【案内人ブログ】No.27(2019年6月)

三浦綾子文学『道ありき』の春光台における足跡を辿る調査研究

綾子さんが、70年前に幼馴染で恋人の前川正と散策した春光台の丘の道はどこか。
郷土史家の小原陽一さんが三浦綾子文学『道ありき』の春光台における足跡を辿る調査研究をまとめ、先日、現地で見学説明会を行いました。

旭川市の北に位置する丘陵地の春光台は戦前、陸軍第7師団の演習場でした。戦後、第7師団がなくなると、春光台は食糧増産と外地からの引揚者の受け入れための開拓が始まりました。
小原さんは昭和27年春光台で生まれた開拓者二世です。豊かな自然が残る春光台で育ちました。そして、綾子さんと前川正が春光台を散策したことを知り、小原さんは春光台公園に文学碑を建設する呼び掛け人になりました。しかし、この2014年6月の『道ありき』文学碑建設のころは、この道を特定することができませんでした。小原さんは、その後、開拓期を知る地域の人など約70人から聴き取るなど、70年前に綾子さんが前川正と歩いたであろう(と思われる)道を調べた結果をまとめ、今回、発表していただけることになりました。

今回のコースをご覧ください(図:小原陽一さん作成)。見学会で案内していただいたS字カーブの道②と③の間は、笹が生い茂り倒木が道をふさいで歩くことができませんでした。(見学会の後、片付けられて道は歩けるようになりましたが、土砂崩れの跡があるなど、安全に歩けるようになるにはまだ整地が必要かと思います)

小原さんは見学会の1年近く前から調査の経過を、その都度私に熱く語ってくれました。70年も前のことですから開拓期を知る人たちも高齢化しており、早くしなければならないという焦りもあったと言います。小原さんは一つの調査仮説がくずれるとまた考え直し、あくまでも事実に添おうと文献に当たるなどして修正し、説明してくれました。
私は、小原さんの話に感動し引き込まれていきました。そして小原さんの、この探求心はどこからくるのだろうか? 小原さんが生まれ育った春光台に対するふるさと愛ではないかとも思いました。

綾子さんは、この丘でのことを、「自分たちの住む街が、紫色に美しくけぶるのを眺めながら、いつものように短歌や、小説の話などをした」「前川正が二人のために祈り、一生懸命生きましょうねと言った彼の言葉が今も聞こえてくるような気がする」(『道ありき』二一)と書いています。
私には、この丘から自分の住む街を眺める場面は、綾子さんの小説『続泥流地帯』で、石村耕作が深山峠の小高い台地で生徒たちに語る場面に重なります。

深山峠は、上富良野の市街から一里半ほど旭川寄りの所にある。(略)
「すばらしいだろう。これがお前たちのふるさとだ。よっく心に焼きつけておけ」
「いいか、よく聞くんだ。自分たちのふるさとを胸に焼きつけておくということは、人間として大事なことなんだ」

(『続泥流地帯』深山峠)

綾子さん自身が心に焼きつけた、春光台の丘から眺めた旭川の街を思いながら、石村耕作に、深山峠から眺めたふるさと上富良野を「よっく心に焼きつけておけ」と言わせているように思います。
ここには、綾子さんの春光台体験とでも呼べるもの、綾子さんが綾子さんになっていく体験があると思います。

小原さんの調査研究は、綾子さんが恋人の前川正と「歩いたであろう道」といっています。その道を確定はしていません。有力な仮説ではあると思いますし、もしかすると二人が歩いた道は1本だけではなかったかもしれません。
それにもまして小原さんのお話の感動的なのは、私たちに綾子さんの思い、体験をより身近なものに感じさせ考えさせてくれ、綾子さん理解をより深めてくれるところにあると思います。
小原陽一さんの素晴らしい調査研究、ありがとうございました。私もまた、綾子さんが歩いた春光台の道を歩いてみたいと思いました。

「君たちはいつの日にか、この村を離れて、ほかの町に住むようになるかも知れない。しかし、そこに楽しいことが待っているとは限らない」

「いや、つらい目に会ったり、苦しい目に会ったりすることが、多いかもしれない。そんな時にな、ふっとこの広大な景色を思い浮かべて、勇気づけられるかも知れないんだ。人間はな、景色でも友だちでも、懐かしいものを持っていなければならん。懐かしさで一杯のものを持っていると、人間はそう簡単には堕落しないものなんだ」

(『続泥流地帯』深山峠)

by 三浦文学案内人 山崎健一

 

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