『広き迷路』( 三浦綾子小説作品 はじめの一歩 )

“はじめの一歩”とは?

三浦綾子の作品を〝書き出し〟でご紹介する読み物です。
気に入りましたら、ぜひ続きを手に入れてお読みください。出版社の紹介ページへのリンクを掲載していますので、そちらからご購入になれます。紙の本でも、電子書籍でも、お好きなスタイルでお楽しみくださいませ。物語との素敵な出会いがありますように。

三浦綾子記念文学館 館長 田中綾

小説『広き迷路』について

連載 … アイ1975年7月〜1977年1月
出版 … 主婦の友社1977年3月
現行 … 三浦綾子記念文学館復刊シリーズ・小学館電子全集
北海道から出てきて東京・銀座のデパートに勤める冬美は、職場に客として現れた加奈彦と恋に落ちる。幸せな日々を過ごしていた冬美だったが、加奈彦は他にも女がいた。しかも、加奈彦の勤める商社では社長派と専務派が対立して勢力争いを繰り広げており、加奈彦もその渦の中。保身と出世に走る加奈彦は、自分の欲に負けて追い込まれ、驚くべきことをしでかす。逃れられなくなる迷路に入り込んでしまった冬美と加奈彦。欲望が引き起こす悲劇のサスペンス小説。

「イニシアル」

 早川冬美はやかわふゆみはけだるく目が醒めた。
 冬美の足に、町沢加奈彦まちざわかなひこの足がなまあたたかくからんでいる。加奈彦は静かな寝息を立てていた。畳の上の眼鏡をとり、枕もとの置時計を冬美はものうげに見た。八時少し前だ。真紅の厚いカーテンにさえぎられて、部屋の中はうす暗い。
 日曜のせいか、街もまだ静かだ。それでも時折、車のクラクションや、近くの停留所を発着するバスの音が、一つの都会の音となって、窓越しに聞えてくる。それでいて、部屋の中は森閑としている。時計の音が大きいほどだ。
 寝入っている加奈彦の目をますまいとして、冬美はそのまま横になっていた。
(あ、今日は、五月二十七日だ!)
 母の初江の誕生日だと気がついた。去年の今ごろは、冬美はまだ旭川あさひかわにいた。高校の英語教師をしている父の尚夫と、歯科衛生士の母と、美容師の妹春美と、みんな「シのつく職業」の家族の中で、冬美だけはデパートの店員だった。その四人が、去年の今日は、旭川のニュー北海ホテルで中華料理を食べ、母の誕生日を祝った。
 父の、なめらかな、いかにも英語教師らしい声音や、母の笑った目じりの皺がありありと思い出される。きゅっと胸の痛くなるほど懐しかった。
 加奈彦が寝返りを打って、冬美のほうに顔を向けた。品のいい通った鼻筋に、油がうすく浮いている。血色のよい健康な唇から、白い揃った歯がのぞいている。整った顔立ちだ。閉じたまぶたの下で、目の玉が動く。何か夢を見ているのだろう。唇がかすかに笑う。と、ふいにその唇が動いて、
「カウコさん」
 と呼んだ。
 冬美ははっと息をのんだ。カズ子と言ったようにも、カウ子と言ったようにも聞えた。とにかく、それは冬美以外の女性の名前である。
 町沢加奈彦が、冬美のつとめる銀座の三Mデパートのワイシャツ売場に現れたのは、半年前のクリスマス近い頃だった。
 加奈彦は、その場からクリスマスパーティに行くからといい、試着室でワイシャツを着更えた。その時、加奈彦の背広のボタンが一つ、とれそうになっているのに冬美は気づいた。
「ちょっと、ボタンをつけ直してさし上げますわ」
 ぶらぶらとしたボタンは、そのままではすぐに落ちてしまいそうである。
「ありがとう。親切な人だね、君は」
 加奈彦は礼を言って、時間が迫っているのか、急いで去って行った。それは、冬美がデパートの店員として、客に当然のサービスをしたに過ぎないことであった。
 が、翌日加奈彦は、再び冬美の前に現われて、礼を言った。
 そんなことがきっかけで、時折加奈彦は冬美の職場に来るようになり、二人は急速に親しくなって行った。
「君を町沢冬美にしたい」
 ある日加奈彦は、冬美に激しく迫って言った。
「しかしね、ぼくの両親が昔かたぎでね、恋愛結婚は絶対認めないんだ。ぼくが親を説得するまで、二年でも三年でも、待っていてくれるだろうか」
 冬美は、東京に出て来てよかったと思った。冬美は、二度とこない青春時代を、東京という大都会で過したかった。家族を離れて、自由にのびのびとやりたいことをやって見たかった。そのやりたいことの第一に「すてきな男性」との恋愛があった。
 町沢加奈彦は、冬美にとって、充分に「すてきな男性」であった。年齢は六つ上の二十七歳で、K大学理学部を出、大手の建設会社に勤めている。
 その家族の写真を、町沢は見せてくれたことがあった。立派な和風の庭に、モーニングを着た父親と訪問着を着た母親を中心に、同じく盛装した兄夫婦が立っていた。嫂はベージュ色のイブニングドレスを着ていた。
「まあ、お父さまは高級官僚と伺っていたけれど、やっぱりご立派ねえ。お母さまも美しい方だわ。鼻筋があなたに似てるわ」
「なに、大したことありませんよ。これは父が叙勲を受けた時の写真でね、兄貴がちょうどフランスから休暇で帰っていてね」
 外交官だというその兄も立派だが、嫂は女王のような気品のある美しさであった。
「おねえさんはどんなうちの……」
「ああ、あによめですか。六井財閥の当主のめいでしてね。確か大学はアメリカだったと思うよ」
 事もなげに加奈彦は言った。
「あなたは写っていないのね」
「ああ、ぼくはちょうど、会社からイランに行っていた時でね」
 結婚を申しこまれたのは、その数日後であった。加奈彦の親が昔かたぎだからと言われる以前に、冬美は卑下ひげしていた。
 父親が高級官僚、兄が外交官、嫂が六井財閥の親戚だという家庭に、自分のような、一地方の高校教師の娘はそぐわないと冬美は思った。が、加奈彦は、そういう冬美を叱るように言った。
「人間は、みんな裸で生まれてきたんですよ。死ぬ時も裸だ。人間はみんな同じです。偉いも立派もない。ぼくにとって、大事なのは君の純な心ですよ」
 この言葉を冬美は信じた。やがて土曜日ごとに、加奈彦は冬美のアパートに泊るようになり、ほかの曜日でも、十二時頃まで冬美のそばで過すことがあった。
「お母さまに叱られない?」
 加奈彦がはじめて泊ると言った時、冬美はうれしさよりも、加奈彦の母の機嫌をそこなうことを恐れた。
「母に? どうして? ぼくの部屋と、母の部屋は別棟ですよ。息子が何時に帰ったか、わかるわけがないでしょう」
「でも、お食事はご一緒でしょう」
「いや、母は母で、能やらお茶やら、忙しくてね、それに父の客もあるし……」
 冬美は加奈彦の家庭を推測することはできなかった。それは別世界のことに思われた。
「ぼくは結婚しても、二間ぐらいの家がいいな。ぼくの家のような、だだっ広い家は冷たくていけない」
 加奈彦はその時そう言った。
(カズコかカウコか知らないけれど……)
 いったい誰の名を呼んだのかと、不安になりながら、再び時計を見た。八時を五分過ぎていた。店は十時出勤だ。
 冬美はいつもより少し乱暴に起きた。寝言で女の名を呼んだ加奈彦に目を醒ましてほしかった。果して、加奈彦が片目をあけた。
「もう八時?」
「そうよ」
 冬美の声が固い。加奈彦は両目をあけて起き上った。
「あら、起きるの」
 いつもは、冬美が勤めに出て行っても眠っているのだ。
「うん、今日は午后ごごから、上司の家にばれているからね、午前中に散髪しなきゃ……」
「…………」
 冬美はカーテンをあけ、小さな姫鏡台に向って、髪にブラシをかけはじめた。肩までは届かぬ長さだが、つややかな黒い髪だ。まだ洗っていない素顔が肌理きめこまかい。加奈彦がいつか言った。
「何というなめらかな肌だろう。肌に指がつるりとすべりそうだ。ぼくは今まで、ほんとうは眼鏡をかけた女性が嫌いだったんですよ。でも、君はちがう。その肌があまりに白くて、なめらかで、むしろ眼鏡が必需品に見えるよ。眼鏡がすばらしいアクセサリーになっているね」
 その自分の肌を眺めながら、髪にブラシをかける。加奈彦は立って行って、ドアの郵便受から新聞を持ってきた。
「ねえ」
 加奈彦が新聞を開く前に言っておきたかった。
「何だい」
 黄色いパジャマのまま、加奈彦はタバコに火をつける。
「何だい?」
 濃い眉がかすかに上る。
「加奈彦さん、さっき寝言を言っていたわ」
「寝言? ほんとうかい」
「ええ、ほんとよ。カズ子さんとか言ってたわ。カズ子さんって、だあれ」
「カズ子?」
 タバコの煙を加奈彦はみつめる。
「カウ子というふうにも聞えたわ」
「カウ子? 知らないなあ」
「だって、はっきりと言ったわ」
「変だな、カズ子もカウ子も知らないよ」
「ほんとう?」
「ほんとうさ。とにかく、寝言じゃ夢の中のことだからね。夢のことまで責任は持てないよ」
「別に責任があるっていうわけじゃないけど、でも、見たのはあなたよ。他の人じゃないでしょ」
「ちょっと変な理屈だな。じゃ、冬美、夢の中で人を殴ったり、けんかをしたら、あやまりに行く?」
「そりゃあ、行かないわよ」
 冬美は笑い出した。笑うと顔がパッと華やかになる。
「百万ドルの微笑っていうのがあるけど、君のは千万ドルだねえ」
 加奈彦は時々言う。
「カズ子」か「カウ子」かわからぬ寝言は、うやむやになった。
 トーストと紅茶で簡単な食事を終え、一足先に冬美が部屋を出た。出る時も入る時も、二人そろっての行動はしない。アパートの中でうわさのタネになるからだ。部屋を出る時、冬美はふり返って言った。
「次の土曜日は、すき焼きにするわ」
「そう、そいつは残念だなあ。ぼくは、金曜から水曜まで札幌さっぽろに出張の予定でねえ」
 紅茶を飲みながら、加奈彦は言う。
「あら、札幌に?」
「うん」
「じゃ、うちの父か母が、札幌にあなたを訪ねてもいい?」
「会いたいなあ。しかし、それは、うちの両親のゆるしを得てからのほうが、順当だろうね」
「それもそうね」
 冬美もまだ、加奈彦のことを父母に知らせてやってはいない。妹への手紙に、
「ある高級公務員の息子で、一流会社につとめている人とつきあっているの。お母さんにはまだ内緒よ」
 と書いただけだ。
 冬美は少しゴミのちらばっているアパートの階段を降りた。六月近い太陽が頭に暑かった。

つづきは、こちらで

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