『帰りこぬ風』( 三浦綾子小説作品 はじめの一歩 )

“はじめの一歩”とは?

三浦綾子の作品を〝書き出し〟でご紹介する読み物です。
気に入りましたら、ぜひ続きを手に入れてお読みください。出版社の紹介ページへのリンクを掲載していますので、そちらからご購入になれます。紙の本でも、電子書籍でも、お好きなスタイルでお楽しみくださいませ。物語との素敵な出会いがありますように。

三浦綾子記念文学館 館長 田中綾

小説『帰りこぬ風』について

連載 … アイ1971年7月〜1972年6月
出版 … 主婦の友社1972年8月
現行 … 小学館電子全集
札幌を舞台にした現代小説。若き看護師・西原千香子の心の変遷を、日記の形で綴った青春物語。同僚医師・杉井田との恋に揺れる千香子は、職場仲間や入院患者との関わりの中で、自分の生き方を見出していく。吹きぬける風の音を聴きながら。

「序章」

  一月十七日 土曜・晴 風強し
 今日はなぜか、一日淋しかった。淋しさとは一体何なのだろう。何がわたしを淋しがらせるのだろう。原因のない淋しさというものは、へんに不安なものだ。
 夕方、勤務が終って帰る時、急に広川さんの顔を見たくなって、二号病室に寄ってみた。
「千香ちゃん。どうしました? 淋しい顔をして」
 広川さんは、書見器を横にまわして、わたしの顔をじっと見た。ああ、わたしは人にもわかるほど、淋しい顔をしていたのだ。
 広川さんはたしか二十八歳だから、わたしより六つ年上のはずだが、ずっとずっと年上のような感じだ。何となく、人の心を安らがせるふしぎな雰囲気を持っているからだろうか。
「何を読んでいたの」
 わたしは広川さんの書見器をのぞきこんだ。
「モーリヤックのパリサイ女さ」
「モーリヤックが好きなのね」
 広川さんは、フランス語でモーリヤックを読んでいた。
「うん」
「パリサイ女って、なあに?」
「そうですねえ、いってみれば、自分は他の人より正しいという意識が、強すぎる女のことかな。人間はみんな、パリサイびとですよ」
 広川さんのそばにいるだけで、淋しさが消えた。
「広川さん、毎日ていて淋しいと思わない?」
 広川さんは、入院してもう一年になる。慢性肝炎と慢性腎臓炎なのだ。
「淋しくないと言ったら嘘になるでしょうね。でも、病気になったからって、特別健康の時より淋しいということでもないですよ」
 そう言って広川さんは、手の指をポキポキと鳴らした。
「わたし、今日はへんに淋しいの。どうしてかしら」
「生きてるって、そんなものですよ。淋しい日もあれば楽しい日もある。いや、千香ちゃんの場合は恋人がいないからかな」
 広川さんはにこっと笑った。いい笑顔だ。こちらの心をときほぐし、微笑を誘う笑顔である。わたしはアンドレ・ジイドの「狭き門」を借りて帰った。民子さんは、もう準夜勤務で部屋を出ていた。
 今夜は風だ。ガラス戸が時々鳴っている。

  一月二十日 火曜 雪一日降りやまず
 ゆうべ、うとうとと眠りかけていたら、準夜勤務を終えて帰ってきた民子さんが、いきなりわたしにとびついてきた。
「どうしたの」
 思わず飛び起きると、
「千香ちゃん、わたし、とうとう加沢先生とキスしちゃった」
 と、うっとりとした顔をしている。
「まあ」
 加沢先生は、四十を過ぎた外科医長だ。皮靴をキュキュッと、誰よりも音たかく鳴らして廊下を歩くきざな奴!
「民子さん、あの先生には奥さんがいるんじゃないの。外科の山田婦長とだって、ミス外科とだって、噂がある先生じゃないの。どうして、あんな先生に……」
 と怒ると、民子さんは笑った。
「千香ちゃんは、まだ恋をしらないんだもの、この気持わかりはしないわ」
 さくらんぼのような、つるりとした赤い唇をみつめていると、加沢先生のうすい薄情そうな唇が目に浮かんで腹立たしかった。
 男と女って、一体何だろう。男の何に、女の何がかれるのだろう。わたしは清い恋をしたい。真実な恋をしたい。二度と繰返し得ない人生なのだ。悔いのない恋をしたいと思う。娯楽室のピアノの白い鍵盤を十五、六本皿に盛って、カレーをどろりとかけ「召上れ」と加沢先生に食べさせたし。

  二月一日 日曜 晴 寒さきびしい
 準夜勤務。詰所つめしょで体温表の記入をしていたら、杉井田先生が入ってきた。
「あ、君が準夜なの」
 なぜか先生は、ちょっと驚ろいたようにわたしの顔を見た。
「はあ、何か?……」
「いや、君の準夜とわたしの当直は、今までぶつかったことがなかったでしょう。だから……うれしかったんだ」
 杉井田先生は、そういって、てれたように笑った。わたしは思わずドキンとした。こう言われてドキンとしなければ、ヘルツが故障していることになる。
 杉井田先生は、髪をはらりと額に垂らし、いつも、うれいを含んだ目をしているのが(女性の目の表現みたいだけど)魅力的だ。ちらりと見られるだけでも、胸がキュッと痛くなると、ナースたちや女の患者がさわいでいる。その先生に、こんなことを言われたということ、やっぱり素直にわたしはうれしかった。
「君のうちは、大きな食料品屋さんだってね。ご両親とおにいさん夫婦、二番目のおにいさんは東京、店には店員さんが五人もいる……」
 杉井田先生はそう言って、わたしのそばの椅子に腰かけた。いつの間にそんなことを知ったのかと驚ろくわたしに、
「君は二十二歳、趣味は読書と音楽でしょう?」
 杉井田先生は、わたしの顔をのぞきこむように言った。
「まあ、そんなこと……」
「ぼくは、君に関してはいろいろと知っているよ。ただ一つ、君に恋人がいるかどうか、これだけはぼくにもわからないけど」
 即座にいないと言おうとして、わたしはだまった。
 こんな時に、どんな返事ができるだろう。わたしは、ごく平凡な女なのだ。これだけ自分に関心を持たれていると知っただけで、飛び上りたいほどうれしくなる、当り前の女なのだ。けれども、すぐにうれしそうな顔をするほど、無邪気でもない。わたしは多分、当惑したようにうつむいていたと思う。
「君は広川君と親しいらしいけれど……」
 しばらくして、杉井田先生はポツリと言った。広川さんは恋人ではない。わたしはただ、あの人のそばにいると、呼吸が楽になるのだ。心が安らぐのだ。でも、わたしはやはりだまっていた。杉井田先生は、何とも言えない淋しそうな目で、じっとわたしを見つめていた。
 民子さんの寝息を聞きながら、ここまで書いて、わたしは何となくため息が出た。日記を書くように勧めてくれたのは広川さんだ。わたしは、今日までただ何となく書きつづけてきた。けれども、何だか明日からは、何を書くのか恐ろしいような気がする。
 恐ろしいとは何だろう。自分が恐ろしい。他人が恐ろしい。世間が恐ろしい。この恐ろしいという感情は軽薄なのだろうか。こずるいのだろうか。広川さんという人には、恐ろしいことがないような気がする。なぜだろう。

  二月七日 土曜 雪
〈あなたが口を開いて話すとき、そのことばは、沈黙よりも価値あるものでなければいけない〉
 とはアラビアの格言だそうだ。沈黙は金という言葉もある。多分、猛烈なおしゃべりな奥さんを持った男が、苦しまぎれにつくった格言にちがいない。
 たとえ、その言葉が神様の言葉でも、今日のわたしは、黙っていることができないのだ。二十二歳の女の子は、おしゃべりのほうがかわいいのです。
 今日は病院のすぐそばの、札幌神社の裏で、恒例の職員スキー大会があった。でもわたしは日勤で行けなかった。大きな雪が、ふわふわ漂うように降る窓を眺めているだけだった。
 夕方、宿舎に帰ったら、芙佐ふさちゃんが部屋に遊びに来て言った。
「お千香、おごれよ」
 芙佐ちゃんは体重六十六キロ、身長一メートル七十。男性に劣らぬ体格のせいか、男のような口をきくのだ。
「どうして?」
「だってさ、杉井田先生が西原千香子はきていないかって、あちこちで、きいていたっていうからさ」
 芙佐ちゃんは、わたしの肩をぐいとつついた。民子さんも、
「みんなさわいでいたわよ。杉井田先生と西原さんは、そういう仲だったのかとか何とかって。同室のあなたが知らないなんて、ボンヤリねって言われたわ」
 などと言った。
「知らないわよ、わたしだって」
 わたしが困惑したように言うと、芙佐ちゃんは、
「わかってるよ。杉井田先生が千香に熱を上げてるんだ。千香は女のわたしでさえ、ほれぼれするような、きゅっとしまった体をしてるし、情熱的ないいマスクをしてるもん、無理ないよ。好きなら、突進しなよ。応援するよ、ね、お千香」
 芙佐ちゃんはそう言ってから、じいっと、わたしの顔を見て、
「でもね、男ってなまずるい動物だからね、気をつけるんだよ」
 と言った。芙佐ちゃんはいい人だけれど、男を全然信用していない。あとで民子さんが、彼女多分手痛い失恋をしているのよ、と言っていた。
 わたしは、つくづく、スキー大会に行きたかったと思う。わたしは高校時代、スキーの選手だったのだ。スキーに乗ったわたしは、多分誰よりも魅力的な存在であったにちがいない。
 ところで、わたしは、杉井田先生が好きなのだろうか。好かれたからといって、好きになるというのは、主体性がなさすぎる。あの先生のどこが好きなのだろう。あの、やや憂鬱ゆううつそうな目だろうか。誰を愛するか。これは一生の一大事なのだ。人生は撰択せんたくなのだ。誰を選ぶかは一大事なのだ。
 ちょっと分別臭く、そんなことを考えてみたが無駄だった。わたしは、多分、杉井田先生が好きになったのです。

  二月十五日 日曜 快晴 珍らしく風なし
 日直。
 春の日ざしのようなあたたかい日が、どの病室にもいっぱいにさしこんでいた。医師たちはみな日曜で休み。杉井田先生も休み。
 夕方、寄宿舎に帰ったら、珍らしく東京の兄からハガキが来ていた。
「ストーブのそばで、ぬくぬくと過す札幌の冬がなつかしいよ。東京の冬は寒い。千香はスキーを楽しんでいることだろう。その暇もないかな。と、ここまで書いてハッと気がついた。やっぱり逆さに書いている。この頃よくやるんだ。こんな不注意な人間でも、プログラマーが勤まるんだから、ひどいよ。捨てるのももったいないからこのまま出す。注射をまちがえるなよ。東京はひどい流感だ。千香もカゼを引くなよ」
 ふっと、次兄に会いたいと思った。きょうだいっていいな。三人いても、四人いても、さぞいいだろうな。ハガキを逆さに書いても、斜めに書いても、何でもいい。兄っていいな。兄のハガキ一枚で楽しくなるなんて、安っぽい女でしょうか。

  二月十六日 月曜 晴
「この頃、ちょっと、はなやかな噂があるわね、西原さん」
 詰所にうがい薬をもらいに来た真野良枝さんが、好意ある微笑を見せながら言った。真野さんは、広川さんと家が近所とかで、親しい間柄なのだ。
「あら、そんな」
 わたしは思わずあかくなった。噂って、いつもこうなのだ。本人が何も知らないうちに、話だけが大きく広がっていくのだ。
「西原さん、おいくつ?」
「二十二ですけれど、四月には三になるんです」
「二十三ねえ、わたしより十も下なのねえ」
 真野さんは考えるように言って
「結婚は急ぐことはないのよ」
 と言った。どこか、広川さんに似ている人だ。広川さんと結婚したら、きっとすてきなご夫婦になるだろう。
 この頃何となく、わたしはうわずっている。日記は青春の記念碑だと広川さんが言った。日記の中で、じっくり自分を見つめなさいとも、言ってくれた。でも、わたしは自分から目をらしたくなっている。目を外らしてふわふわしていたい。それもまた、青春の日の正直な姿なのだろうか。

  二月二十八日 土曜 曇 あたたかし
 五階でエレベーターに乗ると、思いがけなく、杉井田先生が一人だけ乗っていた。思わずわたしはあかくなった。
「帰るの、西原さん」
 杉井田先生の手が、背にかかった。一瞬のことだった。が、エレベーターは三階でとまった。四、五人、看護婦や患者が入ってきた。人々の視線が、わたしの上に集まるのを感じた。平気でいようとしても、たった今、背に感じた先生の手の感触が残っていて、わたしはついうつむいていた。
 地階でエレベーターを降りたら、うしろから名を呼ばれた。ふり返ると、ガウンを着た広川さんが、やさしい微笑でわたしを包んでくれた。うつむいていたので、三階で乗りこんだ広川さんにわたしは気づかなかったのだ。
「お買物? わたしがして上げたのに」
「うん、この頃、少し動きたいんですよ」
 広川さんは、売店のほうにゆっくりと歩いて行った。
 誰もいないエレベーターの中で、いきなり人の背に手をふれるなんて、失礼ではないか。わたしは、そんな男性は好きじゃない。そう思いたいのだが、今も背中に、あの先生の手がおかれているような、ふしぎな感触が残っている。
 わたし自身とは別の感情、肉体の感情があるのを、わたしは今日初めて知ったような気がする。あのエレベーターで、このまま、先生と二人で地獄まで降りて行ってもよいと思うような、甘美な大胆な感情が、わたしの中にあったような気がする。
 民子さんは、夜、外出することが多くなった。時々、手鏡をじっと見つめていることがある。民子さんも、悩んでいるのだ。妻のある人などを愛してはいけないのに。

  三月一日 日曜 うすぐもり 時々小雪
 広川さんの病室に行く。わたしの顔を見ても、広川さんはしばらくだまっていた。
「どうしてだまってるの、広川さん」
 尋ねると、
「だって千香ちゃんは、だまってそこにすわっていたいんじゃないの」
 広川さんは、かなしい程のやさしい微笑を見せた。その通りなのだ。わたしは、広川さんのベッドのそばに、じっとすわっているだけでよかったのだ。それにしても、広川さんって、恐ろしいほど人の心の動きのわかる人だ。
「わたしね、ゆうべ……」
 杉井田先生のことを思って、眠られなかったと、打ち明けてみたかった。けれども、さすがにためらわれて口ごもると、
「ゆうべ、よく眠っていないんでしょう」
 広川さんは、何もかもわかっている。
 しばらくして、広川さんは童話を話してくれた。星の子どもが、湖に光る星を見て、友だちになりたいと思った。そして、神さまにおねがいして下界に降りて来たら、それは自分の姿が湖にうつっていたという童話だった。
 夜、九時すぎて民子さんが、外から帰ってきた。酒の匂いをぷんぷんさせている。オーバーも脱がずに、ごろりと横になって、
「あなたのかんだ小指が……」
 と歌いはじめた。
「小指が痛い。親指も痛い。中指も痛い。五本の指がみんな痛い。うそ、うそ、痛くなんかありませんよーだ」
 あきれてみているわたしを、民子さんは見上げた。ぎらぎらした目だった。
「千香ちゃん、あんた、妻のいる人を恋してはいけないといったけれど、どうして悪いの」
「あなたはいいと思っているの」
「いいか、悪いか、そんなことわたしの行動の基準にはならないのよ。わたしにとって大事なのは、自分の感情に正直であることだけよ。好きなことを、わたしはしたいの。ね、千香ちゃん。わたしたちは若いのよ。世の中に気がねなんかしてちゃだめよ。一日一日を完全燃焼させなくっちゃ。若い時は二度とないのよ」
 民子さんは熱っぽく言った。今夜何かあったのだ。オーバーの下から出ているすらりとした民子さんの足の、靴下が少しよじれていた。
「でも、人間の世界には、していけないことって、あるでしょう」
「救われないなあ、千香ちゃんは。若さというのはね、立入禁止の立札があったら、その立札を無視して、立ち入ることなのよ。そんな立札をひっこぬくことなのよ」
「まあ」
「触れるべからずと書いてある陳列物には、触れてみる。それが若さの分別よ。若い者の分別は、大人の分別とはちがうのよ。自分の手でたしかめていくのよ。この世で反道徳的ということが、本当に悪いかどうか、挑んでみることなのよ」
「そんな生き方をしたら、傷つくだけじゃないの」
「結構よ、千香ちゃん。この世は戦いなのよ。戦場なのよ。戦場では、傷は名誉じゃないの」
 民子さんはニヤッと笑った。今まで、民子さんはそんな笑い方をしたことがなかったはずだ。わたしは黙って民子さんの布団を敷いてあげた。民子さんの話は、ひどく威勢のいい話だけれど、どこかがまちがっているような気がしてならない。
「いいこと、あなたも杉井田先生と、やけどをするような恋をしてね。祝福するわ」
 民子さんはそう言って、布団の中でもそもそと着更きかえていた。
 若さとは一体何なのだろう。誰かが、
「若さとは成長することである。何に向って成長するか、それが若い人の課題である」
 と、何かに書いていた。
 民子さんは何に向って成長するのだろう。成長というより突進のようだ。わたしは、何に向って成長するのだろう。わからない。悲しいけれど、何に向うべきか、わたしには明確な目標がわからないのだ。

  三月三日 火曜 雨
 今年はじめての雨。すすけた雪をとかす三月の雨は、雨の中で一番いい。
 夕方五時から、寄宿舎の広間でひな祭があった。おしる粉とちらしずし、そして白酒が出た。司会は芙佐ちゃんだった。総勢百人余り。みんな白衣を脱いで、思い思いの服を着ている。わたしも指名されて、浜辺の歌をうたった。歌い終ったとたん、
「よう! 杉井田千香子!」
 と、誰かがはやした。みんなどっと笑った。わたしは真っ赤になって壇から駈けおりた。
「お千香、ガンバレ。みんなで応援するよ」
 司会の芙佐ちゃんが大声でいうと、みんなが一斉に拍手した。
「あんたのこと、みんな祝福しているわよ。よかったわね」
 民子さんが、自分のことのように喜んでくれた。
 何ということだろう。わたしはまだ、杉井田先生とデートもしたことがないというのに、周囲では決定的な事実のように扱っているのだ。わたしは、何かほんろうされているような気がした。
 こうまで噂が広がってしまっては、デートさえしていない事実を誰が認めるだろう。何かひどく不安でならない。

  三月七日 土曜 雪
 日勤を終えて外出した。はじめて杉井田先生と背を並べて街を歩いた。だまって二人で歩いているだけで、生きていることはすばらしいと思う。ぼたん雪が静かに降っていた。降っては、三月の舗道に消えて行く。
 二人で小さなレストランに入った。
「ぼくは母一人、子一人の家族でしてね。おやじは、ぼくが大学一年の時に、突然脳溢血のういっけつで死んだんです」
 先生は、わたしのことをいろいろご存知なのに、わたしは驚ろくほど先生のことを知っていなかった。
「おやじは、商社の一サラリーマンでしたからね。もともと、金には縁がないんです。おやじが無理をして、大学に入れてくれたのですが、それがポカっと死んだものですから、おふくろも洋裁店に勤めたりして、苦労したんですよ」
 先生は、大学院に残りたかったが、経済的な事情で仕方なく、私立だがこの石狩いしかり病院に勤めたのだという。先生は、博士になりたいのだと言った。
「ぼくは博士になんかならなくてもいいんですが、やっぱり死んだおやじや、苦労したおふくろのことを考えますとねえ」
 杉井田先生の、幾分憂鬱そうなまなざしの原因がわかったような気がした。わたしは、先生を大学院で勉強させて上げたいと思う。わたしには、父から贈与された三十万円の定期預金のほかに、高校を出てから貯めた小遣いや、アルバイトのお金が八万円程ある。先生が必要なら、いつでも使ってほしい。
 先生は、わたしを病院の近くまで送って来てくださった。すっかり暗くなった病院の庭で、先生は立ちどまった。顔が近々とすぐそばにあった。エレベーターの中で、わたしの背におかれた先生の手の感触がよみがえって、わたしは体を固くした。でも、先生はわたしの手をしっかり握って、
「また会ってくれますか」
 と言っただけだった。影のように立っている先生を、幾度もふり返りながら、わたしは帰って来た。
 あたたかい夜だ。窓をあけて、わたしはぼんやりと三月の夜空を見上げた。ぼんやりと空を見上げるということも、この人生において、かなり貴重なひとときではないだろうか。
 民子さんがけてくれたのだろう。黄色い水仙が机の上の一輪ざしに可憐かれんだった。

  三月十日 火曜 くもり
 夕食後、芙佐ちゃんの部屋に遊びに行ったら、厚い本を開いて、耳鼻科からこの頃内科に移った沢田柳子さんと何か話していた。沢田さんは、おしろい気のない知的な人だ。この人の白衣は、他の人よりずっと真っ白な印象を受けるのは、人柄のせいだろうか。
河上肇かわかみはじめっていう人は、父親について、何ひとつ悪い思い出を持っていないんだって。子供から見た父親なんて、欠点だらけなのが当り前なのにねえ。これは、父親が偉かったのか、河上肇が偉かったのか、あなたならどっちだと思う」
 芙佐ちゃんが言うと、沢田さんがちょっと考えてから言った。
「たしか、河上肇のおとうさんは、二度も離婚してるはずよ。それほど偉い人には思われないわ」
「でも、それはね、河上肇のおばあさんが、きつかったからじゃない?」
 河上肇については、京大の教授でマルキストだったぐらいの知識しか、わたしにはない。二人は身近な人の話でもするように、かなり詳しく話し合っていた。
「準看の問題もそうだけど、配膳の小母おばさんたちの待遇だって、もっと真剣に考えるべきよ」
 沢田さんはそんなことも言った。わたしや民子さんのように、自分の恋愛のことだけで胸が一杯というのとはちがった、ひとつの青春をわたしは感じた。
 人間にはいろいろな生き方がある。そう思いながら、黙って二人の話を聞いているうちに、芙佐ちゃんが急にわたしに言った。
「お千香、栄養士の本間キヨ子さんのこと聞いた?」
 本間さんは釧路くしろから来ている、いつも濃厚な化粧をしている栄養士だ。口の悪い患者が、おかずがおしろい臭いと悪口を言っているけれど、院内で十指に入る美しい人だ。
「本間さんがどうかしたの?」
「何だ、まだ知らないの。杉井田先生に、この頃モーションをかけているっていう話じゃないの」
 初耳だった。
「杉井田先生と、あんたのうわさがかしましくなったんで、ジェラシーもあるかも知れない。お千香みたいな清純派は、のんきで困るよ。まごまごしていたら、本間さんにあの先生をさらわれてしまうよ」
 芙佐ちゃんはじれったがった。
 柳子さんは、そばにあった本をぱらぱら開いていて、そのいかにも私的な生活には無関心だという態度が、わたしの心をいた。
「男って、気が多いんだからね。そうそう、気が多いといえば、民ちゃんが加沢先生と妙だっていう話も聞いたわ。ばかだよ彼女は」
 芙佐ちゃんは、音を立ててせんべいを食べながら言った。

  三月十三日 金曜 晴
 就寝前、民子さんと浴場に行った。民子さんの体が、少しやせたようだ。肌の色も少し黒ずんでいる。看護学校の生徒が五、六人入っていた。
 白い湯けむりの中に、若い女が首を曲げて肩をこすったり、ちょっと斜めに足を出して、ふくらはぎを洗っているのは、匂やかな美しさがある。けれども、画集でみる裸婦のような美しい人には、めったに会わない。
 ふと民子さんが、わたしの背をつついた。
「なあに」
「きたわよ、きたわよ」
 民子さんがささやいた。戸口のほうを見ると、栄養士の本間さんが、内股うちまたをきっちりと合わせてしとやかに入って来るところだった。少し胴長だが、小麦色のひきしまった体をしている。ただ顔だけが化粧で白いのが、妙にかなしい感じだった。
 本間さんは、わたしを見るとハッとしたようだったが、ちょっと会釈をして、一番遠い隅のほうに行ってしまった。たしかに強敵だと思った。
 生徒たちの話声が、浴場の中に賑やかに反響している。
「今日は十三日の金曜日よ」
「なぜ十三日の金曜日が悪いの」
「知らないわ。西洋の迷信でしょ」
「何でも、金曜日にキリストが十字架にかかったんですって」
「あんた、仏滅に結婚する?」
「仏滅もいいんじゃない。式場がガラガラですってよ」
 わたしたち女の子の話は、結局は結婚と結びつくのだろうか。ひょいと本間さんのほうをむいたら、彼女の鋭い視線にぶつかった。

  三月十九日 木曜 晴
 昨日、一昨日の雨で、庭の雪がずい分とけた。詰所の花びんに猫柳がさされてあるのもうれしい。また春がめぐって来たのだ。
 おひる休みだった。他の看護婦たちが食堂に行ったあと、詰所の窓から何気なく下を見おろすと、栄養士の本間さんが中庭に立っていた。陽を浴びているのかと眺めていたら、杉井田先生が通りかかった。わたしは思わず息をつめた。本間さんが嬉しそうに会釈をした。
 杉井田先生は足をとめて、タバコに火をつけた。本間さんが何か言い、杉井田先生が首を横にふった。先生の白衣に何かついていたのだろうか。本間さんが口に手を当てて笑いながら、先生の肩を払ってやっている。
 本間さんが小首をかしげて、庭の一隅を指さした。白い小さな猫が、日なたぼっこをしている。先生がそばに行って猫を抱いた。本間さんが、先生の腕の中の猫をなでている。先生がひょいと腕時計を見た。本間さんが何か言った。先生は二、三度うなずいて、猫を本間さんに手渡し、向いの外科病棟の廊下に入って行った。
 三階までは、二人の会話は聞えない。わたしは何とも言えないジェラシーを感じながら、聞えないはずの会話が聞えたような気がした。
「やあ、ここにいたの」
「ええ、先生がいらっしゃるのをお待ちしてましたの」
「まさか、そんなことはないでしょう」
 先生が首を横にふる。
「あら、肩に何かついていますわ。あら、髪の毛ですわ」
「ありがとう。よく気がつくんだね」
「まあ、かわいい子猫」
「猫が好きなの。じゃ、連れてきて上げよう」
 わたしは、本当にそんな会話を聞いたような気がした。

つづきは、こちらで

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