例年以上の猛暑・酷暑を経て、ようやく秋らしい気温になってきたでしょうか。静かな夜には読書も進み、あらためて手元にあった何冊かを開いてみました。
三浦綾子には、小説、エッセイ、絵本はじめさまざまな著書がありますが、ふと、講演集に目が止まりました。
『なくてならぬもの~愛すること生きること~』(光文社文庫、1997年)。8つの講演録が収録されていますが、その中の1つ「私と小説」は、1987年6月3日、兵庫県明石市民会館での講演です(綾子65歳)。
5歳くらいに始まる読書歴、みずからの体験と小説について、『泥流地帯』『氷点』についてなどが具体的に述べられていますが、小説のテーマについてはこのようなことも語られていました。
仮にA、Bという二本の道路があるとします。ある人がA道路を歩いていく。そして、誰かに殴られて死んだとする。B道路を歩いている人は、A道路での事件があることも何もわからないで歩いていく。「この場合、この事件について何も知らなかった人は責任がないと思いますか」、という質問をした青年がいました。私はそのとき「知らなかったんだから、仕方がないんじゃない?」と答えたら、その人は黙って去っていきました。後で気がつきましたけれども、人間が連帯のなかで生きていくということは、「こっちで誰かが死んだことを私は知らなかったのよ。だから、責任がないのよ」だけですませるかどうかというところに、一つの問題を私たちはもらっているわけですね」
三浦綾子『なくてならぬもの~愛すること生きること~』[私と小説]より
順序は前後しますが、この文章の前には、このような言葉も――。
小説を書くものは、すべて、人間の出来事に無関心であってはいけないということを聞いたことがあります。たとえ、世界の片隅のどこかであることであっても、そこでまさしく人間が苦しみ、人間が悲しんでいるならば、そのことを自分のことのように感ずる魂がなくてはいけないということも聞きました。
三浦綾子『なくてならぬもの~愛すること生きること~』[私と小説]より
小説を書く人とは、「すべて、人間の出来事」に関心を抱く人であり、他者がどこかで苦しみ、悲しんでいるならば、それを「自分のことのように感ずる魂」が必要だと述べています。他者に対する共感・共苦から、小説のテーマは生まれるということなのでしょう。
『苦海浄土』で知られる石牟礼道子の言葉も思い起こされます。とくに、「もだえ神の精神」という言葉です。
田中優子『苦海・浄土・日本 石牟礼道子 もだえ神の精神』(集英社新書、2020年)によると、「もだえ神の精神」とは、非当事者が当事者の心の痛みに近づき寄り添おうとする時に発露する感情だそうです。「もだえてなりとも加勢(かせ)せんば」という言葉もあり、たとえば、病で苦しむ人を、実際には助けることができなくても、「治ってほしい」というひたすらな思いで真っ先に駆け付け、隣に身を置いて、もだえるほどに苦しむ存在のことだそうです。
共にもだえ、共に震え、共感と共苦のあわいを揺れつづける魂を持つ人によって、小説は書かれるものなのでしょう。
秋の夜長、そんな魂で書かれた小説に、想いを馳せてみませんか。
