『井戸』( 三浦綾子小説作品 はじめの一歩 )

“はじめの一歩”とは?

三浦綾子の作品を〝書き出し〟でご紹介する読み物です。
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三浦綾子記念文学館 館長 田中綾

小説『井戸』について

オール読物1965年10月
出版 … 『病めるときも』朝日新聞社1969年10月
現行 … 『病めるときも』角川文庫・小学館電子全集
末期癌の君枝は激痛の中「痛いっていいことなのよ」と語るが、加代は愛する教え子を死なせた痛みに向き合えず何人もの愛人を持ち悲劇に向かってゆく。人間であることの条件としての“痛み”を描く三浦綾子初の短篇。

『井戸』

 結婚が五月と決ったある冬の午後、真樹子まきこは思いたって名寄なよろの友人を訪ねることにした。十四年もの長い間、ただギプスベッドにねていただけの真樹子が、人の妻になるということ自体、真樹子にも納得いかないことであった。学校時代の友人を訪ねてみたところで、無論納得のいく問題ではない。だが旭川あさひかわを離れて自分自身をたしかめたい思いが真樹子にはあった。
 わがままな体の弱い年上の女を、一生の伴侶と決めた浩二がかわいそうで、真樹子は凍って外の見えない汽車の窓に、爪でバカバカと書いていた。指のぬくみで僅かにとけたバカの字の間から、樹氷の林が流れて過ぎた。
 汽車があえぎあえぎ、塩狩峠しおかりとうげにさしかかった頃、真樹子はトイレに立った。席にもどろうとした真樹子は、思いがけなく中村加代の姿をみいだして、おどろいて立ちどまった。
「まあ、加代ちゃん」
 と、なつかしさに人がふり返るほどの大声をあげた真樹子に、加代は昔と変りない嬉しいような、淋しいような微笑をみせて、
「しばらく」
 と抑揚のない声でいった。二十年ぶりで会ったというのに、加代は二、三日ぶりで会ったような感激のない表情をしている。
「お子さん?」
 連れらしい中学二、三年ぐらいの男の子が、加代の隣に坐っていた。
「おとなりの息子さんなの」
 加代はどこか疲れたような顔をしていた。顔にも言葉にも表情のない加代は、二十年前と同じだと真樹子は微笑した。
「変らないのねえ」
 二十年前、真樹子も加代も夕張ゆうばりに近い小さな炭礦たんこうのある町で、小学校の教師をしていた。その上、加代と真樹子は二年ほど一つ屋根の下で自炊生活をしていたのである。
 真樹子が赴任した半月ほどあとに、加代がやってきた。真樹子たち五人は旭川の学校を出ていたが、加代一人だけ小樽おたるの女学校を出ていた。その頃は、女学校を出て検定試験に受かった者は、正教員の免許状をもらうことができた。真樹子と加代はその頃十七歳に満たない教師であった。
 加代がはじめて来た時のことを、真樹子は忘れることができない。日曜日の午前中だった。真樹子たちが部屋の掃除をしていると、ふすまがスッと開いた。真樹子たちが驚くと、
「中村加代です。お世話になります」
 と抑揚のない声で言った。
 荷物はあとから届くといって、皆の掃除をするのを、だまって眺めていたが、やがて上衣のポケットからハーモニカを出すと、ごろりと仰向きにねころんで足を組み、ハーモニカを吹きはじめた。
 真樹子たちは呆気あっけにとられて、加代の形のよい足をながめていた。曲はその頃すたれかけた〈緑の地平線〉で、加代のハーモニカはなかなか上手だった。れっぽい真樹子は、この加代の人をったような態度が気に入った。面白そうな女だ、当分退屈しないだろうと、真樹子は内心喜んだ。
 加代は喜怒哀楽をあらわさない、いつも眠ったような目をして居り、言葉も非常に早口で抑揚のない話し方だったのに、どういうわけか、ふしぎに人の心をとらえて行った。
 加代の両親は外国にいて、加代はずっと寄宿生活をしていたこと、二人の兄は結核で死に、一人の姉は近所の妻ある男と心中して、加代は日本に一人ぽっちなのだと言った。
「その男の人と姉さんは恋愛だったと皆がいうの。だけど本当はね、その日はじめて口をきいたのよ。はじめて話をしたその日に心中するなんて、わかる? その気持」
 加代は早口でそういうと、真樹子たちを見まわした。
 そんな加代は、嬉しいような淋しいような妙に心にしみる微笑をした。そしてあとから加代は真樹子にいった。
「真樹ちゃん。あんた、わたしの話を本当だと思ってきいていたの」
「当り前よ。どうして?」
「真樹ちゃん、あんたって案外お人よしね。本当はね、小樽に両親とおじいさん、おばあさんがいて、きょうだいは一ダースもいるのよ。大家族なのよ。赤ん坊は皆にふまれそうになるんで、物すごく敏捷びんしょういまわってるわ。みせてあげたい位壮観よ」
 真樹子があきれて加代の顔をみると、
「何だか気に入らないみたいね。じゃこれはいかが? わたしの父はめかけが三人もいて、わたしはその妾の子供なの。わたしの母は芸者だったなんていう方がいい?」
 加代はそういって、例の淋しいような、嬉しいような微笑を見せた。
 真樹子はムキになって、夏休みで帰省中の小樽の加代の家を訪ねあてた。加代の家は、小樽の街のはずれに近い若竹町にあった。若竹町の坂を登りつめてふり返ると小樽の港が紺色に見えた。古びた二階家で、家の横にこけむした井戸がある。案内をうと、加代によく似た五十歳ぐらいの男が顔を出した。
「加代さんのおとうさんですか」
 と挨拶すると男は、
「加代の伯父ですわ。加代は親なし子でね」
 とにべもなく言った。
 加代が出てきて、
「ばかねえ、真樹ちゃんったら。わざわざ訪ねてくることないじゃない」
 と笑った。旭川から、わざわざ訪ねた真樹子に家に上がれともいわずに、加代は下駄をつっかけて外へ出た。
「わたしの父も母も結核で死んだのよ。わたしもこの頃体の調子が変なのよ。わたしもいつか肺病で死ぬのよ」
 加代はそういって、そばの井戸にペッとたんを吐いた。
「この井戸に痰を吐くと、みんなにうつって、みんなも肺病になるわ。面白いわね」
 おどろく真樹子を加代は街に連れ出し、カレーライスを食べさせて帰って行った。
(ああ、あの井戸は誰も使っていないんだわ)
 真樹子は汽車の中で、あの井戸につるべがなかったことを思い出して、痰を吐いた加代の顔を思い浮かべた。
 教師の加代は、高等科の男子に人気があった。加代は美人ではないが、小さな顔で唇が赤ん坊のように濡れていた。体は美しく、スーツのボタンをかけることのできない程、豊かな胸をして、蜂のように胴がキュッとしぼられていた。
 ある日、廊下で、高等科の男子たちが、
「おい、中村先生は腰を振って歩くぞ」
 と言っているのを聞いて、真樹子は加代のうしろ姿に注意した。なるほど、歩く度にまるいボールがくりくり動くように見え、プリーツスカートがゆらゆら揺れていた。
 加代は啄木たくぼくの詩が好きで、よく口ずさんでいて、
「肺病やみの少年がというからいいのよね。これが肺結核だなんていうと、ちっとも面白かない」
 と言っていた。真樹子のみるところでは、加代は啄木に限らず肺結核で死んだ人に親しみを持っているようだった。それは、両親ときょうだい五人がみんな肺結核で死んだという加代の環境のためだろうと真樹子は思った。
 加代がつとめて二年経った頃、突然学校をやめることになった。受持の生徒の父と恋愛し、生徒の母親が校長に相談にきたため、加代はやめざるを得なくなったのである。
 加代はにやにやして、そのことには触れずに、
「校長のやきもちさ」
 とだけ言った。
 加代がその町を去ったのは暑い夏の日であった。

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