【2022年ゆく年くる年】年末年始読み物企画「三浦綾子生誕100年~新たな100年へ」第1章:(2)作家前夜その1 1963(昭和38)年

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レイ
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新年あけましておめでとうございます! レイです。
今年もよろしくお願いいたします。

毎年恒例ではありますが、まずは三浦綾子が応募作『氷点』を書いた

1963(昭和38)年の一年間をの出来事を振り返ってみます。

前回までのおはなしはこちらからどうぞ!

第1章:(2)作家前夜その1 1963(昭和38)年

「ねえ、これを小説に書いてもいい?」

1月1日、朝日新聞社が、大阪本社の創刊85年、東京本社の創刊75年記念事業として一千万円懸賞小説を募集します。[朝日新聞一千万円懸賞小説][1][2]

このあたりのことは、『この土の器をも』に詳述されております。また、昨年と一昨年の読み物でも詳しく紹介いたしましたので割愛いたします。

さて、1月19日は朝から冷え込み、市内マイナス14度、神楽マイナス19度という厳しい寒さではありましたが、光世とともに『氷点』の舞台に設定した見本林を二人で訪れ、カラスの屍やスキーをする子供たちの姿を見ます。[3]

しかし、この厳しい寒さも、1902(明治35)年1月25日、北海道石狩国上川郡旭川町(現・旭川市)にて氷点下41度を観測したことを思えばずっとましです。これは富士山頂の記録よりも低く、のち高橋製菓(旭川市)が1989(平成元)年2月より「氷点下-41°ひょうてんかよんじゅういちど」を販売、旭川を代表する銘菓となったくらいにインパクトのある数字なのです。[4][5]

そして、旭川市氷点下41度を観測したこの年、共成(株)の旭川支店では、豆菓子「旭豆」を販売が始まりました。現在に至るまで、旭川の銘菓として親しまれおります。[6]三浦綾子記念文学館では、共成製菓株式会社よりご提供を受け、三浦綾子生誕100年の日に、ご来館者のみなさまに配布をいたしました。[7]

1月22日、光世が出勤途中の四条八丁目のバス停で『氷点』というタイトルを思いつきます。[8]

1月25日、朝日新聞大阪本社創刊85年の日を迎えます。[9]

応募原稿を書いたり、小説を書くために様々な小説を読んで勉強をする日々の中でも、夫妻はあくまで信仰第一の生活を送ります。

これは一例ですが、『日本キリスト教団旭川六条教会100周年記念誌』(日本キリスト教団旭川六条教会)によると、2月3日には、旭川六条教会・冬季振起礼拝が開催され、その後愛餐会あいさんかい、懇親会に出席し、1963年度の標語「主の証人として働こう」をテーマに出席者らと話し合っています。[10]

4月5日、第2回女流文学賞授賞式が東京会館にて開催されました。受賞者は佐多稲子と瀬戸内晴美(現寂聴)。ちなみに、この日の伊藤整の日記には、受賞式に出席したことが記されています。[11]

4月7日、日本近代文学館の創立総会を挙行、初代理事長は高見順でした。[12]

5月1日、五十嵐広三が旭川市長選挙に当選します。[13]
日本初の歩行者専用道路を実現した人物として知られていますが、この買物平和公園は今年オープンから50年を迎えました。五十嵐広三のことは綾子も複数のエッセイに書いておりますが、今年10月に刊行された北野宏明『強い国より優しい国 元旭川市長・元内閣官房長官 五十嵐広三伝』(北海道新聞出版センター)には綾子のことや三浦綾子記念文学館開館前の事項も詳述されており、興味深い読み物となっております。

さて、同じく5月、文芸雑誌「近代説話」が第11号で終刊します。このことについては日を変えて改めて紹介いいたします。

丹羽文雄「新聞小説作法」(全16ページ)を頼りに書き進める日々

当時、小説の書き方は何も知らなかった綾子は、手紙か日記でも書くように、書き始めていきます。

そんなある日、古本屋で『文章講座4 創作方法一』(河出書房)を求め、その中の丹羽文雄「新聞小説作法」(全16ページ)[14]を見つけて繰り返して読みます。

丹羽文雄は日本文芸家協会理事長を長く務めるなど文壇のまとめ役的存在で、さらに30年にもわたり同人誌「文学者」を自費で発行し、瀬戸内晴美(寂聴)、河野多惠子、吉村昭、津村節子ら多くの作家、評論家を育てました。

同様に作家になった綾子も『積木の箱』を執筆したのは丹羽文雄に「自分のよく知っている世界を書くことが第一ですよ。場所にしても。人物にしても」と忠告を受けたことにあるとしています。[15]

7月23日、18時より第49回芥川賞(1963年上半期)選考会が築地の新喜楽にて開催。受賞作は、河野多惠子「蟹」(初出「文學界」1963年6月号)と後藤紀一「少年の橋」(初出「山形文学」1962年11月号、のち「文學界」1963年2月号に転載)でした。[16]

同日同時刻同所にて、第49回直木三十五賞選考会が開催、瀬戸内晴美(現瀬戸内寂聴)「あふれるもの」(初出「新潮」1963年5月号)が候補作となります。[17]

後年、瀬戸内寂聴は小説『いのち』でこのころのことや河野多惠子や大庭みな子との交流を描いています。[18]

8月1日、田辺聖子「感傷旅行」が「航路」第7号に掲載されました。この作品は翌年1月、第50回芥川賞受賞します。[19]

「わたしは作家です」

8月15日、旭川市に東旭川町が編入・合併しましたが、その翌8月16日の出来事を『この土の器をも』(二十九)から紹介します。

この日、綾子は松本清張の講演を聞くために日章小学校に出かけます。白鳥事件の村上被告を援助する講演会で、2,000人ほどの聴衆が集っていました。講演を聞いたその夜、綾子は興奮します。しかも松本清張が宿泊しているホテルに電話をかけて、直接話すという行動に出たのでした。幸い、松本清張は「今すぐいらっしゃい。お会いしましょう」と言ってくれたのですが、自分の心の奥底に潜在するいやらしい気持に気付いてその誘いを断ったのでした。

2022年は、松本清張没後30年の年でもありました(1992年8月4日逝去)。
今も多くの作品が読み継がれ、映像化されています。

このころの社会的出来事を見てみましょう。

9月、北海道炭砿鉄道株式会社空知鉱・神威鉱が同時に閉山します。[20]このことは歌志内市に大きな影響を与え、市議会では全会一致で非常事態宣言を行います。[21]

この年、三井美唄鉱、三菱芦別鉱、明治庶路鉱閉鉱。北炭空知鉱、北炭神威鉱、住友奈井江鉱などが大手炭鉱、第二会社へ移行します。[22]
時代は石炭から石油の時代へ移ります。

10月18日[23]、西口彰連続強盗殺人事件が発生、世間は震撼します。『道ありき』四十三に「殺人魔西口」という表現がありますが、この事件を指しています。[24]

11月23日、初の日米間テレビ宇宙中継受信実験に成功しますが、それはケネディ大統領暗殺ニュースでした。[25]

11月に入ると、旭川では本州よりも一足早く冬が訪れます。

このころのことは『ごめんなさいといえる』所収の光世日記にありますので、本稿での照会は割愛しますが、朝日新聞旭川支局および朝日新聞東京本社広報部のご協力とご厚意により『氷点』入選当時の、同社の社内誌をご寄贈いただいたことにより、解けた謎が一つご紹介いたします。

それは「コピーは200枚ほど、ついに取らずに終わった。」(『この土の器をも』三十)とありますが、実はこの応募原稿は後日返送され、ここに書き込む形で新聞連載の書き直しを行ったことが判明しました。館で所蔵している応募原稿は、提出したものにしては、随分書き込まれているように思えましたが、長年の謎がようやく解けました。[26]

この新資料は、7月29日より2022年度企画展「三浦綾子生誕100年記念特別企画展 プリズム─ひかりと愛といのちのかがやき─」で展示しております。ただいま年末年始休館中のため、来年1月6日(金)の年初開館日から3月21日(火)までご覧になれます。

長くなるので一旦ここで区切ります。
「第1章:(2)作家前夜その2~~1964(昭和39)年」に続きます。

(文責:岩男香織)


注 

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[1] 美の使節・ミロのビーナス 朝日新聞百年史編修委員会編『朝日新聞社史 昭和戦後編 昭和二〇年(一九四五年) 昭和六四年(一九八九年)』朝日新聞社、1994年7月10日参照。「ミロのビーナス特別展示の前年昭和三十八年に大阪本社は創刊八十五年(一月二十五日=八十五年目の意)、東京本社は創刊七十五周年(七月十日)をむかえた。その記念事業として朝日はこの年、「エジプト美術五千年展」の開催など五つの企画を実施した」(p346上段)とある。懸賞小説は、記念事業の一つにすぎなかった。「エジプト美術五千年展」以外の記念事業は以下の通り。(同p346下段参照)

▽ロンドン交響楽団の公演=第六回大阪国際フェスティバルに参加したロンドン交響楽団の演奏会を東京など六都市で開催。
▽新聞小説の募集=当選作に賞金一千万円提供。
▽「朝日農業賞」の創設=新しい農家の建設事業に特に著しい業績をあげた優良地域集団に贈呈。
▽「朝日学術奨励金」の設置=従来の「朝日科学奨励金」を「朝日学術奨励金」と改め、対象を自然科学だけでなく人文科学の分野にまで拡大。

朝日新聞百年史編修委員会編『朝日新聞社史 昭和戦後編 昭和二〇年(一九四五年) 昭和六四年(一九八九年)』朝日新聞社、1994年7月10日、p346上段

[2] 朝日新聞百年史編修委員会編『朝日新聞社史 資料編 明治12年(1879年)~昭和六四年(1989年)』朝日新聞社、1995年1月25日、p559。

[3] 『小さな一歩から』所収「一寸先は……」には「そして一月十日には、二人で、見本林に取材に出かけた。零下二十度もあったろうか。」とあり、子供たちにカラスを並べるように言う文章が続くが、『ごめんなさいといえる』所収の光世の日記を典拠とした。なお、この年の1月10日は木曜日のため、光世と出かけるのにはやや無理がある(1月19日は土曜日)、

[4] 山本候充『日本銘菓事典』東京堂出版、2004年8月20日、p15

[5] 高橋製菓・特産品インデックス|社団法人旭川物産協会
高橋製菓・特産品インデックス|社団法人旭川物産協会 (asahikawa-bussan.net)

[6] 共成製菓株式会社は明治30年小樽に本社を置く精米業の共成(株)の旭川支店として設立、昭和30年に独立して今の社名となった。
共成製菓・特産品インデックス|社団法人旭川物産協会 (asahikawa-bussan.net)

[7] 北海道新聞朝刊(日曜版)別刷、日曜Navi「味力探訪 旭豆」1面-2面、2022年11月20日

[8] この年譜では、光世の日記に基づき、光世が『氷点』のタイトルを思いついたのを1月22日とした。『ごめんなさいといえる』(小学館)に併録された1963年1月22日の光世の日記には次のようにある。

朝、綾子の小説の題、発案。
「氷点」綾子曰く「スバラシイ題デス。さすがはあなたです。」

三浦綾子『ごめんなさいといえる』

『「氷点」を旅する』に収録された光世の随筆「小説「氷点」に思う」には次のような記述がある。

 タイトルを「氷点」と提案したのも私である。一月十二日の朝、通勤の途次、私は乗り換えのバス停で、
 (今朝は、氷点下何度くらいかな…)
 と辺りを見まわし、
 (氷点下……うん、綾子の小説、氷点はどうか)
 と思ったことがきっかけであった。
 その日、帰宅して、
 「綾子、その小説『氷点』というタイトルにしてはどうか」
 途端に綾子は声を上げ、
 「あら、素敵ね。さすがは光世さんね」
 と、大いに感服してくれた。綾子が「さすがは」と言ったことなど、すっかり忘れていたが、昨年何かの資料を探していて、偶然そんな記録を見つけた。

三浦光世 小説「氷点」に思う(『「氷点」を旅する』)

[9] 美の使節・ミロのビーナス 朝日新聞百年史編集委員会編『朝日新聞社史 昭和戦後編 昭和二〇年(一九四五年) 昭和六四年(一九八九年)』朝日新聞社、1994年7月10日、p346上段

[10] 旭川六条教会 創立100周年記念事業委員会編『日本キリスト教団旭川六条教会100周年記念誌』日本キリスト教団旭川六条教会、2003年5月1日、p135上段。「浅川兄、沼田兄、三浦綾子姉」とあるが、浅川泰、沼田進、三浦綾子か。

[11] 1963年4月5日伊藤整日記 伊藤整著、伊藤礼編『伊藤整日記 6 一九六三-一九六五』平凡社、2022年3月25日、p40下段

[12] これまでの歩み – 日本近代文学館 (bungakukan.or.jp)
これまでの歩み – 日本近代文学館 (bungakukan.or.jp)

[13] 北野宏明『強い国より優しい国 元旭川市長・元内閣官房長官 五十嵐広三伝』北海道新聞出版センター、p47および第3章参照。

[14] 丹羽文雄 新聞小説作法 『文章講座 第4巻 創作方法(1)、1954年12月15日、河出書房、p123-139 

[15] 夕刊小説積木の箱の連載にあたって 教育の悩みを主題に 初出:朝日新聞夕刊、1967年4月13日、朝日新聞社、のち『三浦綾子電子全集 積木の箱』(上)および『ごめんなさいといえる』(2014年4月25日、小学館)に収録。※電子全集では出典不明となっている。

[16] 西山嘉喜『芥川賞・直木賞150回全記録』文春ムック、文藝春秋、2014年3月1日、p75

[17] 西山嘉喜『芥川賞・直木賞150回全記録』文春ムック、文藝春秋、2014年3月1日、p75

[18] 瀬戸内寂聴『いのち』初出「群像」(講談社)2016年4月号~2016年9月号、2016年11月号~2017年1月号、2017年3月号、2017年7月号。のち2017年12月に単行本『いのち』(講談社)、2020年10月に講談社文庫版『いのち』が同社から刊行。

瀬戸内寂聴『瀬戸内寂聴全集 弐拾伍』新潮社、第25巻、2022年5月30日、p260 このころの回想としてに以下の本文がある。

 河野多惠子は一九六三年、芥川賞「蟹」という小説で見事かち取った。その報を私は旅先の北海道で知った。私は思わず、その場で飛び上って、両手で天を突いていた。自分の小説がその時直木賞の候補になり、落ちたことなど、全く気にならなかった。私は直木賞ではなく芥川賞が欲しかったのだ。しかしそれを河野多惠子が取ったことで口惜しいという気持が全くおこらないのが不思議であった

瀬戸内寂聴『瀬戸内寂聴全集 弐拾伍』新潮社、第25巻、2022年5月30日、p260 

[19] 初出一覧 『田辺聖子全集 別巻1』集英社、2006年8月10日、p481

[20] 年表 歌志内市史編さん委員会編『新歌志内市史』歌志内市、1994年3月31日、p1954

[21] 歌志内市史編さん委員会編『新歌志内市史』歌志内市、1994年3月31日、p1243

[22] 永井秀夫・大庭幸生編『北海道の百年』県民百年史1、山川出版社、1999年6月25日、年表p17

[23] 福田洋著、石川保昌編『図説 増補新版 現代殺人事件史』ふくろうの本、新潮社、2011年4月30日増補新版初版刊行、p26

[24] 1975(昭和50年)に刊行され、同年第74回直木賞受賞した佐木隆三の長編小説『復讐するは我にあり』は、この事件をモデルとしている。

[25] 西井一夫編 毎日ムック『戦後50年』毎日新聞社、1995年3月25日、p139

[26] 本田大次郎 氷点「初めから書き直した」 朝日新聞社内報に選考担当の記事 三浦綾子記念文学館で展示 朝日新聞朝刊13版20面(道内)、2022年8月18日

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