『細川ガラシャ夫人』( 三浦綾子小説作品 はじめの一歩 )

“はじめの一歩”とは?

三浦綾子の作品を〝書き出し〟でご紹介する読み物です。
気に入りましたら、ぜひ続きを手に入れてお読みください。出版社の紹介ページへのリンクを掲載していますので、そちらからご購入になれます。紙の本でも、電子書籍でも、お好きなスタイルでお楽しみくださいませ。物語との素敵な出会いがありますように。

三浦綾子記念文学館 館長 田中綾

小説『細川ガラシャ夫人』について

連載 … 主婦の友1973年1月〜1975年5月
出版 … 主婦の友社1975年8月
現行 … (上下2巻)新潮文庫・小学館電子全集
織田信長を討ち果たした武将・明智光秀の娘、玉子の生涯を描く歴史小説。美しく利発で勝ち気な玉子は、父の盟友・細川家に嫁ぎ、忠興の妻となる。父の謀反により混乱の渦に巻き込まれる玉子。戦国の世にあって、生きることの意味を問い続ける。

「痘痕」

 家人けにんたちが騎馬のけいこをしているのであろう。土塀の外を大声で笑いながら、二、三騎駈けて行く音がした。
 凞子ひろこはいま、病後はじめて、離室はなれの縁にすわり、庭ごしに母屋おもやを眺めていた。うらうらとした春の日ざしが膝にあたたかい。
(あとひと月)
 凞子は病みあがりの肩をおとして、ほうっと溜息ためいきをついた。
 明智あけち城主明智光綱の一子光秀と凞子は、幼い時からの許嫁いいなづけである。光秀が十八歳になり凞子が十六歳になった今年の正月早々、婚儀の日が決まった。
 その婚礼の日がひと月ののちに迫っている。だが凞子の心は重い。病みほそった白い指で、またしても凞子は頬にそっと手をやった。凞子が近づけば、花も恥じてしぼむといわれたほどに美しかったのは、既に過去のことなのだ。
 二月初めのある夕べ、凞子は突如悪寒おかんがしたかと思うと、たちまち高熱を発して床にした。最初は悪いはやり風邪かと思ったが、それは恐ろしい疱瘡ほうそうであった。発熱した翌日、紅斑こうはんが顔に手足に出て来たため、医者はすぐに庭の一隅にある離室に移すように命じた。頭痛や腰痛に悩まされ、化膿の痛みにもだえ苦しんだのち、一命だけはとりとめた。が、はじめてその頬に手をやった時の驚きと悲しみはいいようもなかった。
 顔ばかりか、首にも手にも痘痕は残っていた。父母は神に仏にひたすら祈ったが、痘痕は消えるはずもない。
 父、妻木勘解由かげゆ左衛門範凞のりひろは、美濃みのの豪族土岐とき氏の出である光秀との良縁をあきらめることはできなかった。土岐氏の出であるばかりではない。相手の光秀は、その三歳の時既に、万軍の将たる相がありと、さる僧が驚いたというほどで、十八歳とは思われぬすぐれた人物であったからでもある。
 とてもこの顔では、嫁入りさせることはできない。といって、光秀との縁組を取り消すのは惜しい。父の範凞が窮余の一策を案じたのも無理からぬことであった。が、その時、まだ凞子は父の考えを知る筈もなかった。
 凞子はおそるおそる再び頬に手をやった。絹じゅすのような、かつての肌理きめ細かな頬とは、似ても似つかぬ手ざわりに、凞子は唇をきっとかんだ。
 切れ長の黒い目は、庭の三分咲きの桜の花に向けられていたが、花も目に入らない。幼い時から幾度か会った光秀の、落ちついた思慮深げな風貌が目に浮かぶ。見馴れている若い家人たちの荒々しさとは、全くちがった光秀のその静かさに、凞子は心ひかれていた。
 しかし、それはもう諦めねばならないのだ。どこの世界に、痘痕のあとも醜い女を、奥方に迎える殿があろう。
(それにしても、女の命は見目みめかたちであろうか)
 凞子は、この二、三日思いつづけてきたことを、いままた思った。幼い頃からついこの間まで、愛らしい、美しいと人々にいわれつづけてきた。自分の美しさは、太陽が西から出ぬ限り、いつまでもつづくものと思っていた。が、いまにして凞子は顔の美しさの変りやすさに気づいたのだ。ひどく頼りにならぬものに、頼ってきたような気がする。
 ほうっと、また溜息をついた時、先程の騎馬であろうか。再び地ひびきを立てて塀の外を駈け過ぎて行った。
「いやですこと。またいくさが始まるのでしょうか、お姉さま」
 清らかな声がして、妹の八重やえが母屋から縁伝いに歩いてきた。八重のその白い陶器のような肌に、凞子の視線がちらりと走った。凞子の肌は、これより更になめらかだったのだ。
「若い方たちが、騎馬のおけいこをなさっておられるのでしょう。先程も笑いながら駈けて行かれましたもの」
「それなら、よろしいけれど」
 八重は無邪気な笑顔で凞子を見、
「ご気分はよろしゅうございますか、お姉さま」
 二歳年下だが、八重は凞子と時折まちがわれるほどに、背丈も顔かたちもよく似ている。腰まで垂れた豊かな黒髪を下くくりし、元結もとゆいをかけている。
「ありがとう。気分はもうずいぶんよろしいのです。でも……」
 ほほえんでいた凞子の目がかげった。
「お輿こしれのことがご心配なのでしょう?」
 八重は大人っぽい表情になった。
「おことわり申し上げるより仕方がないでしょうけれど……」
「でも、お姉さま。光秀さまががっかりなさるだろうと、お父上さまがおっしゃっておられました」
「お父上さまが?」
 父の範凞は、凞子が病んで以来、結婚のことについてはぴたりと口を閉じていた。光秀との結婚を誰よりも喜んでいた父だけに、その落胆が思いやられてならなかった。
「あのう、お姉さま」
 凞子の傍らに八重は腰をおろした。病状はすっかりおさまり、伝染の危険期は脱したものの、凞子は少し体を離して、
「何でしょう」
「本当は、お姉さまにはまだ内緒だと、お父上さまがおっしゃったのですけれど……」
「何でしょう」
「……いいえ、何でもありませぬ」
 あわてて八重は、かぶりを横にふった。
「わたくしに内緒のこと?……」
 光秀に関することにちがいない。父は遂に破約を申し入れたのではないか。ひと月ののちに迫っている結婚を、そのままずるずるにしておくことは決して出来ないのだ。
「……よいことですのよ。でも、お姉さまは何とおっしゃるでしょうか」
 八重は無邪気に凞子を見た。
「さあ? わたくしに内緒のことでしょう。内緒のことにいいようはありません」
「お姉さま、お聞きになりたい?」
 よいことと聞けば、知りたくはある。が、今の凞子には、そのよいことさえ知るのは恐ろしくもあった。
「いいえ。内緒のことを伺っては、お父上さまに申し訳がございませんもの」
「でも、お姉さまが黙っていらっしゃれば、教えてさし上げます」
「いいえ、よろしいことよ。お八重、わたくしはお父上さまがおおせになるまで、伺わないことに致します」
「あーら、つまらないこと。わたくしとお父上さまが内緒ごとをしたので、怒っていらっしゃるのですか?」
「いいえ、怒ってなどおりません」
 凞子の目がやさしく微笑した。肌はあばたになっても、その整った目鼻立ちには変りはない。それだけに痘痕は一層痛々しくもあった。
「じゃ、お教えします。お父上さまには黙っていらっしゃって。どうせお父上さまも、すぐにお話しなさることですもの」
「……」
「あのう、お姉さま。わたくしお嫁に行くことになりました」
「まあ! それはおめでたいお話ですこと」
「喜んで下さります? お姉さま」
「それは喜びますとも、おめでたいことですゆえ」
「嬉しいこと。お姉さまはお病気をなさったから、あまりお喜びにならないと思っておりました」
 にっこりした八重の口もとがいかにも幼かった。
「で、お八重、どなたさまのところに?」
「それが、明智光秀さまのところに」
「え? 光秀さま!?」
 はっと凞子は耳を疑った。が、次の瞬間くらくらと目まいを覚えて、片手を縁についた。八重はその凞子の驚がくには気づかず、じっと自分の膝頭をみつめたままいった。
「そう、光秀さまのところですって。お父上さまは、光秀さまのところにお嫁に行くのが、一番お家のためだと申しておられました」
「……」
「お姉さまはお病気になられたので、光秀さまのところにも誰のところにも、もうお嫁に行く気持はつゆほどもない。それでは長いこと許嫁だった光秀さまが、あまりにお気の毒だとお父上さまは申されました」
「……」
「お姉さまとわたくしは、よく似ておりますでしょう? だから、わたくしがお姉さまの身代りになって行くのですって。それが明智さまにも、この妻木の家のためにも、一番よいことなのだそうです」
「……」
「お家のためになることなら、わたくし、喜んでお姉さまの身代りになって差し上げます」
 八重は凞子の顔をのぞきこむように見た。涙のあふれそうな姉の目がそこにあった。八重はあわてて、
「あら、どうなさったの。わたくし、お姉さまの身代りになって差し上げますのに……」
「……うれし涙です。お八重があの方の奥方になることが……」
「まあ、本当? それなら、わたくしも嬉しい」
 八重は単純であった。体は大人でも、まだこの正月十四歳になったばかりの八重には、男女の間の情などわかろう筈がない。父範凞の立場で、何よりもお家が大事と諭されれば、八重はその通り素直に思いこむだけなのだ。
 疱瘡などという恐ろしい疫病にかかったのは、姉の不運である。しかも、こうして姉の顔を眺めれば、この顔で嫁入りしたい思いなどあろうはずがない。まだ心の幼い八重にはそんなふうにしか考えられなかった。八重の乳母は生涯結婚するふうがない。それをふしぎとも思わずに育った八重である。同様の感覚を姉に抱いたのも当然だった。何の悪気もないのだが、しかし、女としての目ざめのない八重のその幼さは、非情であった。非情であることに本人が気づかぬ故に、それは一層非情であった。
「お八重さま、お八重さまはどちらでございますか」
 母屋のほうで、八重の乳母志津の呼ぶ声がした。
「あら、乳母が呼んでいます。では、お姉さま、お大事に」
 何のくもりもない晴れ晴れとした笑顔を見せて、八重は母屋のほうに立ち去って行った。
 しばし凝然と縁にすわっていた凞子は、静かに立ち上がり、部屋に入って戸を閉じた。と、うすぐらい部屋の真ん中に、くず折れるようにすわった。
(八重が、光秀さまの奥方に……)
 凞子にとって、それはあまりにも大きな衝撃であった。幼い時から光秀の妻になると信じて今日に及んだ凞子なのだ。事もあろうに、妹の八重に光秀を奪われるとは。
「人の世は苦じゃ」
 つい数日前、妻木家菩提寺ぼだいじの老僧から聞いた言葉が思い出された。人生に待っているのは、老いることであり、病むことであり、愛する者との別離や、裏切りによる苦しみであり、そして最後の死であるといわれたのだ。
「しかし、それらが苦であるのは真理を知らぬ無知から来るものでな。すべてのものは、刻々変化して行くものと知らぬからじゃ。生まれた者は死ぬ。若い者は老いる。健やかな者も病む。美しい花も散る。すべてが無常と知ること、それが真理を知ることじゃ。真理を知らねば、迷い苦しむも道理でな」
 痘痕あばたのできた凞子の白い手をいとおしそうに取って、老僧は説いた。
(では、今のこの苦しみも、また刻々と変化して、いつかは消えるものではないか。苦が楽に変ることではないか)
 いま凞子はふと、そんなことを思った。八重に光秀を奪われたと苦しむよりも、今の苦しみもまた、無常だと観ずればよいのではないか。
 凞子は老僧の言葉を素直に信じたいと思った。が、今受けたばかりの心の痛手が、直ちに癒えるはずもない。凞子は畳に打ちふし、声を殺して泣いた。
 しばらく泣いているうちに、凞子の心は少し静まってきた。確かに悲しみにも移り変りがあると、凞子は再び老師の言葉を思った。
 自分の病いが、疱瘡とわかった何十日も前に、既に凞子は光秀を諦めていたはずだった。考えてみれば、八重が光秀に嫁ぐという夢想だにしなかった事実に、自分は心を傷つけられただけなのだ。自分が嫁ぐことができぬ以上、光秀が他の女性をめとることは必定ひつじょうである。見も知らぬ他の女を娶られるくらいなら、自分によく似た妹の八重と結婚してもらったほうが、まだしも幸せというものではないか。
 しかも、父は八重を凞子と偽って嫁がせる魂胆らしい。去年の夏一度会って以来、今日まで光秀は自分を見てはいない。光秀が八重をこの凞子と思いこんで、そのまま一生夫婦として終るならば、それはこの凞子自身を娶ったも同然なのだ。自分は光秀に捨てられたことにはならぬ。
 それはともかく、父にとって、土岐氏の縁つづきである光秀との結婚は、重大事にちがいない。父としては、必死の思いで八重を光秀に輿入れさせるのだ。自分はこのままこの家に果てるとも、父をも八重をも決して恨んではならない。
「お家が大事……」
 つぶやいた凞子はかすかに微笑んだ。いや微笑もうとして、またもや涙が噴き上げた。

 遂に、八重の輿入れの日が来た。五月晴さつきばれのすがすがしい朝である。朝から馬のいななく声や、出入りする人々のざわめきがして、閉めきった離室にいる凞子の耳にも、母屋のめでたい気配は伝わってくる。
 八重から光秀との結婚を知らされた日の夜、凞子は父の口からも、その事について聞かされた。その夜離室に来た父は、
「言いにくい話じゃが……」
 と、苦渋に満ちた表情で語りだした。
 長い間待っていた光秀殿との婚儀の日取りまで決まったというのに、その直後思わぬ病気に倒れたそなたは不憫ふびんである。病名が知れては、直ちに破談になるであろうと、自分もいたく心痛した。今のところ家族と乳母、侍女のふくのほかには、いかなる病気か知らせてはいない。明智殿を偽るのは心苦しいが、八重をそちの身代りとして嫁がせる決心をした。無論そなたの胸中を思うと、かくいう父も甚だ辛い。が、戦乱の世にあっては、良縁は一人のものではなく、一族の幸せにかかるものである。辛かろうが、納得してほしい。
 範凞は諄々じゅんじゅんと説いた。それは八重から聞いた通りの言葉であった。既に覚悟していた凞子は、唇に微笑さえたたえて、両手をつき、きっぱりと挨拶を述べることができた。
「お父上さま。どうぞ仰せのようになさって下さいませ。ご心労をおかけするような疱瘡になどなりましたのは、わたくしの不注意からでございます。八重が光秀さまに嫁ぐと伺って、凞も嬉しく存じます」
 思いもかけぬ凞子の言葉に、
「そなたは……」
 範凞は絶句してこうべを垂れたが、思わずはらはらと落涙し、
「許してくれよ、お凞。お家のためじゃ」
「いいえ、お父上さま。おゆるしを頂戴しなければならないのは、この凞のほうでございます。凞はただ、明智さまと八重が幾久しゅうむつまじく、添い遂げられますように、御仏みほとけにおたのみするばかりでございます」
 十六歳の小娘とは思われぬ言葉に、範凞は感嘆していった。
「お凞。そなたをおいて、明智殿にふさわしい女はなかったのに……」
 範凞にとって、凞子は八重よりも一段と愛すべき娘であった。聡明で素直で美しく、範凞の誇るべき存在であった。自分の名を一字凞子に与えていることも、ことさらにその愛着を深いものにしていた。その父の情がわかるだけに、凞子はいささかの愚痴も、恨みの言葉も口に出すことはできない。
 母屋のめでたい賑わいを耳にしながら、凞子はいま、ふすまをぴたりとしめきって、暗い部屋の中にじっとすわっていた。健康状態はほとんど、もとに戻っている。こうして、暗い中にすわって、手も見なければ鏡も見ない限り、凞子自身以前の自分と何ひとつ変るところがないような気がする。
 本来ならば、今日は自分が輿入れすべきめでたい日であった。幼い時から、胸に抱きつづけた花嫁姿になるはずであった。いかに聡明であり、心に諦めを持ってはいても、まだ十六歳の乙女である。さすがに昨夜から心が騒ぎ、ほとんど一睡もしていない。
「お凞さま」
 ひそやかに、ふすまの外で声がした。凞子より八歳年上の侍女ふくの声である。
「もし、お凞さま」
 何度めかの呼びかけに、凞子はそっと、ふすまを三寸ほど開けた。
「何のご用?」
「はい……」
 ふくは伏目のまま、
「あの、ただいま、お八重さまがお別れのご挨拶に伺いますとおっしゃってでございます。ご都合およろしゅうございましょうか」
 凞子が疱瘡をわずらって以来、ふくは凞子を正視しようとはしない。
「そうですか。八重の仕度はもうできましたか。では、お待ちしておりますと伝えておくれ」
「はい」
 答えたが、ふくは立ち去ろうとはしない。
「どうしました、ふく」
「あんまり……あんまり……でございます」
「……」
「おいたわしゅうございます……ふくは……おいたわしくて……」
「ふく。心はありがたく思います。でも、おめでたい日に涙は不吉。八重のために喜んで上げなければなりません」
 ふくは袖口で目をおさえたまま、しばらく泣いていたが、思いなおしたように涙を拭いて立ち去って行った。
 ややしばらくして、ふくのあとに、母に手を取られた白いうちかけ姿の八重が、静かに離室に入ってきた。白い綿帽子をまぶかにかむっているためか、玉虫色の紅をつけた形のよい唇が、ひときわ可憐かれんであった。
「お姉さま、長いことお世話さまになりました」
 板の間に、八重はきちんと両手をついた。
「お幸せに……」
 自分のために整えられた白無垢しろむくを着た八重に、凞子は万感をこめて、ただひとことそういった。
「お姉さまも、お幸せに」
 この自分に、何の幸せが残っているものかと思いながらも、
「ありがとう。大そう美しい花嫁姿ですよ、お八重」
 と、嬉しそうに凞子はいった。その姉と妹のやりとりを、母の万は何もいわずに聞いていた。
「では、参ります」
「お幸せに」
 再び、凞子は同じ言葉を、同じ思いでいった。
 母屋に立ち去って行く八重の姿を、縁に出て見送った凞子は、再びふすまを閉じて呆然ぼうぜんと部屋の中にすわった。八重の花嫁姿と共に、自分の心も自分の中から去って行ったような、そんなうつろな思いであった。
 さぞや涙が出るであろうと覚悟していたが、涙も出ない。涙を流すには、余りにも苛酷かこくな現実であった。
 二年前から、光秀のために織ったかたびらやはかまも、自分のために用意した幾枚かの小袖やうちかけや帯も、みんな八重の長持の中に納められて、今日明智城に運ばれて行く。凞子は自分自身も、せめて八重の侍女になってでも、光秀のもとに行きたいと思った。そして事実、今日限り自分はここに生きるのではなく、八重と共に光秀のそばに生きて行くような気がした。
「お立ちい!」
 やがて凜とした声がひびき、緊張したざわめきが響いてきた。騎馬を先導に、輿や長持の数々がつづくのであろう。その様子を目に浮かべ、輿に乗ったであろう八重の姿を思いつつ、凞子は身じろぎもせずに、暗い部屋の中にすわっていた。
「八重、お幸せに」
 つぶやくともなくつぶやいた凞子は、いまはじめて、嫁ぎ行く八重もまた哀れだと気づいた。今の今まで、光秀の妻となる八重を羨望せんぼうしていた自分が、ひどく浅はかに思われた。
 八重は八重という名を今日限り捨てて、凞子と名乗って生きて行かねばならぬのだ。光秀に凞子と呼ばれる八重は、果たして本当に幸せであろうか。八重が凞子の名を名乗る以上、自分もまた、今日限り凞子の名を捨てなければならぬ。共に悲しい姉妹だと凞子はしみじみと感じた。
 どのくらいったことだろう。気がついた時には、邸内はいつしかしんと静まりかえっていた。
尼僧にそうになりたい)
 凞子はそう思った。どうせ凞子の名を捨てたのだ。今更八重の名を名乗ることもそらぞらしい。尼となれば、俗名を捨てて全く新しい名を与えられるだろう。
 凞子はそっとふすまを開けた。人気ひとけのない庭には風さえもない。ひどく静まりかえって、無人のやしきのようである。雲一つ浮かぶ空を見上げていると、ふいに涙が一筋頬をつたわった。
「ぴーひょろろ」
 どこかでとびの声がした。

 寝苦しい一夜が明けた。昨夜も一昨夜も、ほとんど眠れなかったというのに、神経が異様に冴えている。光秀と八重の盃事さかずきごとの様子が目にちらついて離れない。諦めていたはずが、少しも諦めてはいないのだ。凞子はそのような自分があさましく思われて、一刻も早く尼僧になりたいと思った。
 早速老師を招いて、尼になる相談をしたい。この丈なす髪をったならば、この世への未練も断ち切れるのではないか。そう思った瞬間、凞子の視線が自分の手の甲に落ちた。あばたのある両手である。
 凞子は蒔絵まきえの手鏡をとって縁に出、いどむような視線で自分の顔をみた。頬に額に唇のそばに、点々とあばたが残っている。
(このような顔になっても、光秀さまへの思いを断ち切れぬ者が、たとえ剃髪ていはつしたとて、果して煩悩ぼんのうを断ちきれるものかどうか)
 鏡を膝の上に置いた時だった。ばたばたと駈けてくる足音がした。父の範凞であった。
「お凞」
 範凞の顔色が変っている。
「いかがなされました、お父上さま」
「お凞、八重は戻されて参るぞ」
「えっ? 八重が!?」
「うむ、明智殿のこの書状を見るがいい。明智殿は、明智殿はな、凞、八重がそなたの替玉であることに気づいたのじゃ。そして八重より事情を聞き、こうして書状を……」
 入口に突っ立った範凞の、手も唇もわなないている。
「八重は後刻送り返される。たった今、明智殿の使者が、早馬でこの書状を届けてこられた」
「それでは、かわいそうに八重は……」
「うむ、是非もない。即刻父は明智殿にびと御礼に参らねばならぬ」
「御礼? と申しますと」
「おう、肝心要かんじんかなめのことがあとになったわ。凞、明智どのはな、大したお方じゃ。これ、この書状を見い。予が許嫁しはお凞どのにて、お八重どのには御座なくそうろう。いかなる面変りをなされ候とも、予がちぎるはこの世にただ一人、お凞どのにて御座候。いいか、お凞、いかなる面変りをなされ候とも……」
 範凞は絶句した。

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