『裁きの家』( 三浦綾子小説作品 はじめの一歩 )

“はじめの一歩”とは?

三浦綾子の作品を〝書き出し〟でご紹介する読み物です。
気に入りましたら、ぜひ続きを手に入れてお読みください。出版社の紹介ページへのリンクを掲載していますので、そちらからご購入になれます。紙の本でも、電子書籍でも、お好きなスタイルでお楽しみくださいませ。物語との素敵な出会いがありますように。

三浦綾子記念文学館 館長 田中綾

小説『裁きの家』について

連載 … 週刊ホーム1969年10月〜、途中休刊のため後半は書き下ろし
出版 … 集英社1970年5月
現行 … 集英社文庫(電子書籍)・小学館電子全集
「小川の流れる庭が欲しい」と思い、それを実現した滝江は、姑を追い出し、男と遊ぶ城を築き上げた。しかし、本命のはずの男は滝江になびかない。そればかりか、ライバルでさえなかったはずの義妹の優子がその地位に取って代わろうとしていた。

「一」

 受話器を置いた優子ゆうこは、白い顔を窓に向けて、呆然と突っ立っていた。涼しい目もとが、暗くかげっている。
 水色のレースのカーテンを透かして、真夏の日を弾き返す大通り公園の芝生が見える。この大通り公園は、札幌さっぽろの中央を、縦千二百メートル、横六十五メートル程の緑地である。四季とりどりの花壇、大小幾つかの噴水、乙女の裸像、テレビ塔、そして美しい並木や木立ちがあって、市民や観光客の憩いの場となっていた。
 この公園が西に果てる所に、札幌高等裁判所の、がっしりとした灰色の石造建築が、立ちはだかるように建っており、優子の家は、この裁判所の斜め向いにあった。
 優子は、いま聞いた滝江たきえからの電話を、胸の中で反すうしていた。滝江は夫の小田島おだじま謙介けんすけあによめで、優子より四歳年上の四十歳だった。
「ねえ、いいこと。優子さん、こんどは優子さんが、おかあさんを預ってくださるのよ。もともと、あなたとおかあさんは、仲がいいんですもの。あなただってうれしいでしょ。お願いしたわよ。いいこと」
 滝江の声はいつものように華やかだったが、決して否とは言わせぬ強さがあった。
「もともとおかあさんとあなたは、仲がいいんですもの」
 と言った時、滝江はふくみ笑いを洩らした。滝江の、ぬれたような黒い瞳と、やや厚めの肉感的な唇が、皮肉に笑っているのを、優子は目の前に見たような気がした。その笑いが何を意味しているのか、優子には痛いほどよくわかった。
 優子は去年の秋、家を新築した友人に招かれて宮ノ森みやのもりに行った。札幌神社の裏手の山腹一帯の「宮ノ森」は、この頃急速にひらけた高級住宅地である。山小屋ふうに、白樺しらかばの丸木を使った家や、軒先が垂直に地に届く、赤い屋根の家など、モダンな家が多かった。
 その帰り、優子は夕焼空を眺めながら、落葉松からまつの生垣に囲まれた、小粋な料亭ふうの旅館の前を通りかかった。見るともなく、その玄関先を見た時、優子はハッとして、思わず生垣の陰に身をひそめた。玄関の明るい灯の下に、嫂の滝江が、若い男と二人で出て来たのを見たのだった。滝江は大胆にも、男の腕に軽く手をかけていた。
 その夜、ためらいながらも、優子はやはり、夫の謙介にそれを告げずにはいられなかった。
「なるほどな、あのおねえさんなら、ありそうなことだね」
 謙介はあまり驚いたふうもなく、ぼつりと言った。その一言に、優子はかすかな不安を感じた。
「あなた……」
「なんだ」
「いいえ」
 優子は言いかけた言葉をのみこんだ。
 夫の謙介は、平凡な、まじめな、いくぶん人がいいだけの商社マンだと思っていた。その夫が、いつのまに自分以上に滝江の生き方を見ぬいていたのだろう。いや、見ぬくというより、知らぬまに見つめていたような、そんなこだわりを優子は感じた。
 それから一週間もたった頃だったろうか。滝江から優子に電話があった。新しくできたハンドバッグを見てほしいというのである。滝江は、ハンドバッグや袋物のデザイナーで製作もしていた。丸帯の布地、しぼり、かすり、皮など、材料はいろいろだったが、滝江のデザインは斬新ざんしんで、デパートからの注文が絶えなかった。その収入は、大学教授の夫博史ひろしの収入を上まわっていた。
 優子はいつも、呼ばれれば訪ねて行った。しゅうとめのクメが滝江と同居しているからだった。行くのが礼儀だと、優子はそれをふしぎに思わなかった。だがその日は、さすがに行く気がしなかった。宮ノ森の旅館から出た滝江の姿が目に浮かんで、足がすくむような気がした。

 藻岩山もいわやまの陰の、滝江の家に出かけて行くと、滝江は機嫌のいい顔で、優子を部屋に通した。いつもよりすべすべとした白い滝江の肌を、優子は複雑な思いで見た。
「おかあさん、優子さんですわ。さ、何でも、お気のすむまでおききくださいよ」
 優子は何事かと、身を固くした。姑のクメは、しわの深い顔に、いっそうしわをよせて、見すえるように優子をみた。
「優子さん、謙介からきいた話、あれは本当ですか」
 クメは挨拶もそこそこに、まだ立っている優子に言った。優子は不安になって、滝江をちらっと見た。滝江は悠然と微笑を浮かべて、優子に椅子をすすめた。
「あの……お話って、どんな……」
「滝江さんが、ほら、宮ノ森の旅館から、男と二人で出て来たとか、どうとかって。本当ですか優子さん?」
「まあ」
 一瞬優子はハッと息をのんだ。そしてつぎの瞬間狼狽ろうばいした。あれは夫婦二人だけの話ではなかったか。妻の自分に相談もなく、母に電話をかけたらしい謙介に、優子はいきどおりを感じた。
「ほらごらんなさい、おかあさん。優子さんだって、驚くわね。ね、優子さん、大笑いじゃない。四十にもなるわたしに、お相手してくれる男がいるとでも、思っていらっしゃるらしいのよ、おかあさんは」
「…………」
 滝江は、くっきりとした二重瞼ふたえまぶたの目を、いっそう大きく見ひらきながら、優子の顔をのぞきこむようにした。そのあまりにも悪びれないまなざしは、優子に一瞬、あれは自分の錯覚ではなかったかと思わせたほどだった。
「わたし……」
 優子は思わず顔を伏せた。
「優子さん、謙介はね、あんたから聞いたって言ったんですよ。謙介に言ったことを、そのままここで、おっしゃいよ」
「おかあさん、そんなにガミガミおっしゃっちゃダメよ。優子さん、心配しないでね。わたし何も、あなたを責めてるんじゃないのよ。わたし、優子さんを信じていますもの。優子さんは、見ないものを見たなんて、とてもいえない人ですもの」
「じゃ、滝江さん、何ですか。それじゃまるで、謙介がでたらめでも言って来たというんですか」
「いやあね、おかあさんたら。もう少し冷静にお話しましょうよ。優子さんは、見ないものを見たなんておっしゃらないわ。ただね、人間誰しも見まちがいはあると思うの。それにね、おかあさん、世の中には案外似た人っているわよ。優子さんはわたしだと思いちがいをしたかも知れないのよ。わたしだと思ったら、そりゃあびっくりするわ。それにご夫婦ですもの、謙介さんに言ったって、無理もないと思うわ。わたしだって、もし優子さんが、ほかの男の人と、宿から出て来たら、きっと博史にいうと思うわ」
 滝江はクメに気づかれないように、軽く優子にウインクを送って、言葉をつづけた。
「でもね、おかあさん。問題はそれからよ。おかあさんがわたしに、こんなことを聞いたと、謙介さんの電話を教えてくださったのは、それはよろしいのよ。わたしが申しあげたいのは、おかあさんがわたしを信用してくださらなかったことなの。ね、優子さん、聞いてくださいね」
 とまどっている優子に、滝江は微笑した。
「あの日わたし、車がパンクしていたものだから、そのままハイヤーで出かけたのよ。いつものようにデパートに品物を納めて、それから狸小路たぬきこうじの袋物の店をのぞいて歩いたのよ。そして、美容室に行って、シャンプーをして、パーマをかけて帰って来たの。二時から六時までの間に、宮ノ森まで浮気しに行くなんて、そんなしゃれた真似のできる時間があるかしら」
「そうね、パーマは時間を取りますし……」
 優子はやっと口をひらいた。
「いえね、滝江さん、わたしだって、そりゃあ信じたくありませんよ。でも優子さんが見たっていうんだから……」
「そう、おかあさん、つまり優子さんの言葉なら信用できるっておっしゃるのね」
「いいえ、そんなことはありませんよ。公平ですよわたしは」
「いいえ、そうよ。おかあさん、わたしと毎日一緒にいらして、いったいわたしをどう思っていらっしゃるのかしら。わたしね、たとえ時間がありあまったって、博史を裏切って浮気などしませんわ。好きな人ができたら、わたし博史ときっぱり別れます。わたしの気性で、こそこそ男と遊ぶなんて、できっこありませんわ」
「じゃ、優子さん、あなたはいったい、何と謙介に言ったんです?」
 クメは不機嫌な顔を優子に向けた。だが滝江は、優子に口をひらかせなかった。
「おかあさん、わたしは優子さんのことは、どうでもいいの。わたし、おかあさんのことをとても大事に思っているのよ。だから、おかあさんも、わたしを大事に思ってくださるとばかり思っていたの。たとえ世界中の人が、わたしを何と言っても、おかあさんだけは信じていてくださるって、わたし本気でそう思っていたのよ。でも優子さん、おかあさんたらね。優子さんを呼びなさい。優子さんを呼びなさいって、きかないのよ。ね、優子さん、嫁って、損な立場ねえ。息子の言葉は、一も二もなくなっとくなさるけれど、まるでわたし、罪人扱いよ。わたし、今度初めて、ああわたしは、嫁なんだなあ、おかあさんのおなかを痛めた娘じゃないんだなあって、つくづくわかったわ」
「ごめんなさい、わたしがそそっかしいものですから。でも、あの紺のスーツをみて、わたし、てっきりおねえさんだと思っちゃったのよ」
「紺のスーツ?」
「ええ」
「ほらごらんなさい、おかあさん。あの日わたし、和服でしたわね」
 その通りだった。優子がみたのは、和服姿の滝江だったのだ。
 クメは不機嫌な顔をいっそう不機嫌にして、
「優子さん、言葉に気をつけてくださいよ。人騒がせにもほどがありますよ」
 と、強くたしなめた。
 帰り際に、皮製のハンドバッグを、滝江は優子にくれた。そのバッグを優子は惨めな思いで抱えて家に帰った。
 そんなことがあって以来、クメと滝江の仲は、何となく気まずくなり、クメは時々胃を悪くするようになった。やがて胃潰瘍いかいようと診断された。今年の春ついに入院したが、どうやら四カ月の入院生活で恢復かいふくし、後二、三日で、退院するというのである。
 そのクメを、滝江は、優子の家に引きとれと、電話をかけて来たのだった。

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