『貝殻』( 三浦綾子小説作品 はじめの一歩 )

“はじめの一歩”とは?

三浦綾子の作品を〝書き出し〟でご紹介する読み物です。
気に入りましたら、ぜひ続きを手に入れてお読みください。出版社の紹介ページへのリンクを掲載していますので、そちらからご購入になれます。紙の本でも、電子書籍でも、お好きなスタイルでお楽しみくださいませ。物語との素敵な出会いがありますように。

三浦綾子記念文学館 館長 田中綾

小説『貝殻』について

小説宝石1977年8月 原題「永遠の幼な子」
出版 … 『毒麦の季』光文社1978年10月
現行 … 『毒麦の季』小学館文庫・小学館電子全集
道庁の高級官吏に嫁いだ敏子は、賄賂を受け取れず婚家で孤立。夫の愛人の子の養育を命じられ、死のうと出かけた北見枝幸で永遠の幼な子、無欲な安さんに出会う。戦争の時代を背景に真の平和と幸いへの道を示す物語。

『貝殻』

 通された部屋のすぐ前に、オホーツクの海が、深い紺青の色を見せていた。床の間もない八畳の粗末な部屋を、わたしは懐かしく見まわした。日に焼けた畳の色も、松の絵のくすんだふすまも、十年前と同じように思われた。わたしは、少しけば立った畳にすわり、窓をあけた。磯の香りが、いくらか冷たい風に乗って入って来た。窓下の庭を見ると、やはり十年前と同じように、小さな池があり、噴水が五月の日にきらめいていた。池のそばに、黄色い水仙の花が風にゆれているのも、あの時と同じだった。ふと、わたしは十年前のあの頃に引き戻されたような、錯覚さえおぼえた。ただ、白樺やアララギなどの庭木が、いずれもたくましく大きくなっていて、それが過ぎ去った歳月を物語っていた。
 百坪ほどの、あまり手入れもしていない庭は、直ちに浜べにつづいていた。ゴメが空に舞い、なぎさにカラスが一羽、ヒョコヒョコと歩いている。それもまた、以前に見た光景と同じだった。
 やがて、お内儀かみが宿帳を持って入って来た。先ほど、この部屋に案内してくれた若い娘に見覚えはなかったが、顔色のわるい、ややむくんだようなお内儀の顔には、確かな見覚えがあった。目の下の大きなほくろも、わたしは覚えていた。が、お内儀は、十年前、この宿に三日ほど滞在したわたしを、すっかり忘れているようであった。

つづきは、こちらで

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