『旧約聖書入門 光と愛を求めて』( 三浦綾子作品 はじめの一歩 )

“はじめの一歩”とは?

三浦綾子の作品を〝書き出し〟でご紹介する読み物です。
気に入りましたら、ぜひ続きを手に入れてお読みください。出版社の紹介ページへのリンクを掲載していますので、そちらからご購入になれます。紙の本でも、電子書籍でも、お好きなスタイルでお楽しみくださいませ。物語との素敵な出会いがありますように。

三浦綾子記念文学館 館長 田中綾

エッセイ『旧約聖書入門 光と愛を求めて』について

連載 … 信徒の友1972年8月〜1974年3月
出版 … 光文社1974年12月
現行 … 光文社文庫・小学館電子全集
旧約聖書の物語と真理を普通の日本人にわかりやすく伝えたいという思いで書かれた入門書。「天地創造」「アダムとイブ」などキリスト教の根幹の部分の解説は「氷点」をはじめとする三浦文学の意味も照らし出す。

「まえがき」

 聖書は永遠のベストセラーだといわれている。日本においても、全家庭の八〇パーセントに、新約聖書の一冊ぐらいはあるのではないかと、聞いたことがある。
 それほどまでに、多くの人がさまざまな悩みの中で聖書を手にしたのである。にもかかわらず、その聖書はあまり読まれていないのではないか。それはなぜか。聖書は、やはり手引書がなければ、読み通しにくいということではないだろうか。わけても旧約聖書は読む人が少ない。これは、ひとつには、旧約聖書への誤解もあるようだ。
 わたし自身、聖書を読みはじめたころ、大きな誤解を持っていた。旧約聖書とは、現代の教会ではすでに使われなくなった古い教典のことかと、大まじめに思っていたのである。で、当然のごとく、新約聖書だけが聖書だと思っていた。
 ややしばらく経って、どうやらこれは大まちがいで、旧約聖書とは旧教(カトリック)のための聖書で、新約聖書は新教(プロテスタント)の聖書だと思いこむようになった。むろんこれも大まちがいなのだが、それとは知らなかったわたしは、ある日カトリック教会に神父を訪ねた。そして、
「旧約聖書も持っています」
 などと得々と告げた。というのは、旧教では、旧約聖書のみを読んでいると堅く信じこんでいたので、旧約聖書を持っていると告げねば、神父に対して失礼になると思ったためである。
 この時の自分を思うと、今でもおかしくて、声をあげて笑ってしまうのだが、多くの人々も、案外これに類した誤解を、まず旧約聖書に対して抱いているのではないだろうか。それほどでなくても、聖書とは新約聖書のことだと信じこんでいる人は、意外に多いようである。
 いうまでもなく、旧約・新約合わせて聖書なのである。旧約とは、神が人に対してなされたふるい契約、新約とは、新しい契約のことで、この旧約を読まねば新約聖書を正しく理解することはできないのだ。
 ところで、聖書は最高の文学だといわれているが、おもしろいことからいえば、旧約聖書は絶対におもしろい。ドラマチックな場面や、人間性の美醜がいたるところに展開されているからである。繰り返し映画になり、映画になればヒットする理由もそこにある。
 とはいえ、教典は教典である。どうしても自分一人ではわからないところがある。また、興味本位に読みすごすだけでは、何にもならない。そこにふくまれている宝石のような真理を見つけなければ、意味がない。とくに、創世記のように、一見幼稚とも見える神話のなかに、驚くべき永遠の真理と、人生への指針がふくまれている箇所もある。だから、手引書は、どうしても必要なのだ。
 前述のとおり、わたし自身の経験を考えても、それが痛感されるので、わたしは親しみやすい手引書を書こうと思い立った。ただ、わたしはひら信徒であって、牧師でもなければ、神学者でもない。しかし平信徒なりの平易な手引書もあってよいのではないかと、おこがましくも手をつけたのである。無論、牧師の説教や参考書で学んだ知識をもとにである。
 書き終えてみて、旧約全般に平均に行きわたらなかったこと、妻妾さいしょう千人を囲ったソロモンの栄華や劇的な預言者の活動、王宮の腐敗、そして虚無の問題を掘り下げた伝道の書などについて、もっと、もっとふれるつもりのところを筆が及ばなかったことなど、いろいろと不満が残った。が、わたしとしては、この書をひとつの手がかりとして、一人でも多くの方が聖書に親しんでくださるなら、という切実な祈りをこめてペンを進めたのである。わたしのこの願いを受けとめてくださり、聖書のなかにかくされている、いや、現わされている宝を、自分のものとしてくださる方が、一人でもあるならば、真実これ以上の幸せはない。
 最後に、この書のために終始お力添えを賜わった、横浜・上星川教会原田洋一牧師、装丁の小西啓介先生、カットをお描きくださった荻太郎先生に、心から感謝を申しあげたい。
  一九七四年十二月五日(カッパ・ブックス刊行時)   三浦綾子

一 天地創造

 わたしは、太陽や、月や、星を見ていて、しばしばいいようのない感動を覚えることがある。それは、「ああ、イエスさまも、わたしが今見ているこの太陽をごらんになっていられたのだ。この月の光の下を歩まれたことがあられるのだ。この星の光を、その愛のまなざしで眺められたことがあるのだ」と思うからである。こう思う時のイエス・キリストに対するしたわしい思いは、わたしには表現し難い幸せな清らかな、そして何か切ない思いなのである。
 こんな感情は、あるいは共感してもらえないかもしれない。しかし、親と子が、夫と妻が、恋人同士が遠く離れていて、同じ月を仰ぎ、同じ星を眺めている場合の感慨かんがいを想像していただくなら、わかってもらえると思う。わたしは、受洗じゅせんした当時、聖書のルカでん四章を読んでいて、これに似た感動を覚えたことがある。
〈イエスは諸会堂で教え、みんなの者から尊敬をお受けになった。それからお育ちになったナザレに行き、安息日にいつものように会堂にはいり、聖書を朗読しようとして立たれた。すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を出された〉(ルカ四章一五─一七節)
 イザヤの書とは、いうまでもなく旧約聖書の一部である。その時わたしは、(ああ、イエスさまも旧約聖書を読まれたのだ!)不意に電気にでも打たれたような気がした。それまでは、幾度もこの場面を読みながら、何の感ずることもなく読み過ごしていたのだ。
 わたしは、イエスさまご自身も旧約聖書を読まれたということに、にわかに重大なものを感じたのである。わたしは突如として、矢もたてもたまらなく旧約聖書が読みたくなった。こうして、わたしは旧約聖書もようやく親しみを持って読むようになった。それまで、
「聖書を読んでいますか」
 と言われて、
「読んでいます」
 と答えていたが、旧約聖書はろくろく読んでいなかったのだから、内容の伴わぬ、片手落ちな答えであったわけである。失礼な言い方をすれば、新約聖書しか読まないキリスト信者は、聖書を読んでいない信者ということになるわけであろう。
 グーテンベルクが印刷機を発明したことはよく知られている。が、その最初に印刷したのが新約聖書であることは、それほど世に知られていない。聖書が印刷されるためには、どれほど多くの人の祈りがこめられていたかをわたしは思うのだが、今は聖書は本屋に行けばたやすく手に入れることができる。印刷機もなかった時代のことを思って、わたしたちはもっと多くの感謝を持って、世界最高の文学ともいわれる聖書を、旧約聖書の第一ページから読んでいきたいものだと思う。
 さて、この聖書の第一行目の言葉にまず目をとめてみよう。そこには、次の言葉が記されてある。
〈はじめに神は天と地とを創造された〉(創世記そうせいき一章一節)
 文語訳ぶんごやくでは、
元始はじめに神天地を創造つくりたまえり〉
 となっている。
 この第一行の言葉を理解できる者は、聖書の全体を理解できる、という言葉を聞いたことがある。わたしが、はじめてこの第一行目を読んだ時は、それほどの重味のある言葉とは知らずに、(神が天地をつくったなんて、本当かしら)と、思ったものだ。地球も太陽も、他の星も、すべては何となくったように、わたしは思っていた。いつのころからか、天体の整然たる運行一つを考えただけで、偶然の存在とはいえないように思うようにもなったが、はじめは「何となく」という言葉のとおり、まことに漠然とした考えでしかなかった。

つづきは、こちらで

タイトルとURLをコピーしました