『石ころのうた』( 三浦綾子小説作品 はじめの一歩 )

“はじめの一歩”とは?

三浦綾子の作品を〝書き出し〟でご紹介する読み物です。
気に入りましたら、ぜひ続きを手に入れてお読みください。出版社の紹介ページへのリンクを掲載していますので、そちらからご購入になれます。紙の本でも、電子書籍でも、お好きなスタイルでお楽しみくださいませ。物語との素敵な出会いがありますように。

三浦綾子記念文学館 館長 田中綾

小説『石ころのうた』について

連載 … 短歌1972年4月〜1973年8月
出版 … 角川書店1974年4月
現行 … 角川文庫・小学館電子全集
学生時代と教師時代を描いた自伝小説。大人びた少女であった綾子は、女学校卒業後に小学校教員として炭鉱の町・歌志内うたしないに赴任した。初めての社会経験に戸惑いながらも、生徒たちと共に充実した生活を送る。が、世界では大戦争が始まっていた。

「一」

 わたしは何のために自伝を書こうとするのであろう。人間というものは、自己を語る時、たいていは愚痴か自慢話に陥るといった人がいる。自己をきびしく凝視した人のみがいえる痛烈な言葉である。
 わたしは既に「道ありき」に青春時代の自伝を書き、「続道ありき」(註:「この土の器をも」)に結婚以後、「氷点」入選までのわたしたち夫婦の生活を書いた。それは、共に「愛と信仰の告白」をなさんがためであった。
 この「石ころのうた」は、女学校に入った時から、小学校教師として敗戦を迎えるまでの、平凡な女の、平凡な話である。
「いかなる英雄といえども、その時代を超越することはできない」
 ということわざのあることを、「道ありき」にも書いたが、まして平凡なる人間は、超越するどころか、この世の時流に巻きこまれ、押し流されてしまう弱い存在なのだ。
 わたしは、平凡な一少女のわたしが、次第に軍国時代の色に染められつつ、ついに敗戦にあって挫折するまでの自分を、見つめてみたい。
 先年、奈良ならに講演に行った時、一人の青年教師が、
「あなたは、二十三歳にも四歳にもなりながら、軍国主義も、政治も批判することができなかったのか」
 と、わたしに激しく詰めよったことがある。それは、自由に本が読め、自由にものがいえる時代に育った青年が、その時代の中でいえる言葉だった。彼には、軍国主義の時代に育つということ、生きるということが、どんなことかわからなかったのだ。時代が育てる人間という問題がわからなかったのだ。グアム島に二十八年生きた横井軍曹に向っても、この青年は同じ言葉を発するかも知れない。

 わたしが女学校に入学した昭和十年四月現在の家族構成から、述べてみよう。
 父、堀田鉄治四十五歳、母キサ四十歳で、兄三人、姉一人、弟三人、妹一人、わたしをふくめて十一人の大家族であった。
 長兄はまだ二十三歳で、牛乳屋をしてい、次兄は前年十二月に軍隊に入隊し、三番目の兄が鉄道の小荷物係として勤めていた。
 姉とわたしが女学生で、一番下の弟はまだ二歳だったから、新聞社に勤めている父の収入が二百円位だったが、家計が必ずしも楽だったとはいえない。何しろ、朝炊く米が、二しょう五合から三升で、夜は一升五合炊いた。つまり、一日に四升から四升五合、月に三ぴょうの米は軽く食べた。当時の一俵が、三十円として、九十円が米代に消えてしまうのである。
 父の収入は、当時として相当の高給である。大きな小学校の校長が、百円ぐらいの月給だったと記憶している。父は新聞社の営業部長として、広告取りが専門の仕事だった。まだ電通のような広告業のない頃だったから、この仕事は、記者よりも第一線の仕事で、いわば新聞社を背負って立っていたといえる。父の収入は、歩合制で、多い月は三百円に及んだという。
 この父は、昭和四十四年四月三十日に死んだが、その時わたしは、市の名士たちから、父の人柄について聞かされた。誰もがずいったことは、父が非常に温和で優しい人であったということだった。国会議員の佐々木秀世夫人の話では、その夫人の父上がどこかに旅行する時は、必ず広告代をちゃんと包んで留守番の者に預け、「これは堀田さんが来たら上げるように」といって、出かけたということである。
 旭川あさひかわ市内の新聞社の営業マンで、父が第一の成績を上げ、続く第二の人との差は、はなはだ大きかったということも聞いた。
 その後、無尽むじん会社に外交員として働いた時は、二十一人の外交員全部の成績よりも、父一人の成績のほうが大きかったというから、外交面では確かに、優れた能力を持っていたのかも知れない。
 が、父は決して、わが家では温和な人ではなかった。むしろ、火の玉のように激しく、烈火のごとく怒る短期な人だった。それだけに、わたしは父が人々に温和だといわれる外での生活は、下げたくもない頭も下げねばならぬ、大変な辛い生活ではなかったかと、後になって思ったことだった。
 一方、父は非常に子煩悩こぼんのうで、子供たちが熱を出したり、けがなどをすると、すぐに顔色を変えておろおろとし、心配のあまり母を叱りつけるというところがあった。幼い子供たちの鼻汁を紙でぬぐうのは痛くてかわいそうだといい、自分の口ですすりとっていたのを、わたしたち子供は、
「いやねえ、汚いわねえ」
 と眉根をよせながら、しかし内心感じ入ってもいたのだった。
 父が死んだ時の、わたしたちの父に対する思いは「父は優しい人であった」ということだった。それは、わたしがもう四十六にも七にもなっていたという時点においての、つまり、人間という者への理解が深まったがゆえの感慨でもあったろう。が、子供時代のわたしたちにとって、父は恐ろしい、強い、頑固な、いってみればワンマンな存在であったことはいなめない。少女のわたしは家出をしたいと思うことがあったほどである。
 父は、中肉中背の美男であったが、母もきれいだった。子供も多く、絶えず乳呑児ちのみごを抱えて、多忙な家事に追われる身であったが、いつも着物をきちんと着、髪をきれいになでつけ、身だしなみを整えていた。横ずわりにすわるなどということもなく、非常に忍耐強い人で、激しい気性の父に逆らって、口論するということなど全くなかった。わたしたち子供に対して、口やかましい母ではなかったが、子供たちはみな、父よりも母をおそれていたのではないだろうか。いずれにせよ、子供たちの中には、父にも母にも口返しをする者はなかった。また兄弟同志、家の中で口論することもほとんどなかった。
 それは、大家族が平和に暮らしたいという願いからであったか、父の怒りを買うことを恐れたためか、母を辛い立場に立たせないためであったか、よくはわからない。とにかくわが家は決して、明るくのびやかな憩いの場所ではなかった。
 ただ、こんな家庭の中にあって、なぜかわたしは、父に叱られたことが、全くといってよいほど、ない娘だった。

 女学生になったわたしは、ある日、路上で、二、三人の中学生(当時、小学校を出ると、男子は五年制の中学校、あるいは商業学校、女子は女学校に入った。中には家庭の事情で、六年のみで社会に出たり、小学校高等科に進んだりした友もいる)とすれちがった。すれちがいざま、彼らは、
市立いちりつのボンクラ!」
 とわたしを嘲笑ちょうしょうした。その頃旭川には、わたしの入った市立いちりつ高女こうじょ庁立ちょうりつ高女、そして私立高女があった。なぜか市立高女には、庁立高女より成績の劣っている者が進学していると思われていて、彼らもまた、わたしの制服を見て、そう思ったのであろう。
 わたしは黙って彼らをにらみつけた。内心まことにおだやかではなかった。わたしは成績がいいか、悪いかはともかく、小学校時代、級長副級長を幾度もつとめていたし、ずっと首席だった三輪昌子という仲よしも一緒に進学していたから、
「市立のボンクラ!」
 には、腹にすえかねたのだ。
 しかし、今になって思うと、女学校に入ったばかりのわたしは、正直の話全くボンクラだった。
「あんた、リーダー買った?」
 といわれて、
「リーダーってなあに」
 と問い返して笑われたり、英語の時間、社長というニックネームの宮北治平という教師に、
「お早うを、英語で何というか、わかりますか」
 と質問され、いち早く手を上げて、
「グッドバイ」
 と天晴あっぱれ(?)な答えをして笑われたり、散々だった。
 女学校に入ったその年の、五月も半ば頃だったろうか。妹の陽子が腸チフスで入院した。陽子は数え年三歳になるかならぬうちに、いつのまにか字を読み、満五歳のその当時、四年生ぐらいの読み書きや算数ができた。それでいて素直でおとなしく、母の自慢の子であった。
 チフスというのは誤診だったらしく、一か月程して避病院ひびょういんから帰った時は、腹膜ふくまくに水がたまり、ふっくらとしていたほおは、見る影もなく肉が落ちていた。
 一日だけ家にいて、翌日陽子は市立病院に入院した。家を出る時、陽子は、
「わたし、また病院に行くの? 病院に行って死ぬんでない?」
 といった。わずか五歳で、ハッキリと死を意識していたのだろうか。実に静かな声だった。家人は思わずハッとして、
「大丈夫。すぐよくなって帰ってくるよ」
 と慰めたが、陽子は、
「そうお」
 と、さびしそうにうなずいただけだった。既に目のまわりはくろずみ、いま思うと死相がありありとあらわれていた。
 陽子が入院して以来、留守番に来ていた母方の祖母は、
「陽ちゃんはさかしいからねえ」
 といって、メリンスの前垂れで涙をいていた。
 陽子の容態は悪くなる一方であった。わたしは学校の帰りや、朝夕の牛乳配達(わたしは小学校四年生の秋から、女学校を卒業するまで牛乳配達をしていた)の時など、不覚にも路上で涙をこぼすこともあった。
 その時も、陽子のことを思い、あと幾日持つかと、胸の引きちぎられる心地で、友人と歩いていた。と、その友人が、
「陽子ちゃんはその後どうですか」
 と尋ねてくれた。途端にわたしは、いいようのない怒りをおぼえた。それは無論、友人に対してではない。陽子を奪い去るであろう苛酷かこくな運命といったものに対して、いい知れぬ怒りをおぼえたのである。
「わからないわ!」
 わたしは、ありがとうと感謝すべきなのに、激しい答えをした。友人は驚いて黙った。すまないと思ったが、わたしは自分の気持を説明するだけの心のゆとりがなかった。
 この友人は、近所に住む寺田良子といい、朝夕共に通学していた間柄だった。礼儀正しく、真面目な控え目な彼女は、わたしの無礼な返事に驚いたが、顔に怒りを出さなかった。
 二、三日後、わたしたちきょうだいは病院に呼ばれた。家から病院までの一キロ余りの道を、わたしは泣きながら走った。病院に着くと、妹はしきりに寒い寒いといった。六月二十四日のその日はあたたかかった。
 わたしは、弟の乗ってきた自転車に乗って、湯たんぽを取りに帰った。ペダルを踏む足が、夢の中のように、もどかしいほどのろかった。湯たんぽを入れても、陽子はしきりに寒がった。わたしは弟と共に一心に陽子の手をこすった。が、陽子の手はわたしの手の中で冷たくなっていった。
 医師が「御臨終ごりんじゅうです」といって時計を見た。母がワッとベッドの下に泣きふし、前垂れで顔をおおった。きょうだいは誰もが号泣した。わけても、妹の頭のところに立っていた弟の昭夫あきおの泣声が高くひびいた。昭夫は陽子のすぐ上で小学校三年生であった。
 まだ小学校に入らない陽子が、昭夫より先に昭夫のならっている読本を読み、算数をおぼえた。昭夫は生来虚弱きょじゃくでキリギリスのようにせてい、すべての面で陽子に強い劣等感を抱いていた。
 その昭夫が、激しく泣くのを見て、わたしは二重に胸が痛みわたしもまた声をあげて泣いた。
(この昭夫もつい二年前の十一月、横断歩道を渡っていて、車にはねられて死んだ)
 妹は死んだ。満六歳の誕生を迎えて二日後であった。受持の新井玉作先生が、級友を何人かつれて葬式に来てくれた。この中に寺田良子もいた。
 陽子への惜別の情は、その後長くわたしの心の底にあり、その思いが後に「氷点」のヒロインに陽子という名をつけさせた。
 わたしは、陽子にせめて一目でも会いたい思いのあまり、夜毎近くの刑務所や、中学校などの並ぶ真っくらな淋しい場所に行って、
「陽子ちゃん、出ておいで」
 と、大きな声で叫んだものだった。

 陽子の葬式が終って幾日かたった。わたしと寺田良子とは、相変らず誘い合って通学していた。だが、わたしは遂に、彼女に対する非礼をびることができなかった。
 その日、学校から帰ろうとするわたしに、新井玉作先生が近づいて来ていった。
「堀田さん、忙しいですか。ちょっと話があるんですが」
 わたしは、朝夕牛乳配達をしていた。びん洗いや牛乳の殺菌、請求書作成などまで、いろいろな仕事をしていた。元日以外は休めない仕事だった。それを知っていて、新井先生は「忙しいか」と聞いたのであろう。
 先生は、わたしを職員室の隣の応接室につれて行った。そこは十つぼ程の広さもあったろうか。部屋の中央に四角い大きなテーブルがおかれ、そのまわりに背の高い椅子がぐるりと並んでいて、応接室というより、小会議室という感じの部屋だった。何となくうす暗い部屋で、一方に中庭に面する窓があった。四年通った学校だが、なぜか、この中庭にどんな木があったか、どんな庭だったか、全く記憶がない。
 先生とわたしは向い合ってすわった。庭の向こうの屋内運動場から、ピアノの音が聞えていたのを覚えている。運動場のすみにあるピアノを、音楽部の生徒が練習していたのだろう。
「堀田さんは何か読んでいますか」
 何をいわれるのかと、不安だったわたしに、先生は少していねいな語調でいわれた。
「何かって?」
「小説か詩です」
「ああ、小説でしたら、小学校の四年生頃から、菊池寛きくちかんや、久米正雄くめまさおや、牧逸馬まきいつまなどを読んで……徳富蘆花とくとみろかや、森鴎外もりおうがいも少し読みました」
 わたしは口答試問にでも答えるように、一生懸命、作家の名を連ねたようだった。そして、今はヘッセの「デーミアン」を読んでいると答えると、
「ああ、ヘッセはいいです。いいものを読んでいますね」
 といった。
 新井玉作先生は三十をいくつか過ぎたばかりの、国語の教師だった。よほどひげが濃いのか、りあとが青々としていた。というより、黒々としていたというほうが適切のような気がする。無論絶えず剃っていられたのだろうが、いつも無精ひげを伸ばしている感じにも見えた。そのせいか、生徒たちはこの先生を、新漢とかダラ漢、あるいは玉作、田吾作たごさくなどと呼んでいた。
 背は高くはなかったが、がっちりとした肩幅や、大きなギョロリとした目に暖かさが溢れていて、わたしには男らしい好ましい教師に見えた。わたしは入学早々から、新井先生にひいきされていると、級友たちにいわれていた。
 それは、先生が、わたしと大野ヨシという生徒の顔ばかり見て授業するからだった。大野ヨシは、三年の時結核で死んだが、色白のふっくらとした頬と、黒い目が美しい少女だった。が、一方のわたしは、決して愛らしくもなければ、美しくもない少女だった。
 三歳年上の姉の評によると、わたしはめったに笑顔を見せたことのない、無口で無愛想な子だったという。眉がうすく、口が必要以上にきりっとしまっていて、人の心を見透かすような目をしていたそうだ。姉はいう。
「一言でいえば、あんたって、ウンチもオシッコもしないような感じの子だったのよ」
 小学一年から六年まで受持ってくれた渡辺ミサオという先生が、
「あなたは、圧迫されるような、恐ろしい感じの子供だった」
 といったことがあり、女学校の歴史の教師藤界雄くにお先生にも、
「君は、どうもこわくて指名できなかった」
 といわれたことがある。
 こんなふうにいわれるわたしは、おそらく何のかわいげもない生徒で、新井先生が特別かわいがってくれるほどのものはなかったと思う。
 ただ、新井先生は照れ性で、クラス全員の顔を万べんなく見渡しながら授業するといったことは、どうしてもできなかったのではないかと思う。それで、一々うなずきながら熱心に話に聞き入っているわたしの顔を見ながら授業しているうちに、いくらか情が移ったのかも知れない。
 わたしも講演に出かけるようになって、千人二千人の聴衆の中に一人でもうなずいて聞いている人があると、非常に話しやすく、ついそちらに目がいくことを、幾度も経験する。
 それはともかく、先生はその時、
「あなたは何部に入っていますか」
 といわれた。園芸部と答えると、
「美術部に入ったらどうですか。この間の靴のデッサンが非常にいいと、大滝先生がほめていましたよ」
 と、熱心にすすめてくださった。大滝先生とは美術の教師である。わたしは小学校時代、いつもクラスから二人選ばれて、展覧会に絵を提出させられたが、わたしの絵はうまいというより、乱暴なはげしい絵で、わたし自身あまりいいとは思えなかった。
 話はそこで終りかと思った時、先生は、
「堀田さんは、上級生から手紙をもらってことがありますか」
 といった。もらったことはないと答えると、
「あんたのようなタイプは、今にきっと手紙をもらうから、気をつけるようにしてください」
 と、思いがけぬことをいわれた。どういうふうに気をつけたらいいのか、わかりようがない。気をつけますともいえないので、わたしは黙っていた。
 先生はまた、話を小説に戻し、アンドレ・ジイドも読んでいいなどといった。
 わたしは、その時なぜか急に、胸にわだかまっていた寺田良子に対する無礼な自分の態度を、先生に打ち明けてみたい衝動にかられた。わたしはそのことを、せっかちな口調で語りはじめた。話しているうちに、妹のことが思われて涙が溢れた。話したあとも、わたしはポタポタと紺サージのひだスカートの上に涙をこぼしていた。
 先生がその時何をいってくれたかは忘れた。が、わたしはその時初めて、新井先生に対して恋心にも似た甘い感情を感じたことを覚えている。
 わたしの母ははなはなだ記憶のよい人で、親戚知人何十人もの誕生日、結婚記念日、命日などを克明に覚えている。単に何月何日と覚えているだけでなく、誰それの結婚の日は晴れていたとか、あの人の死んだ日は雪の降る寒い日だったとか、その時の天候まで記憶しているのだ。この記憶のいい母が、わたしの勉強していた姿は一度も見たことがないというのだから、わたしは余程の怠惰たいだな人間であったにちがいない。
 その代り、小説を読んでいた姿だけは、よく覚えているという。いつもタンスによりかかって、本を読んでいたそうだ。何しろ多勢のきょうだいである。弟たちがどたんばたんと相撲を取っている、傍で赤ん坊が泣いている、一人が泥まみれになって帰ってくる、というような騒ぎが日常であった。そんな中で育ったわたしは、騒音には強かった。うるさくて読書ができないなどということはなかった。それどころか、いくら母に呼ばれても、その声が耳に入らず、夢中で本を読んでいたものである。こんなわけで、わたしは今も、銀座のど真ん中でも小説を書けそうな気がする。
 当時わたしは、ジイドの「狭き門」「田園交響楽」ドストエフスキーの「罪と罰」その他、椿姫、女の一生、のようなポピュラーな翻訳ものを読みあさっていた。クオ・バディスがおもしろかったのも、その頃のことだった。といっても、わたしはこづかいを一銭ももらってはいなかった。本を買うことなどできはしない。父母に本を買ってもらうという家庭でもない。たいていは人から借りるか、姉の百合子が借りてきた本をわたしは読んでいた。
 わたしの通った女学校には、校長を始め谷地やち、宮北、藤、植松、数坂と思い出す限りよい教師が多かった。民主的な明るい学校で、自治会が活発だった。学校自治会は各クラスから三名の委員が選ばれて構成されていた。この自治会は教師や生徒が傍聴ぼうちょうした。各クラスから学校に対する要望事項が提案され、その提案理由を委員が説明する。わたしはその委員の一人だった。
 わたしのクラスからは、各教室に寒暖計を設置すること、黒板は緑色に塗ること、その他数項目を提案した。一年生のわたしは、自治会の様子は皆目わからなかった。いかなる要領で説明すべきかも、勿論わからない。
 黒板の黒いのは光って目に悪いとか、厳寒の候には、室内の温度を一定にしてストーブをたく必要があるといったのはよいとして、予算がなければ、ず一年のクラスから整備して行ってほしい。一年生は小学校から来たばかりで、まだほんの子供だから、みどり色の黒板や寒暖計は、上級生よりも必要であると、はなはだ手前勝手なことを、わたしは堂々と要求したのだった。
 翌日、新井先生が、
「今度の一年には凄いのが入ってきたと、職員室で評判になったよ」
 そんなことをうれしそうにいっておられた。
 今でもわたしは浅薄で思慮が足りない。いいたいことを遠慮会釈なくいうので、好意を持って聞いてくれる人には問題はないが、時々物議をかもすことがある。が、幸い、教師たちは好意をもって、聞いてくれたのだろう。
 この自治会で、わたしは補習科の渡辺妙子という上級生を知った。補習科とは、本科四年卒業後、小学校教師志望者の進むコースで一年の課程であった。
 この渡辺妙子のつぶらな澄んだ目、ばら色の頬、聡明でしとやかな言葉づかいは、何ともいえない魅力があった。これが同性に憧れの情を持った最初だが、なぜか、校内で彼女を見かけることはほとんどなく、直接話しかけたこともなかった。
 この一年の時以来、卒業するまで、わたしは委員としてさまざまな要求をした。思い出の中にあるその二、三を拾ってみよう。
 その頃、スカートの長さは床上何センチとか、上着の丈は何センチとか規制され、雨の日にレインシューズは不可、長靴をはくことに定められていた。また流行歌を歌うことも禁止されるなど、細々こまごまとした規則にしばられた生活だった。
 わたしはその後、学年が進むにつれて、学校自治会で、これらを一つ一つ打ち破ることに喜びを感じて行った。
「レインシューズがなぜいけないのですか。長靴はスカートやオーバーのすそを早くすり切らせます」
 などといい、レインシューズ解禁となり、おしゃれな女学生は、早速レインシューズをはいたが、わたしはずっと長靴で通した。
 中でも、わたしがくだらないと思ったのは、流行歌を禁じられていたことである。「急げ幌馬車ほろばしゃ」「赤城あかぎ子守唄こもりうた」「二人は若い」などのうたわれた頃で、俗悪な歌詞や曲のものはほとんどなかった。流行歌などは禁じても無駄で、放課後、生徒たちは机に腰をかけたり、窓辺に並んで歌ったりしていた。掃除しながらでも、口をついて出てくるのは流行歌である。思春期の少女が流行歌を歌わないほうが、むしろ不自然でもあった。
「ちょっと、その歌詞教えてよ」
 という、女教師さえいたのだ。にもかかわらず、流行歌は禁止されていたのである。
 わたしは自治会で、ある流行歌を示し、
「この歌のどこがいけないのでしょうか。学校は明らかに守ることのできない規則を、多く作りすぎています」
 と詰めよった。こうして流行歌も解禁となったが、結果としては、解禁前も後も、歌う者は歌い、歌わぬ者は歌わぬこと同様であった。
 ある時の自治会で、わたしはついに幾人かの教師に白眼視されるに至ったことがあった。
 当時、何としても授業を怠けているとしか思えない教師が一人いた。彼は一時間のうち五分と口を開かず、あとは黙々と机間を歩くだけだった。それは、机間巡視の形をとりながら、明らかに自分自身の思いにふけっているとしか思えなかった。
 生徒たちの間に、不満の声が起きたが、それを自治会に持ち出そうとする者はなかった。わたしはそれを、受持の教師にでもひそかに相談すればよかったのだが、自分一人の考えで、いきなり他の教師や生徒たちの傍聴する自治会に持ち出してしまったのである。
 幸か不幸か当の教師はその場にいなかったが、他の教師たちの顔色がさっと変った。校長は黙りこくっている。ある教師がわたしをえるようにしていった。
「堀田さん、毒も薬になることだって、あるんですよ」
 わたしは早速立ち上って応酬した。
「毒か薬か見分けのつかない年齢のわたしたちには、薬を与えてください」
 このあと、幾月かの間、三、四人の教師たちは、廊下ですれちがっても、全くわたしを無視した。今までは笑いかけたり、話しかけたりしてくれた教師たちなのだ。のちに、ある教師が、
「あんたのようなきかない生徒は、学校始まって以来初めてだ」
 と、笑いながらいった。多分、言葉の過ぎるわたしへのこらしめのつもりで口をかなかったのだろう。あとはもと通り何のわだかまりもなかった。
 考えてみると、あの封建的な時代に、このような発言を許していた学校は珍しかったのではないだろうか。
 実はわたし自身、結婚して三浦にいわれるまで気づかなかったのだが、わたしのもののいい方は実に強いらしい。わたしは、その持前のいい方で、この自治会の席上、先生方に無遠慮に迫ったのではないだろうか。「盲蛇にじず」というが、何も知らぬ人間ほど、わきまえがなく、大きな口をききやすい。わたしは、小生意気な少女時代の自分を想像して、今更ながらざんきに耐えないのである。

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