『海嶺』( 三浦綾子小説作品 はじめの一歩 )

“はじめの一歩”とは?

三浦綾子の作品を〝書き出し〟でご紹介する読み物です。
気に入りましたら、ぜひ続きを手に入れてお読みください。出版社の紹介ページへのリンクを掲載していますので、そちらからご購入になれます。紙の本でも、電子書籍でも、お好きなスタイルでお楽しみくださいませ。物語との素敵な出会いがありますように。

三浦綾子記念文学館 館長 田中綾

小説『海嶺』について

連載 … 週刊朝日1978年10月〜1980年10月
出版 … 朝日新聞社1981年4月(上下2巻)
現行 … (上中下3巻)角川文庫・小学館電子全集

時は江戸後期。知多半島・小野浦の千石船が熱田港から出帆するが、嵐で遭難してしまう。苦しさの極限で見え隠れする欲望と絶望。そこに差し込む希望の光。驚きと挫折の異文化生活。故国への思い。彼らを待ち受ける、数奇な運命の結末は?

「開の口」

 文政ぶんせい十三年(一八三〇)陰暦六月──。
 天候不順の年にしては、珍しく暑い日だ。すぐ近くの裏山から、せみの声が間断なく聞こえてくる。煎りつけるような激しさだ。
「暑うのうてくれて、ありがたいのう」
 眠っていると思っていた父の武右衛門が、音吉のほうに顔を向けた。ひさしの深い家の中はややうす暗い。武右衛門はまだ四十二だというのに、二年前から神経痛でほとんど床についている。
「うん、夏はやはり暑いのがええなあ」
 十二歳の音吉は、部屋の真ん中にある箱火鉢の傍らに、膝小僧を抱いて、煎じ薬の煮えるのをじっとみつめていた。武右衛門に似て、眉の秀でた賢そうな顔だ。昨年、文政十二年は、江戸に大火があったと聞いたが全国的に大豊作の年であった。だが今年は、春先から天候が不順で、梅雨があけても、ともすると冷たい雨が降り勝ちだ。それが、武右衛門の神経痛にもひびく。
 部屋の中には、煎じ薬の匂いが一杯に漂っている。まだ遊びたい盛りの音吉が、一日に三度、父のためにこの煎じ薬を煎じて飲ませる。僅かばかりの炭火で、結構薬を煎じることができた。
 時折、潮風が磯の匂いを運んで来て、家の中を吹きぬける。小さな窓から、そして戸口から風は涼を運んで来た。
「父っさまぁ、今、薬を持ってくで……」
 音吉は縁の欠けた湯呑み茶碗に、土瓶の煎じ薬を注いだ。静かな部屋の中に、薬を注ぐ音が思いがけなく大きくひびいた。
 武右衛門の傍に薬を持って行くと、武右衛門はせんべい布団に横になったまま、
「おおきに」
 と、低い声で言った。そして、ほおっと太いため息をついた。飲んだところで、もう自分の病はなおるまいと、諦めた表情になっている。音吉は素早くその父の気持ちを察して言った。
「父っさまぁ。必ず元気になるでな」
「そうかのう」
 武右衛門は、煎じ薬の湯気をみつめていた目を音吉に移した。音吉をいつくしむまなざしだ。
 武右衛門は、千石船せんごくぶね水主かこであった。十八の年から二年前まで、数え切れぬほど船に乗った。大坂に江戸にと、幾度航海をしたことか。
 武右衛門の住む小野浦は、伊勢いせ湾に面した知多ちた半島にあった。知多半島は、人の足の膝から下を横から見たような形をしている。膝裏のあたりに名古屋があり、ふくらはぎの細くなるあたりに、陶器で名高い常滑とこなめがある。小野浦は、ちょうどそのかかとのあたりにあった。爪先に師崎もろざきがあり、その師崎港に千石船が常時何隻も集結していた。武右衛門たち小野浦の水主たちは、四里の山道を歩いてこの師崎に出、春の初航海にのぞんだ。そして半年船に乗り、伊吹いぶきおろしが冷たくなる頃に、師崎から陸路を通って小野浦に帰る。だが、一航海毎にも小野浦に帰る。その時は千石船を小野浦の沖に碇泊させ、そこから伝馬船てんませんに乗って妻子に会いに来たものだ。
 その一航海の度に帰って来る武右衛門を、吉次郎、音吉、さとの三人兄弟は、首を長くして待っていたものだ。江戸や伊豆いずや、大坂の土産が珍しかったからだ。
 その武右衛門が倒れて、今は十六歳の吉次郎が、武右衛門の乗っていた宝順丸に乗っている。働き者の母の美乃みのは、家の周囲にある僅かばかりの畠に、里芋、胡麻、麦、冬瓜とうがんなどを作っている。今日も美乃は畠の草取りに出ていた。
 海に向かった窓から、ひときわ強い風が入った。僅か三部屋の小さな家の中を、磯臭い風が吹き過ぎると、音吉は窓に寄って海を見た。かっと照りつける日ざしが目を射た。
 音吉の家は、丘のような低い山を背に、海から二、三丁離れた所に建っていた。窓から浜の松林が色濃く見え、その松の木立越しに、伊勢湾の海がぎらぎらと午後の日を返し、海の向こうに鈴鹿すずか山脈が見えた。
 浜べで遊ぶ子供たちの声が、風に乗って聞こえてくる。音吉も泳ぎたかった。が、音吉にはまだまだ仕事がある。井戸の水を汲み上げねばならぬ。父の寝巻きを洗わねばならぬ。昼飯の後始末もせねばならぬ。
「音吉」
 ようやく煎じ薬を飲んだ武右衛門が重い口をひらいた。口を利くのさえ大儀なのだ。
「父っさま、しょんべんか」
 音吉が察する。
「うん、すまねえの」
「ううん、何でもないで」
 音吉は窓から離れて、武右衛門の傍らに行った。武右衛門は音吉の小さな肩につかまって、よろよろと立ち上がった。その父の背に手をまわして、音吉はそろそろと歩く。この時が、音吉の一番うれしい時なのだ。とにかく父が起き上がることができる。そしてよろけながらも、土間の隅のかわやまで行くことができる。そう思うと肩にかかる父のその重みさえ、音吉にはうれしいのだ。
 小野浦の人々は、音吉の父を「正直者の武右衛門」と呼ぶ。戸数二百六、七十の小野浦には、武右衛門という者が他にもいた。その武右衛門は街の中で風呂屋をしていた。小野浦には二軒の風呂屋があって、武右衛門は大きなほうの風呂屋を持っていた。街の者は、この武右衛門を「風呂屋の武右衛門」と呼び、音吉の父をわざわざ「正直者の武右衛門」と呼んだ。
 船乗りに荷抜きはつきものだった。千石の米を積むと、そのどの俵からも、いくらかずつ米を抜いた。荷上げの際、抜き打ちに量目の検査がある。どの俵を役人が検査するか、あらかじめ知ることはできない。だから水主たちの主だった者は、ふんどしの中に、一俵から抜いた分を隠しておく。
「量目あらためーっ!」
 突如声がかかると、その俵は口をあけて一粒残らず吐き出さなければならない。その時何げない顔をして、立ち合いの水主は褌の米を巧みにその中に落とすのだ。たいていの場合、この操作を船頭がした。だが万一に備えて、何人かの水主たちは褌に米を隠し持っていた。だが武右衛門は、決してそれをしなかった。油を積んだ時は、油を抜いた。塩を積んだ時は塩を抜いた。が、武右衛門だけは、仲間に笑われようと、船頭にいやみを言われようと、それにくみしたことはない。一時が万事で、武右衛門は嘘ひとつ言えない正直者であった。
 しかし、兄の吉治郎は、父が「正直者の武右衛門」と言われることを嫌った。
「正直者と言われるのはな、馬鹿者と言われるのと、同じことだで、音吉」
 吉治郎はかげでよくぼやく。誰に似たのか吉治郎は、まだ十六歳なのに、船荷をくすねることがうまかった。他の水主たちは、船頭と共に一味になってくすねたが、吉治郎はそのくすねた品物を、更に自分一人でごまかすのである。だがそれに気づいている者はまだいなかった。
「さすがは正直者の武右衛門さんの息子、くるくるとよく働きなさる」
 人々はそう言ってほめていた。だが、音吉は更にほめられ者だった。

つづきは、こちらで

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