“はじめの一歩”とは?
三浦綾子の作品を〝書き出し〟でご紹介する読み物です。
気に入りましたら、ぜひ続きを手に入れてお読みください。出版社の紹介ページへのリンクを掲載していますので、そちらからご購入になれます。紙の本でも、電子書籍でも、お好きなスタイルでお楽しみくださいませ。物語との素敵な出会いがありますように。
三浦綾子記念文学館 館長 田中綾
小説『積木の箱』について
連載 … 朝日新聞夕刊1967年4月〜1968年5月
出版 … 朝日新聞社1968年5月
現行 … (上下2巻)小学館電子全集
旭川を舞台にした現代小説。私立中学の教師・杉浦悠二と、二組の家族を軸に展開する物語。小さな店を営む母子の純粋さと、実業家の息子として生まれ、周囲に翻弄される多感な中学生・一郎の苦しみによって、〝家族〟が持つ光と影が浮かび上がる。
「坂道」
Sの字に曲った長い坂だ。かたわらの熊笹が、風にさやさやと鳴った。五月の朝の陽に、笹の葉がひとところ刃物のようにきらりと光る。
杉浦悠二は、まだ足に馴れない靴を気にしながら、乾いた坂道をのぼって行った。まだ七時半で、人通りはまばらである。オバQがパンを食べている絵のついた、水色のパン屋の自動車が、悠二とすれちがって、たちまち坂下に遠くなって行った。
なだらかな丘の上に、ぽっかりと白い雲が浮んでいる。この丘は、旧陸軍の演習場で、春光台と呼ばれている。約六百ヘクタールの広い丘だ。ここには、きょうから杉浦悠二が勤める私立北栄中学をはじめ、五つほどの学校が遠く近くに点在し、アパート団地や住宅が増えつつあった。
坂をのぼりきった右手に、大きな石の鳥居があった。境内の深い木立は、黄や緑の新芽が、けぶるように芽吹き、五分咲きの桜が何本か初々しかった。片隅の小さなほこらの朱が、あざやかに悠二の目を射た。
鳥居の向い側に、「お休み所」と書いた小さな店がある。その隣にたばこの赤い看板が出ている、小ぎれいな二階建の店があった。悠二は、たばこが切れているのに気づいて店に入った。
間口四間、奥行き三間ほどの清潔な店だ。アイスキャンデーの白いボックスが二つ、朝の陽を反射しており、牛乳ビンがたくさん大きなショー冷蔵庫の中に、ずらりと並んでいる。アンパンやミルクパンが、山のようにショーケースの上に置かれたまま、人影はない。
「ごめんください」
奥に向って、悠二は大きな声で呼んだ。すると、冷蔵庫のかげから、
「まあ、どなた。大きな声ね」
歯切れよく答えながら、ひょいと顔を出したのは、切れ長の黒い目が明るく笑っている二十三、四の女性だった。
「あら、ごめんなさい。いつもの生徒たちかと思ったものですから……」
グリーンのブラウスに、紺の半てんをひっかけたその女性は、ちょっと首をすくめた。感じはいいが、どこか勝ち気な人だと悠二は思った。
「でも、やっぱり少し大きな声ですね。いい声ですけれど……」
そう言った時、ひとりの少年が、のっそりと店に入って来た。
「一郎さん、けさもごはんが間に合わなかったの」
若い女性は明るく声をかけたが、少年は黙ってパンと牛乳をとり、金を置いて出て行った。眉の濃い賢そうな、しかし暗い感じの少年だと思いながら、悠二はハイライトをひとつ買った。
「あれが朝飯ですか」
パンと牛乳をかかえた少年のうしろ姿を見おくりながら、杉浦悠二はたばこに火をつけた。
「ええ……」
何かいおうとしたが、若い女は思いなおしたように口をつぐんだ。
「いらっしゃいませ」
店と居間の境の玉のれんをかきわけるようにして、白いかっぽう着を着た、和服姿の女が出て来た。落ちついた涼やかなまなざしと、しっとりとした肌が印象的である。半てん姿よりも五つも年上だろうかと思いながら、悠二は店を出た。
悠二は、毎朝この店でたばこを買おうと思った。すると、新しい学校に、学期なかばで転任したおっくうさがなくなったような気がした。若い女の少しきかん気の顔立ちも、涼しい瞳の女も、それぞれに美しいと、悠二は旭川の街を眺めた。この丘の下から、かなり遠くまで旭川の街が広がっている。上川盆地を囲む山の起伏が紫にかすんでいた。
「八時半に新任式がはじまりますから……」
といった昨夜の磯部校長の言葉を思い出しながら、悠二は神社の境内に入って行った。
赤いほこらの前に腰をおろして、先ほどの少年がパンを食べていた。悠二は立ちどまって少年を見た。
(中学三年か、それとも高校生かな)
少年はうつむいたまま、黙々としてパンをかじっている。それは食べざかりの少年の食べ方ではない。まるで木片でもかじっているような、味気ない、いくぶん投げやりな食べ方であった。悠二は、少年の方にぶらぶら歩いて行った。楢の木の根もとの苔が、朝の光の中にビロードのようにつややかである。近寄る悠二の姿に、少年はふっと警戒するような表情をみせたが、すぐに無関心な顔になった。
「君、ここはなかなかいい所だね」
「…………」
悠二は少年のえりもとに目をやった。悠二が勤める北栄中学三年のマークがついている。
「君は、いつもここでパンを食べるの?」
悠二は親しみをこめてたずねたが、少年はちょっと口をとがらせて横を向いてしまった。
「やあ、失敬したね」
片手をあげて、悠二は少年の前を去った。悠二の受持は三年のはずであった。
古ぼけた本殿の前に、雀が四、五羽餌をあさっている。悠二の足音に雀はパッと飛びたった。
(人間も雀も、どうやらおれを歓迎してはいないようだ)
悠二は苦笑した。
雑木林の中へゆるくカーブしている細い坂道があった。木々が影を落しているその美しさに誘われて、悠二はその細道を下りて行った。
「ようし、今度こそ取ってみせるぞ」
幼い男の子の、よくとおる声がした。
悠二は、白樺やヤチタモの根方をびっしりと敷きつめている熊笹のつややかな緑を眺めながら、のんきに細い道を下って行った。どこかで三光鳥が「ツキ、ヒ、ホシ」と啼いている。
「ようし、こんどこそ取ってみせるぞ」
先ほどの幼い男の子の声である。何だろうと、悠二があたりを見まわすと、ひとまたぎできるような澄んだ小さな流れに、六つくらいの男の子がどじょうでも追っているらしい。男の子は、悠二が見ていることに気づかない。色の白い、御所人形のような愛らしい子供である。小さな赤い唇をきりっと結んで、流れに足をいれ、前こごみになって、じっと水面を見ているのが、学芸会に出ているような真剣さだ。一、二歩進んで、日本手拭いを水の中にくぐらしたが何も取れない。
再び男の子は水面をじっとにらみつけている。いや、男の子は水面ではなく水中を見ているのかも知れなかった。
「ようし、こんどこそ取ってみせるぞ」
三度、寸分たがわぬ言葉を男の子がハッキリとくり返した時、その真剣さに悠二は思わず微笑した。
「ようし、こんどこそ取ってみせるぞ」
悠二が大声でいうと、男の子はびっくりしてふりむいた。ふりむいたその目が、また真剣であった。悠二は流れをまたいで、男の子の手拭いをとった。
「つめたくないのか、坊主」
「うん、つめたいよ」
ソバの根のように赤くなった自分の足を見ながら、男の子はニコッと笑った。何とも人なつっこい笑顔である。
悠二は手拭いをひろげて、水の中へさっと入れた。たちまち手拭いの中にどじょうが二匹入った。
「ワアッ! うまいんだなあ、おじさん」
男の子は、小さな手を叩いた。
「うん、お前の弟子ぐらいにはなれるだろうな」
悠二は男の子を片手で水の中から抱きあげた。男の子はあらためて悠二を見あげた。背の高いヒゲ剃り跡の青々とした見なれない男である。
「おじさん。案外ハンサムだね」
「ハンサムって知ってるのかい?」
「知ってるよ。敬子先生がね、テレビを見てる時、あの人ハンサムだねっていうもん」
「敬子先生?」
「うん、敬子先生は、ぼくのうちにずうっとせんにから、とまっているの」
「ふうん、君は何ていう名前だ?」
「ぼく? ぼくは川上カズオ。カズは平和の和なんだって」
「平和の和か、なかなかいい名前だね。君のママが教えてくれたの?」
「ぼくにはママがいないの。おかあさんしかいないの」
「ママも、おかあさんも同じだよ」
「ふうん、ほんと? ママとおかあさんが同じだなんて。ぼくつまんない」
男の子はがっかりしたようにいった。
澄んだ小川の底に、朝の陽がゆらめいている。いま和夫が、
「おかあさんとママが同じなら、つまんない」
といった言葉が、妙に悠二の心に残った。ふとみると、傍の川柳の下に黒いランドセルが置かれている。
「和夫君は一年生か」
「うん、ぼく一年生だよ」
和夫はタンポポの花群に足を投げ出して、赤いソックスをはきながらいった。
「学校にいく前に、いつもどじょうをすくうのか」
「そう、帰りもすくうんだよ」
「道草をくってはいけないって、先生にいわれたろう」
悠二は、自分もここで道草をくっていると、苦笑しながらいった。
「いわれるよ。だからぼく、道の草は取ったことはないよ」
和夫はあどけなく答えた。
「あのなあ、和夫君、道草をくうというのは、途中で魚をすくったり、遊んだりすることをいうんだよ」
「ふうん。そしたら魚をすくっても道草なの? 困ったなあぼく」
和夫はあわててランドセルをひきよせた。とめがねがはずれていたのか、逆さになったランドセルの中から、本やノートや画用紙が、タンポポの上に散らばった。
「どれ、その絵を見せてごらん」
悠二の手に、和夫は素直に画用紙を渡した。
「ほう、なかなかおもしろい絵だね。何の絵だろう」
赤や青や黄などの、とりどりの色が太く細く、もつれた糸のように書かれていて、何かにぎやかな、そしてどこかものがなしいような感じがある。
「ほんと? おじさん。それおもしろい」
「ああ、おもしろいとも。だけどこれは何の絵なの?」
「お祭りの絵なの」
「お祭りの? なるほどねえ」
いわれてみると、悠二が感じたにぎやかさや、ものがなしさはお祭りのふんいきであった。
「ピンクは綿アメ、茶色はツブ焼きの匂い。この黄土色はサーカスのにおい。それから紫はサーカスの楽隊の音。灰色はオートバイの曲芸の音なの」
和夫は教師に対するようなまじめな顔で、すらすらと答えた。
「ほう、なかなかおもしろいじゃないか」
「でもねおじさん、先生はね、お祭りの絵だから人や店やいろいろかきなさいっていうの。困った絵だねえっていうの」
「ふうん」
「友だちも、はんかくさい絵だな。お前、はんかくさいなっていうんだよ」
小首をかしげたその顔が、少し悲しげにくもっていた。
「和夫君がはんかくさいって? そんなことないよ。なかなかおりこうだよ」
ハッキリと断言した悠二を見あげて、和夫は思わずニコッと笑った。
「ほんと? おじさん。ぼくははんかくさくない?」
「絶対におりこうだよ」
時計をみると、もう八時十分を過ぎている。悠二は和夫の手をひいて小川に沿って歩き出した。どこかで三光鳥の声が聞えた。
「あの鳥は、何て啼いているか知っているか」
「ううん、知らない」
「あのね、月、日、星って啼いてるんだよ」
和夫は濃い眉を寄せて、鳥の声を聞こうとした。
「ほんとだ。ほんとだねおじさん」
喜んで和夫は、その声を真似た。
「ねえおじさん」
「何だい」
「ううん、何でもない」
少し行って再び和夫が呼んだ。
「何だい」
「おじさんはもしかしたら、ぼくのおとうさんじゃないの」
「君の? 君におとうさんはいないのか」
「うん。ずうっとせんに死んだんだって」
「ほう、それは大変だな」
悠二は和夫の御所人形のような顔を眺めて、その小さな手を強く握ってやった。
「おじさんはねえ、きのう札幌から来たばかりなんだよ。おじさんにはお嫁さんも子供もいないんだ」
「札幌から?」
ふいに和夫の顔が輝いた。
「札幌といったら……ええと旭川、近文、伊納、神居古潭、納内……」
立てつづけに、和夫は少しのよどみもなく札幌までの駅名をいって、
「そうかい。おじさんは札幌から来たの」
と、ニッコリした。思わず立ちどまった悠二は、呆然として和夫の顔をまじまじと見た。母とママが同一であることも知らないこの幼子が、旭川から札幌までの二十幾つもの駅名を暗記していることは、尋常ではなかった。悠二が何かいおうとした時和夫が言った。
「おじさん、坂の上にいくの? ぼくの学校ずうっと向うの方なんだ。バイバイ」
小さな手が悠二から離れた。
「バイバイ、気をつけていくんだよ」
悠二はまた時計をみた。あと十分ほどある。大丈夫新任式には間にあうと、さっきのぼって行った坂道を再び歩いて行った。
「オーイおじさん」
ややしばらくして、うしろの方から和夫の声がした。
「オーイ」
悠二がふり返ると、百五十メートルほど向うの方で、和夫がピョンピョンと二度ほど飛んでみせた。だが次の瞬間、和夫が崩れるようにその場にしゃがみこんでしまうのが見えた。
ふいにしゃがみこんだ和夫に、悠二は、
「オーイ、どうしたんだ」
と叫んだ。和夫はちょっと顔をあげたが、立上がろうとしない。悠二は時計を見た。このまま真っすぐ学校に行けば、新任式に間にあうはずだ。だが和夫の所まで行っていては、何としても遅刻してしまう。杉浦悠二はあたりを見まわした。誰か通りかかる者がいれば、和夫のことを頼めると思った。
「オーイ、どうしたんだ」
再び大声で叫んだが、和夫は立ちあがろうともしない。腹痛か、それとも足でも痛めたのか、遠くからではさっぱりわからない。普通の日ならともかく、きょうは悠二の初出勤で、新任式の日である。
「新任式は八時半からですよ」
念を押した昨夜の磯部校長の顔が目に浮び、整列して自分を待っている全校生徒の様子が悠二の胸をよぎった。だが、思いきって悠二は和夫を目がけて走り出した。自分が遅刻したとしても、誰の命に別状あるわけでもない。しかし、あの幼い和夫が、今あるいは激しい腹痛に襲われているのかも知れなかった。一瞬でもためらった自分の中のエゴイズムに恥じながら、悠二は一心に走った。足に合わない靴のせいか、ひどくおそいような気がした。
「どうしたんだ和夫君!」
やっと和夫のそばに来ると、和夫は眉をしかめてベソをかいている。
「あのね、おじさん、足が痛いの」
「足が? どれ、見せてごらん」
見たところ、悠二の目には何の変化もないように見えた。
「どれ、立ってごらん」
両手を持って立たせようとしたが、和夫はたちまちしゃがみこんでしまった。
「どうしたんだろう」
もう悠二は、新任式に遅刻することは致し方がないと腹を決めていた。見ると、和夫の足もとにこぶしほどの石があったらしい跡が、穴になってへこんでいる。
「和夫君、この穴に足を突っこんだんじゃないか?」
「うん、いまおじさんに、サヨナラっていおうと思ったら、足が痛くなったの」
「そうか、今ピョンピョン飛んだ時、この穴に落ちたのかな。それは悪かったなあ」
悠二は和夫を背負った。
「かわいそうになあ、痛いだろう。君のうちはどっちだ?」
もしかしたら、足の裏の関節が脱臼しているのではないかと思った。捻挫なら一週間も休めばいいが、脱臼では大変だと悠二は思った。
「こっち」
悠二の背にほおを押しつけたまま、和夫が指さした方に歩いて行った。
「ああ、おじさん、こっちじゃないよ、あっちだよ。ぼくのうち坂の上の店屋だんだ」
二、三町も歩いてから、和夫は背に押しあてていた顔をあげて、驚いたように言った。
和夫を背負って、無駄に二、三町も歩いてから、方向がちがうといわれて杉浦悠二はいささかがっかりした。
「坂の上の店屋って、あのたばこやパンを売っている店かい」
「そうだよ」
「あの神社の向いの店なんだね」
悠二は念を押さずにはいられなかった。また間違って歩いていけば、一時間も遅刻してしまわなければならない。
「うん、神社の向いだよ」
いわれて悠二は、ひとゆすり和夫をゆすりあげると大股に坂の方に取って返した。
(では、この子はあのきれいな肌の、おだやかな人の子供なのか)
悠二は、あらためて和夫の顔と、のれんをかきわけて出て来た時の女の顔を思い浮べてみた。
色の白い所が母親似かも知れないが、顔立ちは少しちがっている。
(この子は父親が、ずっと以前に死んだといっていたっけ。するとあの人は、未亡人というわけか)
何となく悠二の胸の中を、甘くゆするものがあった。
坂にかかると、軽いと思っていた和夫が急に重くなって来た。和夫は足が痛いのか、悠二の背にほおをピタリとつけたまま何もいわない。
「和夫君、足が痛いのか」
「うん、少し」
和夫はそのまままたおとなしくなった。和夫の体温が悠二に伝わった。
「おじさんは、もしかしたらぼくのおとうさんじゃない?」
といった和夫の言葉を悠二は思った。
先ほどたばこを買った店の前に立って、あらためて看板を見あげた。細目のクリーム色の看板には、パン、たばこ、手芸用品、文房具と小さく横書きしてあった。中央に「川上商店」と筆太に書かれてある。
悠二が入っていくと、あの和服姿の女性が、二十ぐらいの男の店員を相手に、ダンボールの荷箱を開いているところであった。
「いらっしゃいませ」
と、立上がって、悠二の背をみてハッとしたように顔色が変った。
「あら、和夫が……」
「いや、ちょっと足をけがしたらしいんで、連れて来ました」
思わずかけよって、悠二の背から和夫を抱きとろうとしたその女性の腕が、軽く悠二の手にふれ、かすかな香料の匂いがした。清潔な匂いである。
「まあ、ほんとうにご親切に恐れ入ります」
そばでみると、いっそうしっとりした肌の、何か匂やかな女性である。手短に和夫との出会いを話して、きょうからそこの北栄中学に勤務する者であることを告げた。
「まあ、それでは……」
という言葉を後に、悠二はもう店を出ていた。