『自我の構図』( 三浦綾子小説作品 はじめの一歩 )

“はじめの一歩”とは?

三浦綾子の作品を〝書き出し〟でご紹介する読み物です。
気に入りましたら、ぜひ続きを手に入れてお読みください。出版社の紹介ページへのリンクを掲載していますので、そちらからご購入になれます。紙の本でも、電子書籍でも、お好きなスタイルでお楽しみくださいませ。物語との素敵な出会いがありますように。

三浦綾子記念文学館 館長 田中綾

小説『自我の構図』について

1970年に発表された『愛の誤算』『愛の傷痕』を下地にした書き下ろし
出版 … 光文社1972年7月
現行 … 小学館文庫・小学館電子全集
旭川を舞台にした現代小説。高校の美術教師・藤島壮吉が、同僚の国語教師・南慎一郎を、天人峡てんにんきょうへのドライブに誘ったところから物語は始まる。嫉妬と猜疑心から藤島は事件を起こし、南をめる罠をそこに仕掛けた。愛と軽蔑が錯綜するその先には?

「天人峡」

「藤島、きょうはまたいやにあったかいなあ。十月半ばだとは思えないねえ」
 みなみ慎一郎しんいちろうは、車の窓をあけながら、ハンドルを握っている同僚の藤島ふじしま壮吉そうきちを、ちらりとうかがうように見た。
 藤島壮吉の唇が、ひくひくと神経質にふるえている。それは、藤島が機嫌の悪い時に見せる表情であった。慎一郎の言葉に藤島は答えず、右手でたばこをくわえた。右のひじを窓枠にちょっとのせ、藤島は車を走らせている。スピードメーターがぐんぐん上がる。九十近いスピードだ。
(荒れているな)
 慎一郎はふっと不安を感じた。
 車はすでに旭川あさひかわ市内を離れて、二十キロほどの直線道路を天人峡てんにんきょうに向かって走っていた。刈り取られて、白茶けた稲田。稲架襖の向こうにつらなる、新雪をかぶった十勝岳とかちだけの連峰。黄ばみかけたポプラの木立。実も葉も真っ赤に色づいたナナカマドの並木。それらの風景に、慎一郎は不安を押し殺すように視線を向けていた。
 雲ひとつない晴れた空だ。上川かみかわ盆地の四囲の山々の稜線が、くっきりと美しい。こんなに天気がいいというのに、何が藤島を不機嫌にしているのか。
 昨日、藤島壮吉が自分をドライブに誘った時の言葉を、慎一郎は思い出した。
「天人峡の紅葉がすばらしいそうだ。絵を描きに行かないか」
 その時の藤島は、ふしぎなほど上機嫌だったのだ。
(自分から誘っておいて、何を黙りこくっているんだ)
 こんなことなら出て来るのではなかったと、慎一郎は少し憂鬱になった。その時、藤島は、さらにスピードを上げたかと思うと、前方を走っている大型のトラックを追い越した。
「あっ!」
 思わず慎一郎が叫んだ。前方から、バスが大きく目の前に迫ってくる。ハッと体を固くした瞬間、バスは路肩すれすれに避けて、危うく衝突はまぬがれた。
「馬鹿野郎! 気をつけろ!」
 大声でバスの運転手がどなった。乗客たちも窓から顔を出して、何か喚いているのが、うしろから聞こえた。
「危ないじゃないか、藤島!」
 慎一郎は本気で怒った。胸が大きく動悸していた。藤島は眉も動かさずに、無表情に車を走らせている。
「おい、危ない真似はよせよ」
「ふん、危ないか。南、お前はまだ死ぬには命が惜しいか」
 藤島はうすら笑いを浮かべた。車はやや、速度を落とした。
「あたりまえじゃないか。俺はまだ三十四だ。妻も子もいる。生徒たちもいる。命は惜しいよ」
「それに名誉もあるしな、南には」
 藤島は嘲笑するようにいった。
「名誉?」
「そうだよ、日展入選、しかも協会賞に輝く入選だ」
「それが名誉か」
 慎一郎は笑った。藤島がじろりと横目で慎一郎を見た。
「そうか、お前には協会賞も、それほどの名誉じゃないというわけか」
 陰気な声だった。
 南慎一郎は旭川北成高校の国語教師である。藤島はその同僚の美術教師だった。この藤島壮吉から、絵の手ほどきを受けたのは、今からもう七年前のことだった。
 藤島は慎一郎より三つ年長だった。当時まだ三十歳だったが、すでに日展にも入選し、道内では新進の日本画家であった。
 藤島は冗談のつもりで、慎一郎に絵を描かないかと誘ったことがあった。慎一郎は高校時代、絵画部にいたこともあって、すぐに乗り気になり、放課後藤島に日本画の手ほどきを受けた。その慎一郎が、意外な上達を見せ、二年後には早くも道展に入選し、翌年、翌々年と続いて入選、知事賞をさえ獲得した。
 その慎一郎に、藤島は昨年、日展への出品をすすめた。しかも、画題は藤島の妻の美枝子みえこだった。藤島の画室で、その美枝子を共に描こうというのが、藤島のすすめだった。
 なんのために、藤島自身の妻を自分に描かせようとしたのか、慎一郎には納得できなかった。いや、納得したくなかったといったほうが、本当かもしれない。藤島の妻の美枝子は、知性的な美しい女性だった。その美枝子を、藤島と共に描きながら、今までにない描くことの喜びを、慎一郎は感じた。
 青い和服の襟をゆったりとくつろげて、ソファに腰をかけている美枝子の自然なポーズは、描き終わるまでの幾日もの間、まったく変わらなかった。それは明らかにひとつの力でもあった。その力が、自分の絵に新しい命を注いだのだと、慎一郎は思いたかった。そしてそれが、かつてなかった喜びを自分に与えたのだと、慎一郎は思いたがっていた。が、心の底で、美枝子に傾斜していく自分を認めないわけにはいかなかった。それはしかし、自分の胸のなかの奥深い所にある、誰も知らない想いだと、慎一郎は思っていた。
「日展初出品、協会賞に輝く初入選。旭川北成高校国語教師に栄冠」
 思ってもみない結果が、新聞の地方版に大きく報じられた。一方、藤島壮吉の絵は落選した。あれからすでに一年は過ぎた。二人の間に、何事もなく一年が過ぎ、きょう、慎一郎は誘われて共にドライブに出かけて来たのである。
 車はいつしか山沿いの道にさしかかっていた。大雪山だいせつざんがぐっと近づき、白雪の頂きにつづく紫紺の中腹、そしてそのふもとには赤と黄に映える樹林がつづいていた。
「どうした、黙りこんだな、南」
 藤島はふだんの語調に戻っていた。
「ああ」
 慎一郎は藤島を見た。藤島の唇には、あのひくひくとしたふるえは消えていた。
「藤島、君はさっき、ずいぶん荒れていたじゃないか」
「そうか、荒れていたか……実はさ、美枝子のやつがね……」
 藤島はニヤリと笑った。が、たちまち彼の顔はひきしまった。
「美枝子さんがどうかしたのか」
「いや、つまらんことさ」
 藤島は窓からペッとつばを吐いた。
「つまらんこと? そうか、例の犬も食わないという奴か」
 慎一郎は少し気が軽くなって、
「夫婦げんかのとばっちりで、無謀運転をされちゃ、はたの者が迷惑だよ」
「…………」
「まったくいい天気だなあ」
「…………」
 車は再びスピードを上げはじめた。
 天人峡に着いた二人は、峡谷にかかった吊橋の手前で車を降りた。
〈叩けばカンカン音のするような空だ〉
 そんな詩が、昔の小学校の読本に出ていたと思いながら、慎一郎は青空を見上げて大きく深呼吸をした。左手に柱状節理ちゅうじょうせつりの岩壁がそびえ、右手に体まで染まりそうな紅葉の山が迫っていた。渓川たにがわの音が耳にひびいた。
「自然の威圧という奴か」
 藤島はズボンのポケットに両手を突っこんだまま、つぶやいた。
「ああ、天人峡って、いつ来ても無気味な美しさがあるね」
「無気味か」
 藤島がニヤリと笑って、
「なるほど、無気味だな。俺も初めてここにきた時、何か地球の底にでも押しこめられそうな、妙な感じを持ったものだ」
 藤島は珍しくやさしいまなざしになって慎一郎を見た。やさしいというより、気弱なといったほうがよかったかもしれない。弱々しい微笑を見せて吊橋に向かう藤島を、慎一郎はなんとなくため息をついて見た。
 二人は、吊橋の真ん中に立って川を見おろした。水はこれ以上澄むことはできないような、清らかな水だった。いや、澄むという形容は、引き込まれそうに青い水の色には、似合わぬかもしれない。澄んだ水がなぜ青いのか、慎一郎はふしぎだった。大小の岩に砕けて、水は純白の飛沫ひまつを上げる。じっと見つめていると、水の様相は常に変化していた。どうどうとひびくその流れの音が、他の物音を遮断しゃだんしていた。他の音を遮断するほどの大きな渓川の音の中に、ふしぎな静けさがあった。音が作る密室を、慎一郎は感じながら、ふっと美枝子の形のいい唇を、なぜか思い出した。
「おーい」
 突然、藤島が大声で叫んだ。誰か知った人でもいるのかと、慎一郎はあたりを見まわしたが、ただ美しい紅葉と、岩壁と、渓川があるばかりである。
「おーい」
 再び藤島が叫んだ。
「どうしたんだ、藤島」
「なんでもない。ただ、叫んでみたかったんだ。人間には、叫びたいものがいっぱい詰めこまれているからな」
「なるほどね」
 慎一郎は、今、美枝子の唇を思い浮かべていた自分を、指摘された思いだった。
「お前にだって、叫びたいものがあるから、絵を描いているんだろう、南」
「そうかもしれない。しかし、君だって、その叫びを絵にじゅうぶん表現しているから、いいじゃないか」
 ちかりと藤島の目が光った。
「南、絵で叫ぶことのできるのは、俺ではなくて、お前だよ。俺には……」
 藤島は唇をかんだ。が、このとき慎一郎は、藤島の目の光も、唇をかんだその表情も見なかった。慎一郎の目が、けんらんたる紅葉と、渓川の流れに奪われていたからだ。慎一郎は、藤島のこの言葉の重さに気づかなかったのだ。
「人類は、叫ぶことと、絵を描くことと、どっちを先に覚えたんだろう?」
 慎一郎がいった。
「むろん、叫ぶことだよ。人間どもは、獣のように大声でわめいてきたんだ。切なかっただろうなあ。言葉もなく、ただ叫んでいるということは」
 そういって、藤島は再び、
「おーい」
 と叫んだ。
 橋を渡って、ホテル天人閣の前に立った時、慎一郎はいつものことながら、ギョッとする思いだった。
 川の向こうに、幅三十メートル、高さ七十メートルもあるであろうか、鉄に油でもぬったような、幾分湾曲わんきょくした真っ黒な岩壁が、あらわにその肌をさらしていた。それは巨大な鍋の底に立って見る一部のようでもあった。見ているだけで、その岩壁をずるずると谷底へ落ちるような錯覚を、慎一郎は感じた。
「おい、南、あの青空と、かえでの赤を見ていると、女の着る裾模様すそもようを思わせるじゃないか」
 藤島のいった言葉が、慎一郎には何か唐突に思われた。慎一郎は黒い岩壁から、紅葉の木々に目をやって、
「ああ、そうだね」
 と、うなずいた。うなずいてから、藤島が美枝子のことを思っているのだと、慎一郎はやっと気づいた。慎一郎の心がうずいた。なるほど、あの美枝子に青地の裾模様は似合うだろうと思った。グリーンを着せればグリーンが、そして白を着せれば白が、まるで美枝子のために存在している色であるかのように、何色でもよく似合う女だった。赤だけは似合うまいと、なんとなく思っていたが、ある雪の朝、真っ赤なセーターに黒いスラックスをはいて、雪はねをしている美枝子を見た時、慎一郎は、まったく自分の想像が誤っていたことを知ったのだった。
 慎一郎は、自分の手描きの着物を美枝子に着せてみたいと思った。藤島も、同じことを考えているかもしれない。ぶらぶらと肩を並べて歩きながら、慎一郎はいま、妻の由紀ゆきのことを一度も考えていなかった自分に気づいた。由紀の無邪気な性格を、慎一郎は愛しているつもりだったが、美枝子とくらべると、あまりにも由紀は刺激のない存在でありすぎた。
(妻とは、自分にとっていったいなんなのだろう。やはり女性なのだろうか)
 妻は自分にとって女性であるよりも、必需品に近い存在のように思われた。最も性の対象であるべき妻が、結婚後五年もたたぬうちに、そのような存在になったことに、慎一郎は不可思議な思いを抱いた。由紀と結婚する時、由紀は自分にとって、どの女性よりも魅力的で愛らしい女性であった。いつ、いかなる時から、妻は自分にとって女性ではなくなったのか。
(美枝子さんも、藤島にとっては女性と感じ得ない存在なのだろうか)
 慎一郎は、一歩先を歩いて行く藤島のがっちりとした背に目をやった。藤島にとっては、やはり美枝子は最も愛する女性であるかのように、慎一郎には思われた。
「人が少なくて、よかったじゃないか」
 藤島がふり返った。
「ああ、本当だね」
 慎一郎はなんとなくうろたえて答えた。天気のよい割りに、人はあまり来ていなかった。時折り、二人三人にすれ違うだけである。きょうは水曜日だった。日曜日に研究授業をした代休で、北成高校は休みだったのである。
 なんの葉か、地面一面に黄色に散り敷いている。右手の崖下のどうどうとひびく川の上にも、そして笹薮にも、木の葉が絶え間なくひらひらと、風もないのに舞い降りていた。山の匂いがこころよかった。少年の頃、沢深くやまべを釣った時に知った匂いである。無数の大小の岩にいどみかかるように、青い水の流れはしぶきを上げて流れていた。
 二人は細い山道に立って、その渓流を眺めた。
「水というのは、なかなか描きにくいもんだねえ」
 慎一郎は嘆息していった。
「ふむ」
 うなずいているようにも、せせら笑っているようにも見える藤島の表情だった。手に持ったスケッチブックをひらいて、慎一郎は木の間越しに、コンテで川の流れを描きはじめた。
「この流れが描けるつもりか」
「描けないと思うから、描いているんだよ」
「なるほど、描けないと思うから描いているわけか。得られないものだと思うから、得たいと思う。お前は万事そういう奴だ」
 藤島のほおには皮肉な笑いが浮かんだ。
(得られないものを、得たいと思う? なんのことだ?)
 だが、なんのことをいっているのかと、問い返す勇気は慎一郎にはなかった。
「藤島、得られないものは得たいと思う。それが男というものじゃないか」
「そうか、それが男というものか。俺は、得られないと知った時には、きっぱりと思いあきらめるよ。きっぱりとな」
 藤島の頬から、皮肉な微笑は消えていた。
「諦めるのも男、挑むのも男なら、ぼくは挑むね。得られなくてもいい。得ようと挑むその姿勢が、……プロセスが男の生き方だと、ぼくは思うね」
 慎一郎は、美枝子の顔を胸に浮かべながらいった。
「それじゃ、お前は諦めるいさぎよさということを知らない奴なんだな」
「知らないわけじゃないよ。桜のように、パッと散る美しさだって、認めるのにやぶさかではないがね。挑みながら、得られぬものに向かって手を伸べながら、野たれ死にする生き方を、ぼくは選びたいだけさ」
 たぎる流れに目をやりながら、慎一郎はコンテを動かしつづけていた。が、あくまでそれは藤島への戦いの宣言のつもりだった。たとえ得られなくても、そう挑む情熱が、自分の絵を育てるのだと、慎一郎は思っていた。
 碧水へきすいともいうべき流れが、大きな岩に向かって純白のしぶきを上げる。あれが自分の挑む姿だと、慎一郎は思っていた。
 山際に沿い、崖を見下ろす細い道を七百メートルほど行った所に、羽衣はごろもの滝があった。高さ二百五十メートル。日本で第二の高さといわれるこの滝は、白いドレスが腰のあたりでいったんすぼまり、再びその裾を広げるように、優美な形だった。高い滝の上に、ここにもまた澄んだ秋空があった。
「大したごちそうだ」
 じっと見上げていた藤島が、腕組みをしたままいった。
「ごちそう?」
「うん、色彩のごちそうだ。蒼空あおぞらと、木々の赤と黄と、松の緑と、そして、この白い滝だ」
「なるほどねえ。ねえ、藤島、ぼくは絵を描く時、どの色を選ぶか、いつも苦心している。ところが自然の色ときたら、どこに何があってもふしぎに不調和じゃないんだな。神はすばらしい創造をするよ」
「神?」
 藤島は鋭く問い返して、丸木のベンチに腰をおろした。
「神って……君がいう神はどんな神かわからないが、ぼくは漠然と神らしいものを思うことがあるよ。それは、あの神社にまつっている神でもなければ、むろんきつねをまつっているお稲荷さんでもない。死んだ人間をまつりあげた神でもなければ……といって、キリスト信者が信じているような神とも、ちがうかもしれない。ただ、この自然を見ていると、あまりに調和が見事で……つい、神という言葉が出てくるんだな」
「何も、美に神を持ち出すことはないよ。美は美として存在しているんだ」
 吐き捨てるように、藤島がいった。単純にそういい切れる藤島は、強い人間だと慎一郎は思った。
「そうかなあ、しかし、藤島、美っていったい、なんなのだろう。美にも、心の洗われるような美もあれば、人間を地獄の底にまで引きずりこむような、悪魔的な美もある。どっちがいったい本当の美なんだ」
「ふん、お前はそんなことをいっているようじゃ、本当の絵は書けん。悪魔的であろうと、退廃的であろうと、美であるということについては、神聖な美と同格なんだ」
「そうかなあ。ぼくには、美にも段階があるような気がする。いや、本物の美と、にせ物の美があるような気がする」
「にせ物の美? ばかな。美は美だ。美の世界にはモラルなど持ちこまれては困る。美は美だ。美は神聖にして犯すべからずだ」
「そうか。美は神聖にして犯すべからずか。美はそんなにも絶対的なものだろうか」
 不意に藤島がベンチから立ち上がった。
「南! お前にとって美は、絶対じゃないのか。美が絶対じゃないものが絵を描いてなんになる」
 藤島の唇がゆがんだ。
「そんな奴の絵が……協会賞を受けたのか」
 語尾がにごって、慎一郎には、「そんな奴の……」までしか聞こえなかった。
「南、俺にとって、美は絶対なんだ」
 藤島の憎しみに燃えたような目を、慎一郎はなんとなく奇異に思った。
「俺にとって、美がどれほどに大切なものか、いや、俺の命そのものだということが、今にお前にもわかるだろう」
「そうか。じゃ君の命をかけた大作を期待しているよ」
「期待か」
 藤島はじろりと慎一郎を見た。
 二人は滝から五十メートルほど引き返して、川原に降りた。高さ一メートルほどの、平板な広い岩の上に上がって、藤島はスケッチブックをひらいた。そのすぐ下で、二人の声を圧するほどの音を立てて、流れがたぎっていた。
「危ないぞ」
 慎一郎は思わず声をかけた。振り返って藤島はニヤリと笑った。どこか陰惨な笑いだった。水は飛沫を上げ、踊るように流れたかと思うと、エメラルドのようにあおい色を見せて、静かに広がる。ある所は渦巻き、ある所は深いふちのように静まりかえっていた。
「おい、藤島。こっちへ降りて描けよ。降りて描いても描けるじゃないか。万一川に落ちたら、頭を打って死んでしまうぞ」
 四、五メートル離れた川原で、慎一郎は大声でいった。
「大丈夫だ」
「泳ぎが少しくらいできたって、この急流じゃ、通用しないんだぜ」
「そんなことはわかっている。百も承知でこの上に上がってるんだ。黙って描けよ」
 にべもなく、藤島はそう答え、スケッチブックを持って、流れにじっと目を注いだ。
 慎一郎は、争ってでも、なぜあの時、藤島を自分のそばに連れてこなかったかと、後々までもこの時のことを思い出した。
 慎一郎は諦めてコンテを取った。庭師が考えに考えて配置したかのように、さまざまの岩が、ほどよく間隔を取って、流れの中にそれぞれの位置を占め、あるいは水にぬれ、あるいは白く乾いてそこにあった。その渓川の上に、長く突き出した枝から、ひらひらと木の葉が金色に光って散っている。このどれかの岩の上に、慎一郎は鳥を配して制作したいと思った。その鳥は、セキレイにすべきか。セキレイは少しきれいすぎるなどと考えながら、ふっと、美枝子をここに配したら、どんなものかなどと思って、コンテを動かしていた。
(形は描ける。が、この水の動きは描けない)
 絵はしょせん、激しく動くものを描き得ないのか。流れや、雲や、そして生き物の動いている姿を描き得ないのか。何にもまして、近頃、慎一郎が考えるのは、人の心の動きを、ほとばしりを、描き得ないという嘆きだった。美枝子に対する自分の想いを、心の動きを、自分の筆では、なんとしても絵に描き得ない。それが、慎一郎の自分自身の絵に対する不満であった。動きの中の一瞬をとらえて、動きを出す。それは、あまりにもむずかしいことのように、慎一郎には思われた。
 この絶えず変わる水の姿を、藤島はどんなふうに描いているのかと、慎一郎がふり返ったのは、描きはじめて二十分とたっていない時だった。
「おや?」
 最初、慎一郎は藤島が場所を変えたのかと思った。十歩と離れていないその岩の上に、藤島の姿がなかったのだ。慎一郎はあたりを見まわした。道を行く人影もない。
 ハッと川をのぞきこんだ慎一郎は、全身から血の引くのを覚えた。二十メートルほど先を、流れて行く黒いものが見えた。
「藤島──っ!」
 叫んだかと思うと、慎一郎は流れに沿って走り出した。藤島の体は、岩にぶつかりながら水に流されて行く。川原はつきて、崖となった。
「助けてくれ──っ! 誰か来てくれ──っ!」
 慎一郎はおろおろと声を上げ、道の上に駆けのぼった。人の姿はない。
「誰か、誰か来てくれ──っ!」
 慎一郎は、暗い洞穴ほらあなにいきなり放りこまれたように、目の前が真っ暗になった。

つづきは、こちらで

タイトルとURLをコピーしました