“はじめの一歩”とは?
三浦綾子の作品を〝書き出し〟でご紹介する読み物です。
気に入りましたら、ぜひ続きを手に入れてお読みください。出版社の紹介ページへのリンクを掲載していますので、そちらからご購入になれます。紙の本でも、電子書籍でも、お好きなスタイルでお楽しみくださいませ。物語との素敵な出会いがありますように。
三浦綾子記念文学館 館長 田中綾
エッセイ『愛すること信ずること』について
書き下ろし
出版 … 講談社1967年10月
現行 … 講談社文庫・小学館電子全集
三浦綾子の最初のエッセイ集。「結婚するとは、その人の過去も未来も、ゆるし受け入れる覚悟がなくてはできないことだ」。結婚、家庭、夫婦としての生活を中心に、真の愛とは何かを温かく説く名著。
「天の録画」
わたしが三浦と初めて会ったのは、昭和三十年の六月十八日であった。その朝、中庭のただ一輪のバラが花を開き、何かいいことのあるような、美しく晴れ渡った日であった。その時、わたしは療養十年目で、ギプスベッドに仰臥の身であった。
三浦は、キリスト教誌「いちじく」の詩友で、旭川に詩友は彼とわたしとただ二人だけであった。その「いちじく」誌を出しておられる札幌の菅原豊先生が、三浦に、わたしを見舞ってほしいと葉書を出された。
三浦は、何日かためらってから、わたしを訪ねて来たのである。話しあってみると、旭川営林署に勤めている三浦と、啓明小学校に勤めていたわたしは、いく度か出勤の途中に、会ったことがあるのではないかということになった。なぜなら、彼の勤めている営林署は、わたしの家から二、三町の所にあり、彼はわたしの家の前を始終通っていたからである。
けれども、わたしは七時半までに出勤しなければならず、三浦は八時までに出勤していた。わたしの勤め先は、半道(半里、約二キロメートル)以上の所にあったから、七時には家を出なければならない。
三浦がわたしの家の前を通るのは、八時十分前くらいであったという。もし、二人がちょうど同じ時刻なら、東へ行くわたしと、西へ行く三浦が、必ず顔を合わせたはずなのに、時間がちがうばかりに、同じ道を歩きながら、一度も会ったことがないことになる。
しかし、もしも天から神様が、わたしたちの通う九条通りを眺めていらっしゃったとしたら、いったいどう思われたことだろう。わたしが通り過ぎた後、数十分ほどして三浦が通るのを、ニヤニヤしてごらんになっていたかもしれない。
「あの二人は、将来夫婦になるのだが、かわいそうに、いましばらくのしんぼうだな」
特に、三浦がわたしの家の前を通り過ぎるのを、神様は意味ぶかく眺めていらっしゃったかもしれない。
ところで、わたしの家の土台上げで、昭和二十五年の夏、わたしは新旭川の叔父の家の二階に部屋を借りていた。この新旭川に三浦が住んでいて、その叔父の家の前も、三浦は必ず朝夕は通っていたのである。
その頃も、わたしは療養中だったが、やや小康を得ていた。だから、朝に夕に叔父の家の近くを散歩していた。
「昭和二十五年の夏頃だったかなあ。二度ほど、長いスカートをはいた、目の大きな印象的な女性に会ったことがある。何だかいまだに心に残っているのだが、あれが綾子じゃなかったかと、思うんだがねえ」
三浦は、結婚をしてから、よくそんなことを言った。たしかに、わたしはその頃、長いスカートをはいていた。その頃なら、朝に夕に叔父の家の前を通った三浦と、一度や二度、会ったことがありそうな気がする。
もし、わたしたちの一生が、神によって、テレビのビデオのように録画されているとするならば、神に頼んで、そのテープを借りて、映写してみたいものである。すると、意外にも、将来結婚する二人は、映画館の入り口ですれちがったり、同じ列車に乗りあわせていたり、食堂での席がすぐ間近だったりしたことが多いかもしれない。
三浦が言うところの「印象的な女性」も、映してみると、それはわたしではなく、全く別人だったりするかもしれない。
三浦がチラリチラリと「印象的な女性」に目をやって、通り過ぎてから振り返って眺めている姿などが、映し出されるかもしれない。そしてそのようすを、このわたしが窓から眺めて、ニヤニヤ笑っているかもしれない。
ほんとうに、自分たちの過去の姿が、微に入り、細にわたり、克明に録画されていて、それを「何年何月頃の姿」と、随意に映すことができたら、さぞおもしろく便利であろう。一番便利なのは、裁判官かもしれない。