『夕あり朝あり』( 三浦綾子小説作品 はじめの一歩 )

“はじめの一歩”とは?

三浦綾子の作品を〝書き出し〟でご紹介する読み物です。
気に入りましたら、ぜひ続きを手に入れてお読みください。出版社の紹介ページへのリンクを掲載していますので、そちらからご購入になれます。紙の本でも、電子書籍でも、お好きなスタイルでお楽しみくださいませ。物語との素敵な出会いがありますように。

三浦綾子記念文学館 館長 田中綾

小説『夕あり朝あり』について

連載 … 北海道新聞(三社連合)1986年9月〜1987年5月
出版 … 新潮社1987年9月
現行 … 新潮文庫・小学館電子全集
白洋舍はくようしゃを創設し日本初のドライクリーニングを開発した五十嵐いがらし健治けんじ。絶望の波打ち際で出会った天地創造の神から洗濯業を与えられた健治の人生は、神を信頼し御心を選び続けて疾走する生きかたの力強さを証明する。

「二人の母」

 はあ、私の母の名前ですか。母は「けい」と申しましてな、目の大きい、すらりとした、ま、見目形のうるわしい、実に優しい女でした。お笑いになるかも知れませんが、私は、八十歳を過ぎた今でも、母の名を口にしただけで、胸がじーんと熱くなりましてな。
 と申しますのは、私が生まれた僅か八ヶ月後に、母は離縁されてしまったからなのです。はあ、私の生まれたのは一八七七年、明治十年の三月十四日でした。
 離縁の理由ですか。離縁の理由なんてものは、当事者でなければわからぬことでしてな、聞いただけの話を語るのは気が進みませんが、何でも父は非情に嫉妬深い男だったとか…
…。
 私の父船崎資郎は、越後の中頸城なかくびき郡新道村大字鴨島かもじま村で祖父と共に酒造業を営んでおりました。高田駅から車で十分、市内のようなものですが、その鴨島の一画の五百坪程の土地に、白壁の酒蔵が三つ並んでいましてな、ほかに土蔵もあったのを覚えております。家の大黒柱が直径一尺二、三寸もの太い欅、これが父の自慢でした。言ってみれば、母は裕福な家に嫁いだわけですが、この母の父は高田藩榊原さかきばら家の家臣で、三百石取りの馬廻り役。昭和の今では、士族だの町人だのという人は誰もおりませんが、何しろ徳川時代が終って間もない、西南の役のあった頃のこと、妻が士族の娘ということが、あるいは父に微妙に作用していたのかも知れませんな。私が「伊那の伯母」と呼んでおりました母の姉の語ったところによりますと、
「女の悋気は聞いたことがあるけれど、健治、お前のお父っつぁんの焼きもちといったら、そりゃあひどいもんだった。何せね、酒造りだから役人が検査に来るだろう、商売関係の若い衆が来るだろう。いつもいつも傍に使用人がいるわけじゃなし、おけいが応待に出ることだってあるじゃないか。そうしたらね、そりゃあもう大変な騒ぎ。何で他の男と口をきいたと、いきなり下駄で頭を殴る、腰を蹴る、可哀相におけいは生傷が絶えんかった。おそらく初めの嫁さんが逃げ出したのも、同じようにひどい目に遭わされてのことでなかったかねえ」
 ということでした。そうです、母のおけいは、先妻が二人の子を残して出たあとに嫁いだわけです。
 初めてこの話を聞きました時、私は涙がぽろぽろこぼれましてな、どうにも仕方がなかったことを覚えております。男客と話をしただけで、下駄で殴られ、しかも、幾度もあらぬ疑いをかけられて離縁になってしまったというのですから、理不尽な話です。
 生まれて八ヶ月の私を置いて出て行かねばならぬその夜、母はいつまでも私を抱きしめ、声をしのばせて泣いていたそうです。そして最後の乳をふくませ、すやすや寝入った私の顔を穴のあくほど見つめていたが、とうとう私の布団の上に泣き臥してしまって、伊那の伯母が引き離すのに一苦労をしたということです。
 こうして妻を離縁してはみたものの、翌日から父は困り果てたそうですな。それはそうでしょう、何しろ父はまだ二十三歳、最初に離縁した妻の子の寛治、サキ、次に乳呑児の私が加わっての三人、これは大変ですわなあ。
 父は早速私のために子守を雇った。その頃の子守は、下は五、六歳からで、私の子守は六、七歳だったとか、小まめにおむつを替えられるはずもなく、私の尻はいつもただれていたそうです。とにかく私を背負って、もらい乳に歩くのが精一杯。その子も、その背に括りつけられた私もさぞ哀れなものでしたろう。
 もらい乳はしたものの、そのお乳がまた充分とはいかない、先ずわが子にたっぷり飲ませねばなりませんからな。多分私は、絶えず腹を空かしていたのでしょう、痩せこけて、小猿のように皺くちゃな赤児だったそうです。近所の人々が、「いつまで生きることやら」と、ささやき合っていたということでした。
 夜になると、幼い子守は当然自分の家に帰ってしまう。私は夜毎に空腹を訴えて泣き出す。手伝いの者もいたでしょうが、生みの母とはちがいます。昼の疲れでぐっすり眠りこみ、誰も構ってはくれません。夜泣きする私に、父もおちおち眠ってはいられない、ということで、私をあの家に預け、この家に預けして、まあずいぶん転々と人手に渡ったようですな。
 三歳の時、何という宿でしたか、小さな宿屋に預けられまして、一つ所に先ずは半年おりました。それはともかく、人格の基礎は三歳までに築かれると申しましょう。その大切な時期に、私は幾人もの方々のお乳をもらい、多くの人の手から手に渡ったわけでしてな、もし生みの母のもとに育っていたら、もう少しましな人間に育ったかも知れません。
 それでも不思議なもので、その宿屋に預けられた頃は、実の母が誰か、ちゃんとわかっていたらしい。多分母のおけいは、私を案じて、折々預け先に顔を出していたのでしょうな。その宿に顔を見せてくれる度に、
「けい子おっかぁ、けい子おっかぁ」
 と、私はその首にしがみついて泣き、それを見た伊那の伯母は、泣けて泣けて仕方がなかったそうです。
 ところで私の父は、嫉妬心から二人の妻を離縁した男、何とひどい奴とお思いかも知れません。が、父は嫉妬心を除いては、それほど理不尽な男でもなかったようです。明治初年になるや否や、直ちにちょんまげを断髪する、洋服を着る、という進歩的な男でしてな、これが東京、横浜在住ならともかく、新潟の小さな鴨島村でのこと、これはなかなか勇気ある決断だったと思います。書をよくし、詩才にも長け、弁舌も巧みでしてな、けっこう人望もあった。で、市町村制実施の折、推されて初代村長となり、のちには県会議員も勤めた男でした。
 離縁された母のおけいが、小出雲村の久保田家に嫁いだのは、いつ頃だったのでしょうな。はい、小出雲村は高田から二里程南にある小さな村です。
 父には足手まといの私が、隣字上稲田の五十嵐幸七の家に預けられたのが、多分四歳の頃……上稲田からは、一本道を五百メートルも行けば生家がありましたから、子供の足にも遠くはない。祖父や父の顔が見たくなれば、走って遊びに行ったものでした。
 造り酒屋ですから、大きな酒樽が広場に干してある。その樽の中に茣蓙を敷いて、いつもママゴト遊びの相手をしてくれるのは、二つ年上の姉のサキでした。腹ちがいの姉も、私が生まれた時は数えて三つでしたから、母の顔を知らずに育った。けれども気立てのよい姉で、「健坊ちゃん、健坊ちゃん」と可愛がってくれました。白いれんげ草の花を大きな葉っぱに盛って、「健坊ちゃん、たんと食べてや」とやさしく言われると、私は何とも言えぬ甘えた気持になって、素直に食べる真似をしたものでした。
 四つ年上の兄の寛治はもう小学生で、もっぱら木登りや角力、棒をふりまわしての剣劇ごっこ、まだ四歳の私を相手に遊ぶことはなかった。それでも、時折私を風呂に入れ、背を流しながら大きな声で歌ってくれたものです。

つづきは、こちらで

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