【2022年ゆく年くる年】年末年始読み物企画「三浦綾子生誕100年~新たな100年へ」第1章:(1)1922(大正11年)

事務局ブログ
レイ
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こんにちは! レイです。またお目にかかれてうれしいです。

もうすぐ2022年も終わりですね。皆さんにとって今年はどんな年でしたか?

私にとって今年一番の出来事は、4月25日(月)に、三浦綾子生誕100年の日を迎えたことでしょうか。

また、10月12日には『三浦綾子生誕100年記念文学アルバム―ひかりと愛といのちの作家―』(以下『生誕100年記念文学アルバム』)が刊行されました。既刊の文学アルバムには未収録の写真や資料を随所に掲載、「自作年譜」や「著作目録一覧」等を加えた、文字通り三浦綾子ファン必携の一冊です。

今年が三浦綾子生誕100年であることから、年末年始の読み物に選んだのは、綾子が生まれた年1922(大正11)年のこと、作家・三浦綾子誕生を語る上で欠くことができない1963(昭和38)年~1964(昭和39)年の2点です。年初1月1日以降に公開する内容については、来年のことを言うと鬼が笑うので今は言えません! では始めます。

※参考文献は最終回分にまとめて掲載します。膨大な量になるため、主要参考文献のみの掲載といたします。予めご了承をいただければ幸いです。

第1章:1922(大正11年)

4月25日、三浦綾子(旧姓堀田)、旭川区にて誕生

今から100年前の1922(大正11)年4月25日、堀田綾子は、北海道上川郡旭川区4条通16丁目左2号(現・旭川市)で誕生しました。

自伝小説『草のうた』には、仮死状態で産まれたことを誕生日の度に「お前はね、臍の緒を首に巻いて、泣くことも出来ずに、ぐったりとして生まれたんだよ」と、生まれた日の朝、向井病院が火事であったことと共に父母や祖母から何度も聞かされたとあります。

そのせいでしょうか。「私は自分の生れた朝が、なぜか雨雲の低く垂れこめた朝のような気がしてならない」と感じます。

この年の家族構成は以下の通りです。

地元の新聞社に営業部員として勤める父・鉄治(数えで33歳/以下同)、母・キサ(29歳)、長男・道夫(12歳)、次男・菊夫(10歳)、三男都志夫(7歳)、長女・百合子(4歳)、鉄治の末妹(叔母)・スエ(13歳)。綾子は第五番の子で、次女でした。

父方の祖父母はすでにこの世になく、母方の祖母佐藤エツが近所に住んで、毎日のように子だくさんの堀田家に手伝いに来ていました。

自伝小説『草のうた』の冒頭は、エツが語るひと口話を聞く場面から始まります。「おばあちゃんのひとくちばなし」(いずれも『国を愛する心』所収)「私がユーモアのある人間だと言われるようになった陰には、祖母のこのひとくちばなしが大いに役立っていると思うのである」とも記しています。

また、エツの温かく優しい人柄については「泣く者と共に」(『国を愛する心』所収)に記されております。機会があればお読みいただければ幸いです。

誕生日の到来を1歳とする満年齢を推奨する法律(「年齢のとなえ方に関する法律」)が施行されるのは、1955(昭和30)年1月1日(公布1949年5月24日)[1]ですから、当時は数え年で年齢を考えるのが一般的でした。例えば、小説『氷点』では、大正5年生まれの辻口啓造が数え年二十で夏枝と結婚したと陽子に話す場面がありますね。

「陽子はことしいくつになったんだね」
「陽子ちゃんは十九になりましたのよ」
(略)
「ほう、十九? 十九の春か。厄年だな。そうか、早いものだなあ」
(中略)
「いやよ、十九なんて。十七なんですもの、まだ」
「だがね。おとうさんには数え年の方が見当がついてピッタリするよ。むかしの十九というのは感じがあったよ。そうそう、おかあさんは陽子の年に婚約したはずだったね?」
 夏枝があいまいに微笑した。
「そして、二十で結婚したんだからね。陽子もそんな年になったというわけか」

三浦綾子『氷点』[とびら]

今年8月1日、旭川市制施行100年を迎えたことは記憶に新しいのですが、自伝小説『草のうた』には、生家があった場所について詳しく書かれています。百年前の旭川の様子を振り返る意味でも、長くなりますが、引用いたします。

 私の生まれた家の近くには宗谷本線が走っていた。家の前で遊んでいても、長い貨物列車や客車が過ぎていくのがよく見えた。わが家を中心にして、三百メートル半径内に酒の醸造元が数軒あり、味噌醸造、醤油醸造の大店もあった。それぞれに、石造りや白壁の大きな蔵を構え、正月や祭りには、青、白の幔幕や、紅白の幔幕が張りめぐらされていたものだ。百メートルほど西の横通りは、今も銀座通りと言われ、商店街として賑わっているが、当時も果物屋、金魚屋、植木屋などが露店を出し、バナナの叩き売りをする向こう鉢巻の若い衆の声が威勢よくひびき、こってりと甘い餡のふんだんに入ったお焼屋もあり、活気のある商店街であった。わが家のすぐそばの横通りには、朝の六時から朝市が立って人々が群れをなし、わずか二時間ほどで、客も市も魔法のように消える毎朝であった。その朝市が消えたあとに、飴屋の屋台が出、赤い銅盤の焼板に飴を垂らして焼いて見せたり、幼い私には何をどうするかよくは見えなかったが、たたんだ豆絞りの手拭いを粋に頭に置いた中年の男が、ガラス細工を造るように細い管で飴を吹くと、その管先に見る間に小鳥が出来上がる。その小鳥に赤や緑の色をちょんちょんと塗ると、食べるには惜しいような、玩具にも似た小鳥となる。それを私たち子供は、まばたきもせずに、じっとみつめている。手には母にもらった一銭玉を固く握って、小鳥が幾つも幾つも管先から生まれるのを、飽きもせずにみつめつづけ、そのどれを買おうかと真剣に思案して買うのが、要するに一銭値だけだった。言ってみれば、私の生まれた界隈は下町ふうな情緒があった。

三浦綾子『草のうた』6

この場面を元に、天気の良いときに文学散歩をしてみるのも三浦文学の楽しみ方の一つです。文学マップは館内で配布しております。お気軽に職員までお声掛けくださいませ(道外の方で、事前に郵送をご希望の場合は、電話かメールでお問い合わせくださいませ)。

三浦文学案内人・森敏夫さんが【案内人ブログ】No.39に記したこちらの記事もお読みいただければと思います。

1922(大正11)年どんな年?

では、1922(大正11)年の出来事を紹介してまいります。三浦綾子に関するものもあれば、それ以外の事柄もありますが、100年前の出来事を見て、綾子が生まれた1922(大正11)年という年を振り返ってみましょう!

1月27日、矢嶋楫子やじま かじこ(数え年90歳)が倒れて意識不明となります。[2]
矢嶋楫子については、のちに『われ弱ければ 矢嶋楫子伝』という伝記小説を書いています。「われ弱ければ 矢嶋楫子伝」(監督=山田火砂子)として映画化され、今年1月8日に完成披露試写会が熊本城ホール(熊本県熊本市)にて開催されました。その後全国各地で上映されています。

3月22日、上富良野村長の父・吉田貞次郎、母・アサノの間に三女・弥生が誕生しました。『続泥流地帯』に実名で登場する弥生ちゃんです。現在上富良野町では、小説『泥流地帯』『続泥流地帯』の映画化実現に向けて取り組んでいますが、コロナ禍もあり制作が遅れている状況です。三浦綾子記念文学館では引き続き上富良野町と協働し、映画化実現にむけて動いてまいります。

5月15日、作家・瀬戸内寂聴が徳島市で誕生。綾子と同じ年だったんですね!

8月1日、前述のとおり旭川区は市制施行に伴い旭川市となります。

9月18日、知里幸恵が『アイヌ神謡集』の校正を終えた後の急逝しました(享年19)。エッセイ「あなたの若い日に」(『明日のあなたへ』所収)では知里幸恵のことを紹介していますが、知里幸恵は綾子にとって、同じ女学校に通った先輩にあたります。

この月、幼馴染でのちに信仰に導いてくれた恋人・前川正が、父・友吉の勤務都合により、歌棄郡熱郛村(現黒松内町)に引っ越しています。

11月13日、作家・豊田正子が東京にて誕生。[3]映画「綴方教室」(制作=東宝映画、監督=山本嘉次郎)の原作者としてその名が知られています。映画監督・山田洋二との対談『希望、明日へ』でもこの映画が話題になっていましたね。女学校2年生の時、綾子は人間関係のうとましさから休学を決意し、読書三昧の日々を送ります。このころの綾子が読んだ本の中に『綴方教室』もありました。

11月25日、歌人・中城ふみ子が帯広にて誕生します。
これは余談ですが、1954(昭和29)年、中城ふみ子は札幌医科大学付属病院のがん病棟に入院していました。この時、直木賞作家・渡辺淳一は同大学医学部1回生でしたが、その当時彼女が入院していたことを知らなかったといいます。[4]

(綾子も同大学病院に入院していた時期がありますが、前年10月退院しています)

渡辺淳一と綾子と言えば、真っ先に思いつくのは共に「らいらっく文学賞」の選考委員をしていたことでしょうか。少し調べてみると、他にもいくつかの共通点がありました。

まず、二人とも佐渡にルーツがあること[5]

次に、綾子が歌志内で教員をしていたころ、渡辺淳一の祖母は1949(昭和24)年まで歌志内で商店を営んでおりました。[6][7]

3点目には、1941(昭和17)年10月から、渡辺淳一は父の転勤に伴い旭川市に転居し、北海道旭川師範学校附属国民学校初等科第3学年に編入し[8]、その後1944(昭和19)年4月に父の転勤に伴い、同年10月24日に再び札幌に戻ります。[9]
(この日、レイテ沖海戦により日本軍が主力を失ったことは『石ころのうた』十二にあります)

このころ、綾子は旭川に戻っていましたから、もしかしたら二人はどこかですれ違っていたかもしれません。

特筆すべくは、1975(昭和50)年8月11日に開催された「三省堂旭川店開店記念 文化講演会」のことです。この日の講演会では、綾子「小説と登場人物」だけではなく、渡辺淳一「文学と映像」、松本清張「歴史と推理」と当時の売れっ子作家三人が旭川市民文化会館大ホールに集結。
(共催=株式会社三省堂書店/北海道書店組合旭川支部、後援=北海道新聞旭川支社、協賛=西武旭川店)[10]

先着順とは言え、綾子だけではなく、この三人の講演が入場料無料で聴けるのはなんと贅沢なことでしょう。当日行かれた方がうらやましい! しかも翌日にはこのメンバーで旭岳などを訪れています。

残念ながら三省堂書店も西武百貨店の旭川店も今はありませんが……

描かれる年代は少し後になりますが、昨年3月に上演された旭川歴史市民劇「旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ」(於旭川市民文化会館小ホール)の公演やDVDをご覧になられた方はいらっしゃいますか。この劇の台本は、那須敦志『旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ-コロナ渦中の住民劇全記録』(中西出版)に収録されており、綾子の幼少時代を理解する上でおすすめの1冊です。

劇中には、小熊秀雄や佐野文子、スタルヒンなど、旭川に実在した人物が複数登場します。一瞬ではありますが、5歳の堀田綾子も、もちろん出てきます。柴田望(鈴木政輝役)、木暮純(今野大力役)といった旭川在住の詩人の二人が実在の詩人を演じたのも詩人にしか醸し出せぬ雰囲気があり、この劇の見どころの一つです。三浦綾子記念文学館公式YouTubeでは引き続き小熊秀雄作品朗読会(2020年10月24日開催、於三浦綾子記念文学館)を配信しております。ご興味がおありでしたらお聞きいただければ幸いです。

※長くなるので、続きの「作家前夜その1」は、別の記事にページに分けます。

(文責:岩男香織)


注 

[1] 宇野俊一ほか編『日本全史(ジャパン・クロニック)』講談社、1991年3月15日、p1096

[2] 『われ弱ければ 矢嶋楫子伝』に以下の本文がある。

 一月二十七日のその日、すなわち楫子が帰国して七日目、矯風会本部の会館において、感謝祈祷会がもたれ、梶子はこの会に出席した。が、会員が歓迎会の準備をしているさなかに、楫子はついに倒れたのである。

三浦綾子『われ弱ければ 矢嶋楫子伝』[天洋丸]

[3] 石戸暉久 豊田正子『綴方教室』の原風景―向島から葛飾への道― 町の文化と歴史をひもとく会編『木根川の歴史2~時の流れを超えて想う町の歴史~』町の文化と歴史をひもとく会、2010年7月18日、p134
東京市本所区向島小梅町(現・東京都墨田区向島)で誕生。ブリキ職の父・幸五郎と母・ゆきのと長女。

[4] 渡辺淳一 思い出すこと 『文藝別冊 歿後一年総特集 渡辺淳一』KAWADE夢ムック、河出書房新社、2015年3月30日、p95-98 初出「短歌」1984年10月号、p95に以下の通りある。

中城ふみ子が札幌医大病院の癌病棟で息をひきとったとき、わたしは同じ大学の医学部の一年生であった。
 もし彼女を見舞う気になれば、大学と道路一本へだてた病院へ行けば会えるはずであった。
 だがわたしは会っていないし、当時、中城ふみ子という歌人が乳癌で入院していることも知らなかった。

[5] 川西政明・阿貴 編 年譜『渡辺淳一の世界』集英社、1998年6月10日、p242には「𠆢」の下に「加」の屋号が記されている。また、母方の祖父・渡辺宇太郎は東京市麹町区麹町平河町5丁目34番地出身、祖母・イセ(旧姓仙田)は新潟県佐渡郡小木町大字小木町690番戸の出身であるとしている。

[6] 注5に同じ。

[7] 川西政明・阿貴 編 年譜『渡辺淳一の世界』集英社、1998年6月10日、p243

[8] 川西政明・阿貴 編 年譜『渡辺淳一の世界』集英社、1998年6月10日、p242

[9] 川西政明・阿貴 編 年譜『渡辺淳一の世界』集英社、1998年6月10日、p242

[10] 既存の複数年譜および自伝『命ある限り』では講演日は8月12日としているが、いただいたご指摘により館内資料を調査したところ8月11日が正当であることが判明した。

三省堂書店旭川店開店記念 文化講演会
日時:1975年8月11日(月)午後6時~
会場:旭川市民文化会館大ホール
共催:株式会社三省堂書店、北海道書店組合旭川支部
後援:北海道新聞旭川支社
協賛:西武旭川店
演題:小説と登場人物

三省堂書店旭川店開館記念 文化講演会 講演案内(三浦綾子記念文学館所蔵資料)
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