『逃亡』( 三浦綾子小説作品 はじめの一歩 )

“はじめの一歩”とは?

三浦綾子の作品を〝書き出し〟でご紹介する読み物です。
気に入りましたら、ぜひ続きを手に入れてお読みください。出版社の紹介ページへのリンクを掲載していますので、そちらからご購入になれます。紙の本でも、電子書籍でも、お好きなスタイルでお楽しみくださいませ。物語との素敵な出会いがありますように。

三浦綾子記念文学館 館長 田中綾

小説『逃亡』について

小説宝石1972年4月 原題「さいはて逃亡」
出版 … 『死の彼方までも』光文社1973年12月
現行 … 『死の彼方までも』小学館文庫・小学館電子全集
冒険心から樺太からふとのタコ部屋に入った大場辰三は、棒頭がカフェーの女給と交わす手紙の代書をしてやって油断させ、過酷労働で死にそうな男を連れて逃げる。義兄三浦健悦の体験を基に“人間であること”への脱出口を書く。

「一」

 旭川あさひかわから三十四キロほど北寄りに、塩狩しおかりという小さな駅がある。天塩てしお石狩いしかりの国境の峠なので、このあたりは昔から塩狩峠と呼ばれている。ここに温泉があり、駅のすぐ近くに唯一の温泉宿がある。
 深山でもなく、ひらけた田園でもなく、なだらかな山が、見ていて眠くなるような静かな風景だった。
 私たち夫婦は、骨休めに二、三日滞在の予定でこの宿に来ていた。窓から四、五十メートル先に、宗谷そうや本線の土手が見える。けぶるような芽吹きの木立の間を、赤いジーゼルや、黒煙をあげる蒸気機関車がときおり上り下りする。蒸気機関車は、峠を通るたびに、大きく汽笛を鳴らして過ぎていく。私たちはその汽笛に郷愁を感じて、窓をあけて顔を出した。うららかな五月の陽が、頬に暖かかった。
 ふよ窓下を見ると、釣堀のそばに丹前姿で立っていた中肉中背の男が、おだやかな微笑を二階の私たちのほうに向け、軽く一礼した。私たちはちょっととまどって、礼を返した。

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