤記。、

[7] 宇野俊一ほか編『日本全史(ジャパン・クロニック)』講談社、1991年3月15日、p1127

[8] 宇野俊一ほか編『日本全史(ジャパン・クロニック)』講談社、1991年3月15日、p1128

[9] 川西政明・阿貴 編 年譜『渡辺淳一の世界』集英社、1998年6月10日、p244

[10] 磯貝勝太郎編 年譜 永井路子『永井路子歴史小説全集 第十七巻』(中央公論社)所収、1996年2月7日、p480

[11] 木内綾『染め織りの記』北海道新聞社、1989年9月21日、第六章 人とのふれあい参照。p179-180

[12] 『命ある限り』第1章には「一九六三年十二月二十六日土曜日の午後」と記述があるのが、『氷点』応募原稿を書き終えた1963年ではなく、その一年後すなわち1964年12月26日を指すかと思われる。1963年12月26日は土曜日ではなく、1964年のことだとすれば曜日が一致するため。

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