『あのポプラの上が空』( 三浦綾子小説作品 はじめの一歩 )

“はじめの一歩”とは?

三浦綾子の作品を〝書き出し〟でご紹介する読み物です。
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三浦綾子記念文学館 館長 田中綾

小説『あのポプラの上が空』について

連載 … イン・ポケット1988年1月〜1989年8月
出版 … 講談社1989年9月
現行 … 小学館電子全集
主人公の佐川惇一は、予備校に入るため札幌に出てきた。戦時中に父の世話になったという谷野井陶吉が、父の死後も佐川家を支援し、惇一の進学にあたって自宅を下宿先として彼を迎え入れてくれた。谷野井陶吉は薬剤師。その一家と共に暮すことになった惇一は、谷野井家の面々の不思議な生活に戸惑う。そこには、知られざる歴史と秘密があった……。
現代社会に鋭く問いかける、家族再生の物語。

「雪解水」

 青森行特急はつかりは、間もなく上野駅を出ようとしていた。
 佐川さがわ惇一じゅんいちは二、三日前に買ったばかりの真新らしいスーツケースを、荷物棚に押し上げて腰をおろした。列車の入ってくる地響き、言語不明瞭な駅員のアナウンス、人々のざわめきなどが一つの音となって聞えてくる。
 三月は転任のシーズンで、見送りの人々がプラットホームのあちらにひとかたまり、こちらにひとかたまりと、群れていた。その一つのかたまりから、今、「万歳」の声が上がった。そんな一団とは関わりなしに、惇一の窓のすぐ近くに、二人の若い女性が手をふっていた。どうやら、惇一の前の青年を見送りに来ているらしい。
 白いハーフ・コートを羽織った断髪の女性は、絶えず激しく手をふっている。が、もう一人の、二つ三つ歳上らしい和服の女性は、ふっていた手をすぐにおろし、情のこもったまなざしを、まっすぐに青年の顔に向けた。
 佐川惇一は、何となく自分が見つめられたような、胸のうずきを覚えた。十九歳の惇一は、そんな目で若い女性から見つめられたことは、まだなかった。惇一のこれから移り住もうとしている北海道には、知人が一人もいない。いや、これから北大医学部を目指して札幌さっぽろの予備校に学ぼうとする惇一の学資と、生活費のいっさいを見てくれる筈の薬剤師、谷野井たにのい陶吉とうきちとその一家はいる。が、それは親たちの知人であって、惇一にとっては気安く知人友人と呼べる存在ではなかった。
 惇一が物心ついた頃には、既に「札幌の谷野井の小父さん」と呼ぶ谷野井陶吉がいて、正月のお年玉だの、盆の供物に添えての金一封だのが送られて来ていた。母の加枝かえの話では、
「谷野井の小父さんと、死んだお父さんが、齢は十二も離れているのに、親友だったのよね。戦争中、北千島きたちしまで知り合ったの。お父さんは衛生兵だったのよ。谷野井の小父さんは陸軍中尉だったけど、寒い北千島で風邪を引き、重い急性肺炎に罹り、死ぬ一歩手前だったんだって。その時ね、衛生准尉が隣りの部屋で『谷野井中尉は、明日いっぱい持つか持たんかだな』と言っていたのを、お父さんも小父さんも聞いていたんですって。でもね、お父さんが夜も寝ないで、必死になって看病したんだって。奇跡的に助かった谷野井の小父さんが、それをとても恩に着て下さったのね」
 と、言うことだった。
 惇一が六歳の時、父の佐川庄造しょうぞうは肺結核で死んだ。惇一の下には四歳の弟律男りつおがいた。父の三年間の療養中、「谷野井の小父さん」は、経済的にも精神的にも、少なからぬ面倒を見てくれたようであった。庄造は、谷野井陶吉から手紙や荷物が届く度に、「当然なことをしてやっただけなのに」と、涙ぐんでいたという。
 庄造の死後も、谷野井陶吉の友情は変らなかった。惇一が小学五年生の夏休みに、母と弟共々招かれて札幌に十日間滞在したことがあった。
 谷野井薬局のすぐ隣りに、谷野井外科病院が植物園に面して建っていた。陶吉の長男浜雄はまおが経営する病院だった。三階建の白い壁に、朝も昼も真夏の陽が反射していたのを、惇一は妙にはっきりと覚えている。
 覚えていると言えば、ある土曜日の夕方、院長の浜雄がゴルフの道具を車のトランクに入れ、傍に立っている惇一には一瞥も与えず、ドアを音高く閉め、走り去ったことを覚えている。この院長の存在が、九年後の今も、惇一には気重だった。
 が、あの頃確か六歳だった院長の次女の景子けいこのつぶらな目が、九年の間惇一の心の中にあった。夏休みの十日間、惇一と律男は、景子と、その二つ年上の初美の四人で、かくれんぼをしたり、縄飛びをしたり、トランプをしたり、大浜の海岸に出かけたりして、毎日を他愛ない遊びに明け暮れた。
 景子は勝気な子供だった。トランプに負けると、目に涙を浮かべたり、口惜しさを体いっぱいに漲らせて、
 「ようし、こんどはまけない! ぜったいにまけない!」
 と宣言する。勝ち負けにはこだわらぬ姉の初美にはないその利かん気が、惇一には何とも愛らしく思われてならなかった。
 この景子が、ある雨上りの午後、庭に出ていたが、ベランダから「ママ! ママ!」と、けたたましく呼び立てた。母親の那千子なちこは、鏡台の前に坐って、アイシャドーを瞼に青くぬりながら、
「なあに? 景子ちゃん」
 と、やさしい語調で答えたが、ふり返ろうともしなかった。景子は焦れて、
「ママ! ね、ママったら! へんなものがいるの。あれ、なあに?」
「あれって?」
 那千子はぐいと顔を鏡に寄せて、気のなさそうにいう。
「ささのはっぱのうえに、へんなものがいるの。ねえ、ママきてみて!」
「景子のおどろくことにいちいちつきあっていたら、ママの体いくつあっても足りないわ。ママはね、これからお出かけなの。だからお化粧しなければいけないの。女にとってお化粧はね、とても大事なことなのよ。ああそうそう、惇一兄ちゃんに見てもらったら? 惇ちゃんおねがいね」
 那千子は鏡に写った惇一に、にっこり笑って見せた。
「ハーイ」
 惇一はサンダルを突っかけて庭に降りた。庭と言っても街なかのことで、三十坪程の、さして広くはない庭だった。惇一は、景子の小さな手が指さす笹の葉を見た。そこには、絵でしか見たことのないカタツムリがいた。惇一は思わず、
「あっ! カタツムリだ!」
 と、うわずった声を上げた。その声に、那千子がようやくテラスに出てきて言った。
「まあ! この庭にカタツムリがいるの? あらほんと! 珍らしいわねえ。景子、カタツムリはね、エスカルゴといってね、フランス料理のごちそうなのよ」
 そう言うと、何がおかしいのか、那千子は声を上げて笑った。その母親の顔を見つめた景子の、不思議そうなつぶらな瞳を、惇一は忘れていない。
(大きくなったろうな)
 この四月から中学三年になる筈だと、惇一は移り行く景色に目をやった。
 やわらかい三月の陽ざしの中に、谷野井外科病院の縦看板がきわだっていた。
(こんなに大きな看板だったかなあ)
 九年前は横看板だったような気もしながら、惇一はスーツケースを持ち替えて病院を見上げた。五階建の病院に並び立つ「谷野井薬局」は二階建が三階建に建て替えられていた。
 惇一は何となく入りそびれて、薬局の前をうろうろしていると、中から黄色のセーターを着た若い女性が飛び出して来た。十七、八とも二十とも見えた。
「惇一さんでしょう?」
 声が弾んでいる。塗った口紅が濃過ぎる。眉は前髪に隠れて、前髪のすぐ下に細い目が笑っていた。その目で、姉娘の初美と知れた。
「やあ! しばらく」
 惇一は照れてうしろ首に手をやりながら、
「初美ちゃんも大きくなったねえ」
 と、眩しげに見た。初美は、
「そりゃあそうよ。子供が九年経っても大きくならなかったら、一大事じゃないの。そういう惇一さんだって……一七〇センチはあるわね」
 と惇一を見上げた。その初美も一六〇センチはある。セーターの胸が、少しふくらみ過ぎているように惇一には思われた。店の前の車道には雪はなかったが、歩道の両側には雪がいくらか残っていて、雪解水が陽に光りながら浅い流れをつくっている。その流れをひとまたぎして、二十坪程の小ぎれいな店に入ると、漂っている薬の匂いが、九年前をありありと思い起こさせた。
「おお! 惇一君か。よく来た、よく来た」
 片隅の調剤室から、白衣姿の谷野井陶吉が現れた。惇一はちょっと固くなった。
「あの……しばらくでした。ずっと……いろいろと、おせわになって……母からもくれぐれもよろしくと……」
 と、ていねいに頭を下げた。人の前にこんなにていねいに頭を下げたことは、しばらくなかったような気がした。陶吉は大きく手を横にふって、
「いやいや、それより惇一君、この正月に送って来た写真より、ずっと男前じゃないか。眉毛の濃いところなんか死んだお父っつぁんにそっくりだ」
 と、惇一の肩を叩いた。顔の色つやが七十近いとは見えなかった。調剤室の前の椅子に腰をおろしながら、
「ま、そこにかけなさい。初美、コーヒーでもいれてきなさい」
 と、声も元気がよい。惇一も膝をすぼめてソファに腰をおろした。陶吉は機嫌よく、
「惇一君、先ず言っておくけどな、谷野井家の者たちは、みな出来損ないばかりだ。息子の院長は天下の藪医者で、右足と左足を間違えて切断しかねない男だ。その嫁は、これまた見事な悪妻で、二人の孫娘は手のつけられないじゃじゃ馬。しかもわしは、この上ない因業爺ときている。おまけにわしの家内ときたら、あの世に片足を突っこんだようなもうろく婆だ。ま、昼飯の時にでも紹介するが、いちいち驚かんことだな」
 と、愉快そうに笑った。思わず惇一も笑った。多分みんな気のいい明るい家族なのだろうと思った。陶吉はひょいと真顔になって惇一を見据えた。鋭い眼光だ。
「ところで君は、どんな人物かね?」
「どんなって……」
 不意に聞かれて口ごもると、
「年は幾つかね」
「十九です。あと二月程で二十です」
「ああそうだったな。初美、鬼も十八、番茶も出花というのは、女にしか使わんのかな」
 陶吉はおしぼりを持ってきた初美に目を向けた。
「なあにそれ、鬼も十八番茶も何とかって?」
 怪訝そうな初美にはかまわず、陶吉は惇一に言った。
「酒は飲むのかね」
「ぼく……未成年ですから。でも、コップに一杯位、友だちの家でビールを飲んだことがあります」
「未成年か。未成年とはまたお固いことだ。わしはね、惇一君、七つ八つの頃から酒の味を覚えた。まあ、君も二、三年したら、ビールの一ダース位飲むように仕込んでやろう。じゃ、タバコは?」
 と、白衣のポケットからタバコを出した。
「一度だけ練習してみましたが、むせて駄目でした」
「そうか、練習してみたか。練習なあ」
 コーヒーをテーブルに置いた初美が奥に消えるのを見送ると、陶吉は声をひそめて、
「じゃ女は好きな方かね」
 惇一は顔を赤らめながら、
「ぼく、まだ、よくわかりません。……多分ふつうだと思います」
 と、生真面目に答えた。
「ふつうか。ふつうということは、つまり女は嫌いではないということだな。わしはもうすぐ六十九だが、そっちも立派な現役だよ」
 陶吉は声を上げて笑った。総入歯と見えて、歯並がそろっていた。惇一は緊張が解けたような気がした。これからの数年間、学資も生活費も援助してくれる陶吉が、変に堅物でないところが、惇一にはありがたかった。
「何かおもしろいことがあったの?」
 不意に店先で声がした。ふり返った惇一の目に、陶吉と同じ白衣姿の女性が、自動ドアの内側に立っているのが見えた。その丸顔が、三十前後に見えた。
「ああ、今、君の悪口を言っていたところだ。惇一君が来たところだよ。惇一君、わしの店を手伝ってくれている薬剤師の比田原ひだはらテル子さんだ」

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