『石の森』( 三浦綾子小説作品 はじめの一歩 )

“はじめの一歩”とは?

三浦綾子の作品を〝書き出し〟でご紹介する読み物です。
気に入りましたら、ぜひ続きを手に入れてお読みください。出版社の紹介ページへのリンクを掲載していますので、そちらからご購入になれます。紙の本でも、電子書籍でも、お好きなスタイルでお楽しみくださいませ。物語との素敵な出会いがありますように。

三浦綾子記念文学館 館長 田中綾

小説『石の森』について

連載 … セブンティーン1975年2月〜1976年2月
出版 … 集英社1976年4月
現行 … 小学館電子全集

「わたし」(主人公・早苗)の心をたどる物語。おもな舞台は札幌だが、早苗は、遠く道東の野付半島・尾岱沼まで足を伸ばすことになる。娘を前に酒に浸るママ、すぐ書斎に閉じこもるパパ。早苗の心配は尽きない。ある日、早苗は学校帰りに、ママが見知らぬ男と車に乗っているのを見かける。帰ってからさりげなく尋ねても、ママは語ろうとしない。妙に笑い、ウイスキーをあおっていた。早苗は車のナンバーを調べ、持ち主が詩人であることを知った。なんとその詩人は、パパが勤務する会社の社長の息子だった……。
大人になること、愛を知ること。その残酷さと尊さを知っていく少女の、傷つき揺れる青春の狂気を描く。

「第一章 燈のない部屋」

   一

 その人はいっていた。
「人間は、本当に男と女の二種類しかないのだろうか。一旦こう考えると、会う人会う人が、男でも女でもなく見えて、仕方がないのよ」
 どこの人かは、わからない。黒い、ほんとうに見事に黒い髪が、腰のあたりまで長く垂れ、そのまつ毛も、濃く長かった。が、唇は冷ややかなほどにうすく、鼻の形も、特にいいというほどではなかった。美人という顔ではないかも知れない。
 が、その人が、すっと背をそらせて、ゆっくりと、喫茶店サイロに入ってきた時、わたしは食べかけていたアイスクリームのスプーンを、取り落としそうになったほど、はっとした。
 着ているものは、V字ネックの、飾り気のない白いブラウスと、白い細いプリーツスカートだった。よく見れば平凡な服装なのに、その人はひどく妖しい雰囲気を持っていた。
 多分、あの人は、何を着ても、あるいは全く何も着ていなくても、あのふしぎな雰囲気を持っている人なのではないだろうか。
 わたしは、斜め向こうの席にすわったその人に、ぼんやりと見とれていた。その人の連れは、二人の男だった。一人は大学生らしい長髪の青年で、ジーパンをはいており、一人は三十近い紳士タイプの人だった。
 主にジーパンが一人で話をしていた。何を話しているのかは、席が遠くて聞こえなかった。時々その人は、ひっそりと笑い、時にはきびしい顔をしていた。
「人間は、本当に男と女の二種類しか……」
 という言葉は、わたしがその傍のレジで、お金を払っている時に聞いたのだ。その声はまろやかで、一種の気品があった。
 あの人は札幌の人だろうか。
 帰ってきたら、まだ八時だった。ママが一人でウイスキーを飲んでいた。ママはわたしに、
「ね、早苗、一緒に飲もうよ」
 という。いやだといえば、ママは淋しいだろう。わたしはそう思って、
「いけないわ、ママ。誘惑しないで」
 といいながら、コップを出した。
「オンザロック?」
 ママはうれしそうに、氷をコップの中に入れた。氷がひどく侘しい音を立てた。
「ね、早苗。早苗って、こわい子だわねえ」
 しばらくしてママがいった。
「どうして?」
「だってさ、早苗は一度だって、飲んべえのママを非難したこともなければ、どうして飲むのって、聞いたこともない」
 ふいにママの目に涙が盛り上がった。
「ママ、どうしたの? ママはわたしに何かいわれたいの」
 わたしはママに、聞きたいことが山ほどある。が、わたしは一度だって聞いたことはないのだ。ママがお酒を飲みはじめたのは、わたしが中三の頃からだ。中三のわたしに、ママは、
「ね、一緒に飲もうよ」
 って、いったのだ。ママはきっと、わたしに白い目で見られやしないかと、おそれていたのだ。だから共犯者にしてしまいたかったのだ。
 パパは酒もタバコものまない。パパは読書が好きで、すぐに書斎にとじこもってしまう。でも、わたしは知っている。パパは時々、本も読まずに、ぼんやりと何か考えていることを。
 あの時……わたしがママにお酒を教えはじめられた頃だから、やはり中三の冬だった。土曜の午後、書斎に入ったきりのパパに、わたしは熱い紅茶を持って行った。
 軽くノックをしてドアをあけると、もううすぐらくなっているというのに、燈もつけずにパパは机に向かっていた。
「パパ、お紅茶よ」
 というと、いつもは「ありがとう」というパパが、
「うん」
 といったきりで本を見ていた。もう、字も見えないうす暗さだということに、パパは気づいていないのだ。
 わたしは燈りをつけずに、そのまま部屋を出た。あの時、パパは泣いていたからだ。
(パパが泣くなんて?)
 ショックだった。わたしはそれまで、パパの泣いた姿を見たことがない。
 茶の間にもどると、ママがいった。
「パパ、本を読んでいらした?」
「ええ、もう夢中よ。パパったら」
「そう、電気をつけずに?」
 わたしはギクリとした。ママはパパの部屋が暗いのを、ちゃんと知っていたのだ。きっとパパは、それまでも、時々うす暗い中で本をひらいていたのだろう。
 いったい、パパは何を考えていたのだろう。でも、わたしは、
「パパ、電燈もつけずに、何を考えていたの」
 なんて、聞けない女の子なのだ。
 誰だって、人にはいえない思いというものがある。親子四人、同じ屋根の下にくらしてはいるけれど、いったい、お互いどれほど、お互いを知っているというのだろう。パパやママが、何を考えているかわからないように、パパやママだって、わたしが本当は何を考えて生きているかなんて、決してわかってやしない。
 兄だって、わたしを知らない。わたしも、兄が、何を考えているか、わからないように。何も知らない同士が、親子きょうだいで、そしてもしかしたら、何もかも知っていると錯覚していたとしたら、これは悲劇だ。いや、喜劇かも知れない。
 兄貴ときたら、部屋の壁に大きなヌードを三枚も貼って、いつもへらへらと笑っていて、そのくせ、
「原水爆禁止運動にカンパをねがいまあす」
 と、街頭に立ったり、盲人ライブラリーのために「日本の歴史」全二十巻を、グループでテープに吹きこんだりしている。
 この間わたしの部屋に来て、
「おめえは少しおくてだぞ。十九という年で、まだ気の利いた恋人もいないなんてよう。おれの女の子なんか、十八やら十七やら、いや、十四の子だっている」
 とでたらめをいっていた。一度だって、わたしに原水爆の話も、盲人ライブラリーの話もしたことがない。父母だって「日本の歴史」のことが新聞に出て、はじめて自分の息子たちが、そんなことをしていたのかと驚いたのだ。
 家族というのは、お互いのことが、何もわからなくても、いいものなのだろうか。わたしだって、本当はママに聞きたいことがたくさんある。たとえば十日ほど前、ママが一緒に車に乗っていたあの男は誰なのか、ママとどんな関係があるのか、わたしは知りたいのだ。
 少し頭が痛くて、早退けした日だ。大学からの帰りのバスが、駅前の赤信号で停った時、少しおくれて、隣にベンツが並んでとまった。わたしは、ちょうどそのベンツのほうを向いて立っていたので、何気なく車の中を見た。
 ハッとした。助手台にママがいたのだ。ママは、あの大好きなグリーンにすすきを黒く散らした着物を着て、運転台の若い男性と親しげに何か話していた。きりっとした眉の、どこか淋し気な横顔の男の人を見た時、わたしは正直いって、ママに嫉妬を感じた。わたしは咄嗟に車のナンバーに目を見やった。その番号を、わたしは頭に入れたのだ。
 家に帰ると、ママはまだ外出着のまま、ぺたんと座敷の畳の上にすわっていた。わたしを見ると、ママはひどくおどろいて、
「どうしたの? 体がわるいの」
 って、いつもより、それはそれはやさしくしてくれた。
「ママ、どこかへ行ってきたの」
 と聞きたかったが、わたしはそ知らぬふりをして、
「どこへ行くの」
 といった。ママは、
「ちょっとね、パパのご用で行ってきたの」
 と早口でいった。ママは、めったに早口になどなりはしない。いつも、少しゆっくりと、やや甘ったるい調子でものをいう。
 あの晩、ママはメロメロになるほどウイスキーを飲んだ。そしてゲラゲラと笑い、いつものようには泣かなかった。
(ママ、あのベンツの人は誰なの)
 わたしは、あの日、幾度ママに聞こうと思ったかわからない。でも、ママ、わたしは聞かなかった。その代りわたしは、記憶していた番号を、電話で自動車協会に問い合わせたのだ。ママ、ゆるして。
 ママ、あの方は新進の詩人、沢謙三さんで、パパのつとめているK商事の社長の息子さんだったのね。
 ママは、わたしが一度もママを非難したことがない、どうして酒を飲むのかと尋ねたことがないって泣いた。でも、わたしは知りたがり屋だ。人間はみんな穿鑿せんさく好きだ。いやらしい目を持っているのだ。いやらしい目を持っているのだ。でも、わたしはほんの少しプライドがある。ほんの少しつつしみがある。ほんの少し、やさしさがある。どれもこれも、ほんの少しだが、しかし、それらの少しが重なって、わたしは無理に尋ね出そうとはしないのだ。

   二

 十九歳。それは二十歳の一年前の年ということではない。十九歳と、二十歳とは全く質的にちがうのだと、サチ子も、ヨリ子もいう。
「どうちがうのよ、質的に」
 といったら、
「早苗は、十九歳までは、殺人をしても少女Sなのよ。刑も軽いわ。でも、二十歳になったら、たとえ万引しても少女Sとはいわないわ。三木早苗なのよ」
 そんなことは、みんながいう。陳腐ちんぷすぎる。第一、十九歳と二十歳で、人間が質的に変わるなんて、サチ子もヨリ子もどうかしている。決定的なちがいだなんて、ありはしない。十九歳の人間が、二十歳の人間より大人の場合だってあるのだ。
「それに早苗、十代と二十代では全くちがうわ。十代には、まだ十一か二の子供もいるじゃない。でも、二十代には子供はいないわ」
 だからどうだというのだろう。十一か二の時だって、わたしは人を好きになるという、あのやさしく切ない感情を知っていた。
(これはいってはいけないことだ)
 ということだって、もう十一か十二でちゃんと知っていた。大人のほうが、ずっとデリカシィに欠けていて、ずいぶんと無遠慮なものの言い方をする。もしかしたら、子供のほうが大人ではないかしら。
 わたしは、十九歳と二十歳はいかにちがうかという問題に飽きていった。
「ねえ、もしもよ。もしも、月も太陽と同じぐらいの熱を地球に与えるものだったら、どうなると思う」
「夜がなくなるわよ。夜ひる照らされて、わたしたちは黒人のようになるわよ。これ以上黒くなったら、わたしはゼッタイ自殺する」
 色の黒いヨリ子は、ゼッタイというところに力を入れて笑った。サチ子は、
「早苗は子供ねえ。そんな質問、やっぱり十代の子のいうことよ。二十歳になったら、そんな子供っぽいことをいう人はいないわ」
 子供で結構。大人とは、いったいどういうことなのだろう。蟻の行列を長いこと、じっと見つめているあの純粋な探究心。あんな純度の高い心境にあるのが子供だとしたら、子供は、何と気高い世界に生きていることだろう。
 大人というのは、もしかしたら、金、地位、名誉に無関係では、勉強も仕事もできない人のことをいうのではないだろうか。
 わたしは時々パパがきらいになる。ママがお酒を飲んでも、駄々をこねても、一言も叱らないパパがきらいなのだ。いや、叱れないパパがきらいなのだ。ママの不幸は、きっとパパに無関係ではない。わたしは、女を不幸にするような男はきらいだ。ママが泣くと、わたしはパパに憤りが湧く。
 でも、そんなパパだけれど、パパの読書好き、あれは、金にも、地位にも、名誉にも無関係だと思う。パパにはうすぎたなさがない。
 パパはフランス語が、英語よりも上手で、書斎に並んでいるモーリャックっも、ジイドも、スタンダールも、みんな原語だ。
 わたしは、三つ四つの頃から、中学校に入るまで、パパに抱かれて寝た。パパの体はあたたかく、息にかすかな香気があった。たばこをのまないパパの匂いは、お茶のようないい香りがした。
 パパはわたしをそっと抱きしめて、
「ボンジュール、マドモアゼル」
 といったことが幾度かある。また、ある時は、
「アデュー、アデュー、アデュー」
 と、いいつづけたこともある。いま考えると、そんな時の父は、ひどく淋しそうだったような気がする。
 パパはまた、毎朝食事の前に、わたしを連れてよく散歩に行ったものだった。パパは多分、フランス文学の影響でもあったのだと思う。道や家に、よく名をつけた。
「さ、喜びの森に行こう」
 とか、
「第五シンフォニィの川に行こう」
 といった調子だった。喜びの森は、今はもう団地になってしまったが、あの頃は白樺しらかばかしわの林で、紅葉の頃などは白樺の幹が、正に歓喜しているようだった。
 第五シンフォニィの川は豊平川とよひらがわで、この広い川原で、父は時々、フランス語(だと思う)で静かに歌っていたことがあった。
 それから、「涙の谷」という小さな、いつもじめじめしていた窪地や、「めぐりあいの橋」という何の変哲もない木橋もあった。
 パパは、兄とわたしの二人の子がいても、少年のようにみずみずしい人だったと思う。あのパパが、どうして自分の家を「涙の谷」にしてしまったのか、わたしにはわからない。いや、わが家がすべて「涙の谷」というわけではない。ママは「涙の谷」であっても、お兄さんは「陽のあたる丘」わたしは「惑いの森」パパは「沈黙のほとり」にいる。
 パパはいつから変わったのだろう。いや、一見パパは変わらない。いつも静かで、いつもジェントルマンだ。が、どこかが変わって、それでママが泣くようになったのだ。
 あの日の食卓は凄かった。凄いというのは、きっとああいうことだろう。
 会社から帰ってきたパパが、いつものように口をゆすいで、手を洗い、食卓についた。ママは、
「お帰りなさい」
 ともいったし、にこやかに、
「あたたかくなりましたわねえ」
 ともいった。が、食卓にはご飯と味噌汁だけだった。しかもからつゆだ。実は何もない。料理自慢のママは、どんなに忙しくても、魚か貝のフライに野菜サラダぐらいはつけるのだ。それにポタージュか味噌汁は無論欠かさない。忙しくなければ、その上、いもの煮ころがしだの、トンカツだの、まるっきり作法に反したメニューだが、とにかく食卓を賑わすのだ。
 が、あの日は、ご飯と実のない味噌汁をおいただけで、にこにこしていた。パパはだまって食べた。わたしはパパが気の毒で、おのりを焼いたり、目玉をつくったりしたが、ママは平然としている。
 珍しくその日は早く帰ってきた兄貴が、
「ママ、ママはきっと、インドやアフリカの、飢えている人のことを考えたのだね。うん、こういう食事も、ぼくたちには時に必要なんだ」
 といって、わたしに、
「ぼくは、のりも目玉もいらない」
 と断わった。ママは何もいわずに、にこにこしていたが、パパが黙々と食べているのを見ると、突然、パパの茶碗をとり上げて、床にはっしと投げつけてしまった。
 パパはママをじっと見つめていたが、それは少しも怒ったまなざしではなく、むしろ、あわれみを乞うような、悲しい目の色であった。兄は黙ってわたしをつつき、向こうへ行こうと目で合図した。きっと、この場はママとパパの二人にしておいたほうがいいというのだろう。
 兄と二人で外へ出ると、五月の夕焼空が、かなしいほど美しかった。兄は例によって、
「おい、あの女の子のふっくらとした足を見な。男は全く、女の足にほれるんだなあ」
 と、ちゃらんぽらんなことをいっていた。
 わたしはふっと、髪の長いあの妖しい人を思い出していたが、別のことをいった。
「ね、お兄さん、小指は何の役に立つの?」
 といったら、
「小指がなきゃ、指きりげんまんができないじゃないかよう」
 と兄が笑った。
「なあるほどね。でも、どうせ指きりしたって、人間はたいてい約束を守らないじゃないの。守りもしない約束なら、はじめからしないほうがいいわ」
「人はね、約束は守りたいのさ。でも、いろいろと家庭の事情でさ、守れないのさ。でもね、そうとわかっていて、約束してほしいものなんだ、人間はね」
 二人は豊平川の堤防に上がった。川に夕焼が映っていた。
 父のかつての「第五シンフォニィの川」は、挑むようにきらきら光っていた。二人は、子供の時のように、
「あした天気になあれ」
 と、サンダルを投げた。何だか子供に返りたかったのだ。
 兄のサンダルは裏返しになり「雨」。わたしのは表が出て「晴」となった。

   三

 どんなに親しい関係にあっても、それは、いつ崩れるかわからぬという危機を持つ。問題は、その危機を感ずるか、否かなのだ。親子にしても、夫婦にしても、友人にしても、恋人同士にしても、そして学園の教師と学生にしても。
 決して、自分を裏切らないという存在はない。自分もまた、決して人を裏切らぬという確信のないように。
 あれからずっと、毎日のように、わたしはあの人のことを思っている。喫茶店で会っただけの、あの行きずりの人が、なぜこんなにもわたしの心を捉えるのだろう。
 あの日、あの人は白を着ていた。でもあの人は、本当は黒の似合う人だ。わたしはそんな気がする。どんな家に住んでいるのか。なぜか、彼女には家がないような気がする。一戸建も、マンションも安アパートも、あの人には似合わない。要するに彼女は、何かの妖精のように、海の上に寝ているなどというのが似合うとわたしは思うのだが。
 ママはこの頃、お酒を飲まない。ひどく淋しい顔をして、せっせと庭の花壇をととのえたり、料理をつくったりしている。もちろん空汁からつゆなぞはつくらない。何か必死に耐えているようで、わたしは、
「ママ、かわいそうね」
 と、その肩を抱いてやりたいような気がするのだ。
 ママは、パパと結婚するまで、苦労をしたことのない人なのだ。生まれたままの、きれいな気持ち……人間は生まれた時から、心が純かどうかは、疑わしいけれど……で、人を疑うことを知らなかった人だ。
 いや、パパと結婚してからでも、わたしが中三の時、つまり、ママがお酒を飲みはじめる頃まで、ママはそんな無邪気な人だった。だから、誰にでも好かれたり、誰をも好いた。ママは親切で、その親切も並ではなかった。こんなことがあった。
 その日、ママは五時には街から帰ってくるはずだった。日曜日で、みんなはママが買ってくるはずの肉やら野菜やらを待っていた。が、ママは五時になっても、五時半になっても帰らない。もしかしたら交通事故にでも遭ったかと、不安にかられはじめた頃、
「ただいまあ、遅くなって、ごめんなさい」
 とママは朗らかに入ってきた。
「どうしたの、ママ」
 三人は玄関に飛び出した。パパはどんな時でも、あわてることのない人だから、飛び出すなどということはしないけれど、でも、その時ばかりは、そう形容してもいいほどの迎え方だった。
 ママはのんびりと、
「あの、あそこでね、バスを降りたら、八十ぐらいのおばあちゃんが、青信号になっても渡れずに、うろうろしていたの」
「ママは、それで手を引いてやったというわけかい。でも、それだけでこんなに時間はかからないだろう、ママ」
 心配していた兄は、常日頃に似合わず、不機嫌にいった。
「一旦は手を引いて渡ったのよ。でもね、本当によたよたしていらしてね。あんまり心配で、タクシーを拾って、手稲ていねまで送ってきたのよ」
「手稲まで?」
「ママが行かなくても、乗せてあげたら、それでよかったじゃないの」
「それはそうだけど、もしも運転手さんが面倒がって、お家を探してあげないと困るでしょ?」
「やられた!」
 兄は大仰に、じゅうたんの上にひっくり返って見せた。
 ママには、もともとそんなところがあって、パパもこんなママを心から愛していたはずなのだ。いや、今だって愛しているように思うのだけれど、ママが時々拒絶反応を示すのだ。するとパパは、悲しげにじっとママを見つめているだけで、何もいわない。パパが変わったのはここなのだ。以前なら、
「おや、ママらしくないよ、それは」
 とか、
「へえ、ママでもそんなことをするの」
 とかいって、やさしくたしなめたはずなのに、パパはもう何もたしなめなくなったのだ。
 いったいそれはなぜか? わたしにはそこがわからないのだ。パパは相も変わらず、酒もタバコものまず、外泊もしない。社用で時々出張したり、遅くなるのも以前と同じ程度の回数だ。わたしたちには、パパ自身は少しも変貌していないように見えるけれど、きっと、どこかで変わっているのかも知れない。だから、あの幼な子のようなママが、お酒を飲んで泣くようになってしまったのだ。
 が、もしかして、わたしのこの推理は、まちがっているかも知れない。あの空汁事件? の何日かあと、ママはいったのだ。
「早苗ちゃん、あなたはママが苦しんでいるのに、ただ、だまって見ているだけなのね」
「でもママ、わたしママに、どうしてあげたらいいのよ」
 本当のところ、わたしは誰の傷にもふれたくはないのだ。
「ママはね、早苗ちゃん。ママは、パパに愛してほしいのよ」
 そういってママは、わたしの顔をじっとのぞきこむようにした。目がうるんでいた。
「パパは、ママを愛しているじゃない」
「ううん、愛してはいないのよ」
「そうかなあ、そうは見えないけどなあ。でもそうだとすると、パパって悪党なのね」
 途端にママは激しく首を横にふり、
「ちがう! パパはいい人なの。あんまり……あんまりいい人すぎるの」
 と、ちゃぶ台の上に顔をふせて、むせび泣いた。
 結局、ママもわたしには全部をいえはしなかった。何がママを苦しめているのか、やはりわたしにはわからない。
 もしかして、ママはとり返しのつかぬ過失でも犯したのではないか。それとも、どちらも悪いのだろうか。わたしには、パパもママも、まじめな人たちに思われるのだけれど。
 今朝、ごはんを食べながら、テレビを見ていたら「お早う、北海道の皆さん」という対談番組があった。
「きょうは、札幌在住の新進詩人、沢謙三さんをご紹介いたします」
 とアナウンサーがいった。わたしはハッとした。あのベンツの人だ。わたしは思わずママを見た。ママは伏目のまま食事をしている。兄が、
「ほう、沢謙三か。この人、パパの会社の社長の三男坊でしょう」
 と詳しい。
「うむ」
 パパは、トーストにバターをぬりながら、うなずいた。
「この頃、随筆なんかも書いているよね」
「そうかね」
 ママは黙って、パンをむしっていた。
「それにしてもいいマスクだ。新劇の俳優のようだな」
 この人のベンツに、母が乗っていたことを兄は知らない。パパは知っているのだろうか。テレビを見ながら、黙々と食事をしている。
 アナウンサーがいった。
「独身でいらっしゃるそうですが、まだしばらく独身を楽しまれますか」
 ママの目がちらりとテレビに行き、すぐにまた伏目になった。
「独身を楽しむとおっしゃられるほど、楽しんでもおりませんが」
 いい声だ。男性的なバリトンだ。鼻筋が通っていて、横を向くと、日本人離れのした顔になる。
「そうでしょうか」
 アナウンサーは愛想のよい笑顔を見せたが、何となく、
「嘘をおっしゃい」
 という感じの声音こわねだった。
「もてるよ、この男は」
 兄はいい、
「ママ、この人の詩、読んだことがある」
 と聞いた。
「いいえ」
 ママはちらりとテレビを見た。
 詩人は腕を組み、うつむいて、
「詩は遠すぎます」
 といったのかも知れない。
 パパは何か考えていた。その証拠に、からになったミルクカップを、しきりにぐるぐる廻していた。
「この人の詩はね、ちょっとおもしろいんだ。化学方程式なんて出てきてさ」
 ママはうなずき、しきりに指で、食卓のふちをこすっていた。人間というのは、それぞれ断崖に立たされているような存在だと、わたしは思った。
 この頃、わたしは学問に不信の念を抱きはじめている。それはパパを見ているからだろうか。パパは勉強家だ。ちょっとしたフランス文学者よりは、ずっとすぐれている。造詣ぞうけいが深い。だが、それが一体、この世の誰を幸せにしたのだろう。
 学問は絶対的に必要なことか、それとも、相対的に必要なことか。もし、学問が真理だとしたら、それは絶対的に必要でなければならないはずだ。
 しかし、わたしは自分の学んでいるものを、絶対的に真理だという確信がなくなった。真理の追求と幸福は、一致しなければならぬ。これはわたしの持論だが、この持論の幼さの故に、確信がなくなってきたのであろうか。ある詩人のいった、
「学問は幻想にすぎない」
 という言葉が、この頃妙に気にかかる。
 学問は真理だと学者はいう。
 神は真理だと宗教家はいう。しかし、これをイコールでつないで、学問は神だということができるだろうか。
 ニーチェは「主体性が真理」だといった、人間の数ほど真理があると。
 古本屋で岩淵辰雄の「軍閥の系譜」住本利男の「占領秘録」を買った。自分の生まれた日本という国が知りたいのだ。わたしが中世を学ぼうとするのもそのためなのだ。日本を知ることは、わたしにとって、自分を知ることにつながるはずなのだ。自分を知るということは、他の人を知ることにつながり、人の幸せにつながるという図式のはずだった。
 が、現実のわたしは、わが家の真の姿を知ることにすら怯懦きょうだである。ママの涙が、あんなに流されているというのに。
 黒いベンツの主に会おうか。ふっとわたしはそう思った。あの沢謙三が一つの鍵を持っているはずなのだ。でも本当は、その前にパパに尋ねたほうがいいのではないか。パパこそ鍵を持っているはずなのだから。

「第二章 霧雨の日」

   一

 小雨の降る庭を眺めながら、あの詩人の沢謙三に会いたいと思った。それは庭の苔に、あんまりこまかなこまかな雨が降り注いでいたからだ。びろうどのような緑の苔と、こぬか雨。これまた、何と力の均衡した世界だろう。少しも揺ぎのない世界。美しいと思う。
「わたしの詩を見てください」
 そういって、訪ねてみようかと思う。
 それとも、
「詩のことは、ちっともわかりません」
 といってみようか。
 でも、十代の女の子が、詩を一度もつくったことがないなんて、それは舌をかみたくなるような恥辱ではないだろうか。
 わたしは尾崎道子の詩を口ずさんでみた。彼女は、年は二十歳のようにも見え、四十歳のようにも見える年齢不詳の女性。児童劇団のリーダーで、民芸品店の女あるじで、いつもにこにこ笑っている。彼女に会うと、
(もしかしたら、この世は、本当に喜びに満たされているものではないか)
 と、あわてて自分も笑ってしまいそうになる。そんな彼女の「会話」という詩はこうだ。

  きちんとものを言えば
  崩れそうな象があって
  だから会話は
  はずみをつけて
  他愛なく続くのです
  散々喋って
  笑いあったあとの
  ふっと溜った目尻の涙
  あれはなんとにがいことか

 あの詩を読んでから、わたしは人が楽しそうにしゃべったり、笑ったりしているのを見ると、
(ふっと 溜った 目尻の涙 あれはなんとにがいことか)
 と、いつのまにか心の中でつぶやいている。
 ところで、わたしの詩、こんなのはどうだろう。

    絵の具箱
  白い色 これは雪をとかしてできたのです
  金色  これは子供の笑いからつくったのです
  灰色  これはあくびを集めてできたのです
  赤い色 これはあなたを思うわたしの心からしたたった色なのです

 さまにならない。げらげら笑ってしまう。
 詩は作れなくても、詩人を訪問する自由はあるだろう。わたしは電話帳をめくってみた。テレビで独身と聞いていたが、あった。わたしはその住所を書きとめた。
 とにかく、わたしとしては、ママを乗せて運転していたあの男性に会いたいのだ。その人が詩人であることは、今は問題ではない。ママがその人の車に乗っていたということが問題なのだ。
 あの日ママは、飲んでベロベロに酔い、けらけらと笑った。いつものように泣いたりはしなかった。それはなぜか。それが知りたいのだ。
 詩人は、パパの会社の社長の三男だと聞いた。パパは庶務部長で十七万の給料をもらっている。パパに十七万くれる社長の息子は、一体何をしているのだろう。
 わたしはそう思いながら、雨の中を、傘もささずに外に出た。霧のように細かい晩夏の雨の中を、傘などさすことができるだろうか。それじゃまるで、霧の日に傘をさすのと同じくらい滑稽こっけいじゃないか。
 わたしはそう思って、街へ出たのだけれど、日曜の午後の街は洋傘で溢れていた。霧雨の中をぬれて歩くなんて、しゃれたセンスだと思うのだけれど。
 大通りのバスターミナルでバスを乗りかえわたしは琴似ことに山の手行に乗った。バスに乗ってからも、わたしはあの詩人の職業を考えていた。「新進の詩人、沢謙三」と、時折、新聞の見出しなどで見たことはある。でも、余り関心がなかったから、この人の詩を読んでいないし、詩集が出たことも聞いてはいない。だから、多分詩で食べているという人ではないだろう。
(お医者さんかしら)
 わたしはふっと思う。医者だとしたら、外科などじゃない。多分あの人は、小指の爪などを長くしていて、メスなど持ったら手がふるえるにちがいない。少しひやりとした長い指で、患者の胸を打診して、目は一点を悲しげに見つめている、そんな内科医がふさわしい。
 そう、もしかしたら、小児科医かも知れない。赤ちゃんの泣声は天使の言葉だ。天使の言葉を聞きわけるのが、詩人というものだろう。
 それとも、あの人は、自分の父親の商社につとめているのだろうか。でも、パパはあまり知ったふうではなかったから、そうじゃない。もしかしたら、大学につとめているのかも知れない。としたら、無論、教授でも助教授でもない。講師でもない。研究室員というところかしら。でも、薄給でベンツを乗り廻すかしら。
 バスから見る手稲山ていねやまが煙っている。歩道を車椅子に乗った少年が、一人で車を運転していた。口もとをきりりとしめて、賢そうな少年だった。なぜか、少年の廻りだけ、雨が降っていないような、そんな明るい感じがあった。
 気がつくと、そこは病院の前で、窓から患者たちが三、四人、寝巻姿で少年の車の運転を見守っている。その一人が、口に両手を添えて何かいっている。
「がんばれよう」
 とでもいったのだろうか。
 わたしはその時から、心がしゃんとした。詩人に会うというので、意気地なく騒いでいた心が落ちついた。
 雑貨店の前でバスを降りた。店で家を尋ねようと思ったが、わたしはやめた。自分で尋ね当てたかった。どうせ、ベンツを持っているぐらいなのだから、デラックスなマンションか、バリッとした一戸建に決まっている。わたしは街角の番地を見ながら、ゆるい坂道を歩き出した。
 が、見たところ、バリッとした家はない。グリーンマンションと、名だけはマンションの木造モルタルのアパートや、二戸建の家や、色あせたトタン屋根の一戸建などばかり。もしかしたら、番地をまちがえたのかも知れないと思って、坂道を戻りはじめた時、左手の三戸建の端に、「沢謙三」の表札がかかっていた。
 わたしはおどろいて立ち止まり、少しあとずさるようにして、その表札を改めてみた。傍らに車庫はある。が、家の間数は、一見して下が六畳か八畳ひと間、上が四畳半に六畳と見える。どこにもあるようなアパートだ。
 まあ、家などはどうでもよい。わたしは、母を車に乗せた男の人に会いに来たのだ。
 表札の下の、白いボタンをおそるおそる押すと、わたしはそっと、ドアのノブに手をかけた。ドアは簡単に開いた。
 とたんに、わたしはあっと声を上げた。喫茶店で見かけた、あの人が立っていたのだ。あの女の人が、黒い仔猫を抱き、うすい唇に微笑をたたえて立っていたのだ。
 明るいブルーのVネックのセーターに、同色のスラックスをはいたその姿が、ぞっとするほどシックだった。ちょっと斜めに身をかまえ、あの腰までの長い黒い髪が、ブルーの色に実にぴったりだった。
 おどろきのあまり、何をいってよいのかわからぬわたしを、その人は長いまつ毛をねむるようにかげらせて、半眼でじっと見ていた。
「どなたですか」
 とも、
「何のご用でしょう」
 ともいわないのだ。わたしはもう舌をかんで死にたいような(汝、この口ぐせに気をつけよ)恥ずかしさとうれしさと、そして淋しさとで、ごちゃまぜの思いになりながらいった。
「あの……沢謙三さんのお宅はこちらでしょうか」
 その人は、かすかにまつ毛を上げて、ちらりと目でうなずいた。
「表札を見ればわかるじゃないの」
 そう笑われそうで、わたしはあわてて、
「あの……沢さんはいらっしゃいますか」
 と尋ねた。その人の目が、再びちらりと動いた。「いません」というまなざしだ。
 わたしは落胆した。今、沢謙三がいなければ帰らねばならない。けれどもわたしは、もう沢謙三がいてもいなくても、この人と話ができればと思った。
「あの……」
 また「あの……」だ。何というべきかわからずに、わたしはその人の、うすいが形のよい唇を見た。
(なぜ、この人は口を開かないのだろう)
 その人は黙って立っている。
 ふいに、わたしはその人がきらいになった。もうほとんど、九十九パーセントまできらいになりかけていた。わたしは、
「おじゃましました」
 といい、くるりと背を向けた。その時、
「ねえ、この猫、めすかおすか、わかって?」
「え!?」
 おどろいてわたしはふり返った。いつかこの人が、喫茶店でその友人たちに、
「人間は本当に、男と女の二種類しかないのだろうか」
 といっていた言葉を思い出して、わたしは答えた。
「猫には、おすとめすの二種類しかないのでしょうか」
 その人はふっと笑った。白い歯がきらりと光った。高村光太郎なら、(レモンをかりりとかませたくなるような)白い清潔な歯だ。
「お入りにならない?」
 その人はいった。
「え?」
 突如、目の前に天国の門が開かれたようなおどろきで、わたしは聞き返した。
(いったいこの人は、沢謙三の何なのだろう)
 たしかあの日、テレビの中でアナウンサーは、
「独身を楽しんでいらっしゃるようですが」
 と沢謙三に話していた。としたら、この人は奥さんではない。こんなことなら、兄に内緒にしたりせず、詳しく聞けばよかったと思いながら部屋に入った。
 そこは八畳のリビングキッチンでソファがテラスのそばにあり、部屋隅の机の上には電話機と、本が四、五冊無造作に重ねられていた。冷蔵庫とガスレンジが真っ白で、その人の歯のように清潔だった。あとは、テレビもステレオも何もない。何もないということも、すてきなインテリアだと思いながら、ぼんやり立っていると、その人はソファにすわって、
「おかけにならない」
 といった。わたしはママの涙も忘れて、その人の傍にすわった。ソファが一つっきりしかないので、隣りに並んですわるしかないのだ。
「お邪魔します。わたくし三木早苗と申します。三木は、一、二、三の三に、樹木の木です。どうぞよろしく」
 新入社員のようにコチコチになった。
 その人はうなずき、机の中から紙と鉛筆を出し、「桐井奈津子」とさらさらと書いて見せた。
 とたんに、わたしが「あの人」「その人」と呼んでいた人が、下界に降り立ったような、妙な感じがした。名前がないほうがふさわしいような人なのだ。
 桐井奈津子は、何しに訪ねてきたとも、どこに住んでいるかとも、学生かオフィスガールかとも何も聞かなかった。この人にとって、人間がどこに住んでいるかとか、学生か勤め人か、とかいうようなことは、大きな問題ではないらしかった。
「ねえ、早苗さん。あなたアンニュイという言葉は、どの年代に最もふさわしいと思って?」
(十代のアンニュイ、四十男のアンニュイ、八十歳のアンニュイ……)
 わたしは胸の中で、一つ一つ確かめるように考えながら、
「四十代かしら」
 と答えた。十代はエネルギーがあって、したいことがたくさんあって、アンニュイを感ずるひまがない。老人には残る時間が少なくて、一日一日が「今日限り」のような危機感があって、倦怠を感ずる暇がない。
 でも四十代は、一応することはし、先も見えて、生活に疲れを覚えているにちがいない。生活そのものにも新鮮さがなくなって、一番倦怠を感ずる頃ではないかしら。
「四十代? ということは、あなたはアンニュイをあまり感じていないということね」
「ええ、あまり」
「幸せね。わたしは、アンニュイという言葉は、どの年代にもピタリのように思われるのよ」
 と、膝の上の仔猫の頭をなでた。
 では、この人は、人生に倦怠を感じているというのだろうか。わたしは信じられないような気がした。この人は、絶海の孤島に一人住んでいても、決して退屈などしないような、そんなふしぎな豊かさに溢れているような気がする。わたしは、この人が、孤島の浜にねそべりながら、砂の上に詩を書いている姿を想像した。
「あの……わたし一度、あなたを見たことがあるんです。サイロという喫茶店で……」
「ああ、サイロ」
 おどろきもせずにいう。
「それからずっと……あなたのことを思い出していたんです。だから、もう、びっくりして……」
「そう」
 そっけなくいって、膝の仔猫をわたしとの間に置いた。仔猫は小さく「ニャー」といって、ソファをおりた。
「あの……沢謙三さんは、何のお仕事をしていらっしゃるのですか」
「…………」
 黙ってわたしの顔を見、彼女は白いレースのカーテン越しに庭を見た。二坪ほどの小さな庭に、赤と黄のダリヤが咲いていた。
「何のお仕事だと思って?」
「お医者か、大学の研究室にでもと思ったのですけれど……」
 奈津子さんは低く笑って、
「あの人はね、殺し屋よ」
 といった。
「殺し屋?」
 おどろくわたしに、
「ま、人間はみな、殺し屋みたいなものよねえ」
 とまた低く笑った。全く、この人の声といったら、何とまろやかで、そして女王のような気品があるのだろう。この人が「殺し屋」というと、その「殺し屋」がひどく優雅なナイトのような響きさえ持つのだ。この世の、さまざまな聞くに耐えない言葉だって、この人の唇から出るならば、ずいぶんとめかしこんだ言葉に変わってしまうのではないかと思われるほどだ。
「沢謙三は、高校の先生よ」
「え? 高校の?」
「そう」
「じゃ、国語を教えていらっしゃるのですか」
「そう。今年の四月から……。それまでは大学の研究室にいたのよ。でも、お父上とけんかして、すねかじりもできなくなったの」
 沢謙三が高校の先生と聞いて、何となくわたしはほっとした。
「だいたい、今までがいけなかったのよ。詩人が親のすねかじりをしてるなんて、そんなの堕落じゃないかしら」
 そうかも知れない。が、それはともかく、この人は沢謙三のいったい何なのだろう。と思った時、彼女はわたしにいった。
「あなたも詩をつくるの?」
「いいえ」
 わたしはあわてて首を横にふった。
「ファンなのね」
「いいえ」
 こんどは、かすかに首をふった。
「あの……」
 いいづらかったが、思いきって、
「あなたは、沢先生と同棲していらっしゃるのですか」
 奈津子は、目を大きく見開いてわたしを見、そして笑った。はじめは低かった笑い声が次第に高くなり、そしてふっと途切れた。
「ごめんなさい。失礼なことをいって」
「ううん、ちっとも失礼じゃないわ。彼がるすで、わたしが一人この家にいたら、ま、奥さんか同棲している女かと思うのが常識よね。わたしはあの人のニースなの」
「ま、じゃ叔父さま?」
「そう、気の合う叔父と姪なの」
 わたしは何となくほっとした。
「あと、二時間ぐらいたたないと、彼は帰らないわ」
 それまで待てということなのか。それとも、もう帰れということなのか。戸惑ったが、わたしは立ち上がった。あの人は引きとめなかった。ソファから立ち上がろうともしなかった。

   二

 結局、わたしは沢謙三に会うことができずに、外に出た。と、そこに黒いベンツが帰ってきた。
「あと二時間しなきゃ帰らない」
 と彼女はいったのに、沢謙三はちゃんと帰ってきた。
 わたしは、彼が車の外に出てくるのを待った。が、彼は車に乗ったまま、じっとわたしを見つめている。どこか非情で、どこか優しいまなざしだ。わたしがお辞儀をすると、窓をあけ、
「ぼくを訪ねてきたの」
 といった。
「はい」
「ぼくの学校の生徒だった?」
「いいえ」
「お名前は」
「三木早苗です」
「三木!?」
 表情が変わった。
「お乗りなさい。車の中でお話を聞きましょう」
 わたしが呆然としていると、彼は運転席のドアを開けてくれた。
「うしろに乗ります」
「どうして?」
「そこには、ママが乗っていましたから」
 彼は黙って、うしろのドアを開けた。
 その時、玄関のドアが開いた。彼は奈津子さんに、
「何だ、まだいたの?」
 といった。堅い声だった。
「いけない?」
「いけないことはないが……」
 彼女のいった、気の合う叔父と姪の会話には、思えない。
 彼は静かに車をスタートさせた。奈津子さんはドアに背をもたせたまま、見送っていた。
「何しにいらしたんです」
 二、三分黙って走らせてから彼はいった。
「ママのことが知りたいんです」
「…………」
「あなたは、ママがいつもお酒をのんで泣いているのをご存じですか」
「…………」
「パパが何もいえずに、おろおろとママを見守っていることをご存じですか」
「…………」
「でも、ママは、あなたとお会いした日だけは泣かなかったのです。そのことをご存じですか」
「…………」
「ね、教えてください。ママは何が辛くって泣いているのか、ご存じなら教えてください」
 何と端正な顔だろう。加藤剛に似ているとわたしは思いながら、バックミラーに映る彼の顔を見た。
「知ってどうするんです」
 きびしい声だった。
「どうするって……」
「知ったからって、人間にはどうして上げようもないことがあるのですよ」
 少しやさしく彼はいった。バックミラーの中で目が合った。ドキッとするような、かなしみに満ちた目だ。
「でも、同じ屋根の下にいて、何も知らずにいてもいいのでしょうか」
「人間は神さまじゃありませんからね。人の心の中を全部知ろうとするのは、傲慢ですよ」
 ぐっと語調がやさしくなった。
「そうでしょうか。傲慢でしょうか」
「と、ぼくは思いますけれどね」
「でも、わたしはママのことを知りたいんです」
「あの人だって、あなたに知ってほしければ、話しますよ」
「先生にはお話したのですか」
「…………」
 車はいつか国道を走っていた。小樽方面へ行く対向車がひしめいている。霧雨が上がってうす日がさし、少しむし暑い。
「ママはどこで先生と……お知り合いになったのかしら」
「…………」
 わたしの聞きたいことは、一切ノーコメントなのだ。
「早苗さん、それよりぼくは、君のことを知りたいな」
「…………」
「君はとってもかわいい人だ」
「子供扱いなさるのですか」
 ふっとわたしは悲しくなった。
「君は詩をつくる?」
「詩なんか、大きらいです」
「うそおっしゃい」
 言下にいわれた。
「ぼくは一目で、詩をきらいな人間か、どうかわかりますよ」
「詩人なんか大きらいです」
「かわいい人だ」
 彼はいい、
「君のママもかわいい」
 といった。
「ママをお好きなの?」
「…………」
「わたしは、あの姪御めいごさんが好きです」
「…………」
「姪御さんじゃないんですか」
「姪です」
 重苦しい声になった。が、ちょっとうしろをふり返り、すぐまた前を向いて、
「あの子に近づくと、やけどをしますよ、男でも女でも」
 といった。
「あら、あの方は、あなたを殺し屋だとおっしゃっていましたけど……」
「殺し屋?」
 笑うかと思ったら、彼は淋しそうな顔をした。というより、苦しそうな顔といったほうがいいかも知れない。
「あの方はすてきな方よ、妖精みたい」
「君は恋をしたことがあるの」
 彼は別のことをいった。
「ないみたい」
「ないみたい? おもしろい返事ですね」
「先生は?」
「ないみたい」
 笑ってごまかした。
「先生はありますわ。すごく苦しい恋愛をしてるみたい」
 信号が赤になった。
「ね、そうでしょう」
「…………」
(もしかしたら、お相手はうちのママ?)
 いいたい思いをこらえて、わたしはふいに泣きたくなった。
 沢謙三という詩人に会うために、昨夜一晩眠れぬ思いをし、緊張しきって出かけたというのに、何ひとつママのことはわからなかった。
「知ったからって、人間にはどうして上げようもないことがあるのですよ」
 といわれれば、わたしはもう何もいえないのだ。
「早苗さん」
 しばらく走って彼はいった。
「何でしょう」
「このベンツは、今日限り売ってしまうんですよ」
「まあ、お売りになるのですか」
「こんなのに乗っていると、ガソリン代がかかってしかたがないですからね。それはともかく、誰を最後に乗せることになるかと思っていたら、どうやら君らしい」
 わたしはふっと、この人は何人の女性をこの車に乗せたのだろうと思いながら、
「でも、あの奈津子さんを送って上げるのでしょう」
 といった。
「…………」
 彼はまた黙った。
「ああ、わかったわ」
「何が?」
「あまりあとまで、思い出の残らないわたしなどが最後だといいのよね、きっと」
 ちょっと間をおいてから、
「誰よりも、君が思い出の人になるかも知れませんよ」
 といった。
「お会いしたばかりで?」
「これからも、お目にかからないというわけではないでしょう」
 こんな言葉にわたしは弱いのだ。
「もうお目にかかりませんわ」
 わたしは反対のことをいった。
「なぜです」
「だって、わたしが伺いたいことは、みんなノーコメントなのですもの。わたしだって、もう大学生ですもの子供扱いはいやですわ」
「あわてて大人になる必要はありませんよ。全人類の何十パーセントかは、もう一度十代になってみたいと思っているでしょう。その年齢なのですよ、君は」
「あら、わたしは早く四十代になりたいのに」
「どうして?」
「四十代になったら、もう、死にたいなんて思わないでしょう」
「死にたいの? 君」
 おどろいて彼は、ちょっとうしろをふり向いた。と、その瞬間、わたしは激しいショックに気を失った。
 入院して二十日経った。
 彼が、ちょっと脇見をしたところが十字路だったのだ。右手からきた車もよそ見運転で衝突したのだという。幸い彼は軽傷だったが、わたしは肋骨を折った。
 ママもパパも、真剣に心配はしてくれたが、
「なぜ、沢さんの車に乗っていたの」
 とは一度も尋ねてはくれなかった。兄だけが、
「沢さんのファンだったとは知らなかったなあ」
 とか、
「ベンツだから助かったんだよ」
 とかいった。
 沢先生は、ちょっと腕を痛めただけだといい、ほとんど毎日見舞いに来てくれた。
 二十日間、二学期早々にかけて、わたしはベッドで何を考えていたのだろう。
「死にたい」
 などといったとたんに、車がぶつかった。もしあの時、わたしがあんなことをいわなければ……。いや、あの日、わたしが沢先生を訪ねなければ……。そんなことをくり返し思っていたような気がする。
 とにかく、人生にはピリオドは唯一つで、あとはコンマ、コンマの連続だという思いがしきりにした。最後の終止符を打つまでは、人生いろいろなところでコンマが打たれるのだ。

つづきは、こちらで

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