『病めるときも』( 三浦綾子小説作品 はじめの一歩 )

“はじめの一歩”とは?

三浦綾子の作品を〝書き出し〟でご紹介する読み物です。
気に入りましたら、ぜひ続きを手に入れてお読みください。出版社の紹介ページへのリンクを掲載していますので、そちらからご購入になれます。紙の本でも、電子書籍でも、お好きなスタイルでお楽しみくださいませ。物語との素敵な出会いがありますように。

三浦綾子記念文学館 館長 田中綾

小説『病めるときも』について

別冊デラックス女性自身1968年7月
出版 … 『病めるときも』朝日新聞社1969年10月
現行 … 『病めるときも』角川文庫・小学館電子全集
クリスチャン家庭に育った藤村明子は「健やかなる時も、病めるときも」愛するという結婚式の誓いに従い、精神病の夫克彦、夫が女中に産ませた障がい児雪夫と共に生きてゆこうとする。結婚の本質である約束の尊さを問う。

『病めるときも』

   一

 藤村明子が二十歳の七月だった。
 室蘭むろらん従姉いとこを見舞った後、そのまま札幌さっぽろに帰るのも味気なくて、明子は洞爺湖とうやこ温泉によった。従姉は盲腸で、気になるほどの病状ではなかったから、初めからいわば遊びの旅のようなものであった。
 温泉街の湖畔に宿をとって、すぐに明子は遊覧船に乗ってみた。あいにくと小雨の降る日だった。しかし四囲の山々に雲が低く垂れこめ、湖に音もなく雨の降る風情は、むしろ晴れた日よりも、旅情があると明子は思った。
 その年は、太平洋戦争の勃発ぼっぱつした翌年で、国民はまだ勝ちいくさに酔っていた。軍需景気にあおられた製鉄の街・室蘭を近くにひかえた洞爺は、戦時中とは言え、けっこう客で賑わい、遊覧船も満席であった。
 紺のスーツを着た十七、八の小肥こぶとりのガイドが、マイクなしでにこやかに案内をしていた。明子はそれを聞くともなしに聞きながら、鉛色に静まり返った湖を、飽かず眺めていた。自分の国が、いま、激しい戦争をしているということなど、信じられないような静けさだった。
 遊覧船は、黒いほどに濃い緑の中島を大きく一周して、船着き場に戻った。船尾からぞろぞろと客が下り始めた。いちばん前の座席だった明子は、下りるときは自然最後になった。ふと明子は、中ほどの席にすわったまま、身じろぎもせず、じっと湖を見ている青年に気づいた。
 青年は眉の濃い、やや青白い横顔を見せ、窓に額を押しあてるようにして湖を眺めている。明子は、なぜかその青年が気になって下りしぶった。いったん船尾まで行ったが、何か不安になって青年のそばにとって返した。

つづきは、こちらで

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