『母』( 三浦綾子小説作品 はじめの一歩 )

“はじめの一歩”とは?

三浦綾子の作品を〝書き出し〟でご紹介する読み物です。
気に入りましたら、ぜひ続きを手に入れてお読みください。出版社の紹介ページへのリンクを掲載していますので、そちらからご購入になれます。紙の本でも、電子書籍でも、お好きなスタイルでお楽しみくださいませ。物語との素敵な出会いがありますように。

三浦綾子記念文学館 館長 田中綾

小説『母』について

書き下ろし
出版 … 角川書店1992年3月
現行 … 角川文庫・小学館電子全集
小林多喜二の母・セキの語り口調による小説。秋田に生まれ、幼くして結婚し、小樽に暮らしたセキの生涯を描く。どんなに泣き叫んでも戻ってこない多喜二の命を、生涯ずっと抱きしめていたセキの眼に映る小樽の海は、何色だっただろうか。

「第一章 ふるさと」

 四月にしては珍しい、あったかい日ですね、今日は。北海道の四月ったら、もっと寒いもんですけどね。増毛ましけのほうの山も、はっきり見えて、海もきれいで、いい日だね。
 それはそうと、本当にありがたいもんだねえ。わだしはね、再来年は数えで九十になるんですよ。こったら年寄りが、こうしてみんなに、大事に大事にしてもらってねえ。もったいない話です。これもみんな、多喜二たきじがあったら死に方ばしたからかも知れないねえ。
 そうか、この年になるまでの思い出ば聞いて下さるか。何せ、ずいぶんと長い間のことだから、忘れたことやら、うろ覚えのことやら、いろいろあるけど、それでいいのかね、あんたさん。
 んだ、わだしはね、秋田の大館おおだての在に生まれてね、そう釈迦内村しゃかないむらっていう田舎でね。山がすぐ目の前まで迫ってくる、小さな小さな部落だった。夜、ふくろうがよく鳴いてね、その声が妙に淋しくてねえ。
 人間って、あんなふうに鳥の声だの、木枯しの音だの聞いて、淋しいっていうことを、覚えるもんなんかね。わだし、ぼろ布団の中で、背中丸めて、ふくろうの声に聞き入っていたもんだ。
 んだなあ、四つ五つの頃だった。今でもあの布団の中のあの姿は、どういうわけだか、はっきりと目に浮かんでくるんですよ。
 そうそう、目に浮かぶって言えば、わだしの生まれた家の真向かいにね、巡査の駐在所があったっけ。それがあんたさん、今から何年か前、釈迦内村に行ってみた時、まだおんなじ場所に、駐在所があってね、懐かしいのなんのって、ぶったまげてしまったの。
 昔、駐在所には、今考えれば五十に近い巡査がいてね、立派なひげを立てていたっけ。でも、いつもにこらにこらしていて、みんなに、「駐在さん、駐在さん」って親しまれていたもんだ。その駐在さんが、どういうわけだか、わだしのこと、時々めんこがってくれて、「おセキ、おセキ」ってね、ほんとにどうしたわけだったもんかね。
 わだしが玄関の戸ばがたびし開けて外に出ると、駐在さんがうしろに手を組んで、駐在所の戸口に立っているの。そしてわだしを見ると、
「来い来い、おセキ」
 って、手招ぎしてね、わだしが喜んで走って行くとね、頭なでてくれたり、飴玉一つ口ん中入れてくれたりしたもんでした。それが何ともうれしくってねえ。今でも忘れられないんですよ、あの飴玉の味がね。
 何せ、わだしらの家ときたら、貧乏でなあ。少しばかりの田んぼの小作こさくばして、細々と生きていたからねえ、飴玉だの、煎餅せんべいだの、親からもらうなんてこと、滅多めったになかった。とにかく小作だけでは食って行かれんから、おっかさんが自分で打った手打ちそばを、街道を行く人に売っていたの。夕方になると玄関の戸ば開けて、お客さんがぽつらぽつらやって来てね、あれでも、一日十五、六杯は売れたべか。何せ明治めいじの十年代のこと、そば一杯一せんという頃だったから、どれだけ生活の足しになったもんだかねえ。
 ああ、当時、米一しょうせんぐらいだったべか。それはともかく、力一杯そば粉って、ちょんちょんちょんと細く切って、大鍋ででて、タレを作って、それで一杯が一銭。それでも売れればありがたかったのね。
 はあ、わだしは三つ四つの頃から、体を動かすことが好きでねえ、家の前を大きな箒草ほうきぐさたばねたもので、せっせといたり、お客さんに、
「いらっしゃい」
 と、大きな声をかけたり、近所の庄屋しょうやさんちの赤ん坊を背中におぶって、子守りをしたりしたもんです。
 何せねえ、三つ四つのちんこい子供が、赤ん坊をおんぶするわけだから、下手をすると帯がゆるんで、赤ん坊を引きずりそうになる。そんなわだしに子供をおんぶしなおしてくれたのも、あのひげの駐在さんだった。
 だから、わだしはね、おまわりさんというもんは、そりゃあ優しいもんだと、こんまい時から信じこんでいた。ほんとに、日本中どこもここも、優しい親切な駐在さんで一杯なんだと、かなりの年まで思っていました。
 それはともかく、わだしは貧乏で、学校に行きたくても行かれんかった。わだしの村は、「釈迦内しゃかない」なんて、ありがたいお釈迦さんの名前のついている村だどもね、右ば見ても左ば見ても、みんな似たような貧しい家ばかりだった。屋根にまさいて、その柾を飛ばんように、でっかい石でおさえた家が、街道筋に、ひと握りほど建っていたような村だった。
 学校さ行かれない子守りたちは、三人五人とつれ立って、学校の窓の下さ行って、こっそりと先生のお話ば聞いたり、唱歌に耳ば傾けたりしてね。意地悪く赤ん坊が泣き出すと先生によっては、窓から顔ば出して、手を大きく振って、追い立てたもんでした。まるで、野良犬ば追うみたいに、
「あっちさ行けっ、あっちさ行けっ」
 てね。それでも、赤ん坊が眠るとね、また足しのばせて、こっそり窓の下に立ってね、こんまい体をゆすりゆすり、赤ん坊のお守りをしながら、浦島太郎の話だの、桃太郎の話だの聞いたりしたもんだった。
 八つ九つになるとねえ、おっかさんが、野良で忙しくしていても、わだし一人で、七輪しちりんさ火ばこして、ねぎ刻んで、あったかいかけそばを、お客さんに出したもんです。わだしはね、さっきも言ったとおり、生まれつき働くのが好きで、おまけに人が好きでね、そば屋の仕事は何にも苦にならんかった。ま、三、四人も入れば、すぐに一杯になる店とも言えない店だった。こんまいわだしが、かけそばのどんぶりばお盆に乗せて、そろりそろりと運んで行くと、
「ほれ、駄賃だちんだ」
 と、五りんくれる客もいた。それがうれしくってねえ。野良から帰るおっかさんに、その駄賃を上げるのが楽しくてねえ。
 楽しいと言えば、お客たちがいろんな歌や、話を聞かせてくれるのも、楽しかったねえ。そん時聞いた歌にこんな歌があった。この歌は、どの客もよくうたったので、いつの間にか、わだしも覚えてしまった。ちょっとうたってみようかねえ。

  人がなんぼ貸せといっても貸さないで
  蔵の中の米ば腐らせて
  空見て泣きべちょかきながら
  川さ捨てる
  ええ気味だ 角地の旦那だんな

 妙な歌だと思うべね。秋田弁丸出しの、おかしな歌だと思うべね。けど、どういうわけか、わだし、今になってもこの歌が、ひとりでに口から出ていることがあるの。ふと気がつくとうたっているんですよ。秋田の先祖代々からの歌かねえ。
 え? いい歌だ? どうしてだべ。こんな、人ばうらむような歌、いいことないべと思うけど、釈迦内の子供たちは、みんなこの歌ば子守り歌にして、おがったのかも知れないね。これが貧しい百姓たちの、正直な気持ちだったんだべなあ。

 わだしが木村の家から、小林の家に嫁に来たのは、明治十九年の暮れのことでした。その冬一番の寒い日で、馬橇ばそりがりんりん鈴を鳴らして走る。雪が顔に刺さる。赤い角巻かくまきば手にしっかり持ってても、手も冷ゃっこい、足も冷ゃっこい。
 小林の家まで、二もあったかねえ。まだ十四の、今で言えば十三の、西も東もわからんような子供が、嫁に来たわけでねえ。第一、嫁こになるということが、どんなことか、さっぱりわからんかった。
 それでも、どこの嫁さんも、きりきり舞いして働いていることだけは、知っていた。とにかくその日は寒くて、うれしいより悲しいより先に、足の冷たさが我慢できんかった。十三の嫁こを乗せた馬橇がね、右に左に揺れてね、誰か男の手に、背中ばしっかり支えられていたもんでした。
 なんで昔は、あんな頑是がんぜない子供ば、嫁に出したもんだかねえ。やっぱり貧乏で、くちらしのためだったべか。わだしより貧しい小娘が、街さ身売りさせられていた頃だからねえ。
 婿むこさんはね、二十一で末松すえまつぁんと言った。背の高い、優しい人だった。わだしは馬橇から降りるや否や、
「寒い寒い」
 と小林の家に駆けこんで、囲炉裏いろりのそばに、冷たくてしびれそうな両足を、火にあぶったら、婿さんがそれはそれは優しい顔をして、じーっと見ていなさった。
 嫁入りといってもね、高島田たかしまだうわけじゃなし、角隠つのかくしするわけじゃなし、桃割れに、花模様の銘仙めいせんの着物着せられてね。そうだ! 赤い牡丹ぼたんの柄の帯をしめさせられていたっけ。紫の銘仙の羽織着て、荷物は行李こうり一つに布団だけ……。その行李もなあ、ぎっしり着物が詰まっていたわけじゃなかった。がふらがふらしていたから、普段着の二枚もあったかどうか。それにモンペ、野良着、手甲てっこうなどが入っていたのね。
 それでも、足があったまったところで、三三九度さんさんくどさかずきをした。何しろ生まれて初めてお酒ば口に入れたわけだからね、むせてしまって、誰かが背中でてくれた。
 んだなあ、どんなごちそう出たっけかね。親戚や近所の人が十五、六人も来ていたべか。嫁入りの夜のことは、さっぱり覚えていないの。ただ、家に入るなり、いきなり囲炉裏で足をあぶったことだけは、はっきり覚えていてね、あとで思い出すたびに恥ずかしかったもんです。
 でもねえ、小林の人は、誰一人そんな話はしたことがないの。わだしが嫁に来た小林の家には、婿さんの末松つぁん、末松つぁんのお父っつぁんの多吉郎、その後妻のおツネさんがいたけどね。これがまたみんな優しかった。おツネさんは末松つぁんからみると、ママおっかさんだどもね、ほんとに優しいひとでね、わだしが朝起きると、
「よく眠れたかや」
 と聞いてくれたし、寒い日は、
「風邪ひくなや」
 って、気い使ってくれてね、顔もきれい、心もきれいな、わだしにはいいおしゅうとめさんだった。
 こういう人だちだったから、嫁入りの夜、いきなりわだしが囲炉裏に足ばあぶった話など、だあれもしなかった。
 ああ、見合みあいだったかって? さあね、何しろ田舎のことだし、明治も十年代の頃のことだしね、見合も何もあったもんじゃないわね。誰かが、
「どこそこに、ちょうどいい娘っこがいるから、もらったらどうだ」
 とか、
「どこそこの息子は親孝行だから、嫁に行ったらどうだ」
 のって、誰かが話を持ってくるわけ。誰も格別考えることもなく、嫁取りしていたようなもんね。
 わだしの場合、ちっちゃなそば屋だったけんど、わだしが店に出ていて、働き者の評判だけは、二里ほど離れていた小林の家にも、聞こえていたらしい。
 とにかく、百姓が嫁っこもらうのは、器量より、働き者が第一の条件でね。体が丈夫で働き者ならよかった。
 しかしね、あんあたさん、十三でも十四でも、十七でも十八でも、とにかく嫁に行けた者は、なんぼ辛くても、まだ幸せだった。明治、大正たいしょう、いや昭和しょうわの十年頃まで、東北の貧しい農家に生まれた娘たちは、一人前になるかならんうちに、女郎じょろうたたき売られたもんだ。わだしの友だちも、一人や二人ではなかった。つまり、珍しいことじゃなかったのね。辛いも、いやだも、百姓の娘たちは言われんかったの。だって、家の中には、弟だの、妹だのがごしゃごしゃいてね、その誰もが腹ばかしているの。
 北海道の農家はどうだったか知らんけど、秋田では、四分六分の割合で、地主じぬしに米を納めんければならんかった。ろくに食べる米もなくて、辛い思いをしている兄弟たちや両親の姿ば見てたら、身売りするより仕方がないと、納得してしまうのね。
 いや、第一、身売りって、どんなことか、誰もよく知らない。
「いい着物べべ着てな、白い米の飯も腹一杯食わしてもらえる、親には金がどっさり入る」
 と、周旋人あっせんにんに聞かされると、自分から進んで、身売りした娘も何人もいたっていう話だ。
 だども、うちの隣のヒサちゃん、駐在の裏のトミちゃんも、売られてから五、六年って、体悪くして死んだと聞いた。だから、わだしには、今でもね、身売りしたひとの話聞くと、可哀相かわいそうで可哀相でならなくなるよ。
 あれまあ、何だって身売りの話になってしまったんだべか。んだんだ、わだしが小林のうちに嫁に来た話をしてたんだっけね。
 何せ、わだし十三だったからね。ママおっかさんの、つまりお姑さんば、
「おっかさん、おっかさん」
 って、無邪気になついたもんだった。
 わだしはねえ、裁縫所さいほうじょに通ったことなんか、なかったの。何しろね、習いに持って行く反物たんものがないの。だから、何も着物うことの知らない嫁さんだった。布団に綿入れることも知らん嫁さんだった。それを教えてくれたのが、このお姑さんだった。
 このお姑さんは、わだしが数えで三十二歳の時、七十八で亡くなられた。その思い出す顔は、どれもこれも、目もと口もとが笑っていて、本当に優しいお姑さんだった。
 そうそう、
小林多喜二こばやしたきじの家は、貧乏百姓だった」
 と、あちこちに書かれているそうだどもね、貧乏になったのは、わだしが嫁に行く二、三年前のことだったらしいのね。小林の家は、下川沿村しもかわぞいむらの川口ってところでね、秋田から青森に行く羽州街道うしゅうかいどう沿いにあったの。んだなあ、農家の五、六十軒もあったべか。まあまあの部落だった。
 村の真ん中ば、きれいな米代川よねしろがわが流れていてなあ、街道を行く人やら、馬やら、牛やら、結構にぎやかだったもんだ。
 わだしの婿さんのお父っつぁんは、多吉郎という名前でね……ああ、そうだ、今言ったばかりだったかね……この人が、平田何とかいう偉い学者の、ま、弟子っていうわけでもないべけど、とにかくそのお陰を受けて、かなり学のあるお父っつぁんだったのね。若い頃は、あちこちの有名な学者ば訪ねて勉強していたとかで、大変な物知りだったそうだ。
 このお父っつぁんが、街道を行く人やら馬やら見て、駅亭えきていを始めることに決めたんだって。ああ、駅亭って知ってなさるかね? 昔はあちこちの村に、駅亭っつうもんがあってね、郵便物や荷物を隣村の駅亭から運んで来る。その郵便物や荷物を、また次の駅亭に届けてやるの。そしてね、この駅亭に、旅の人や馬だの泊めてやって……まあそうだね、言ってみれば、旅館の親方みたいなものかねえ。ま、羽振りもよかったらしい。
 何せ学はある、金はある、財産はある、村の人たちはみんな、この多吉郎さんに会うと、深々とお辞儀じぎをしていたもんだとか。いや、貧乏になってもお辞儀されていたのね。
 とにかく、このお父っつぁんが貧乏になったのは、長男の慶義けいぎさんが、なんていうのか、山師根性やましこんじょうっていうのか、事業好きっていうのか、相場になんか手を出したらしいんだね。
 はい、そうです。この慶義さんが、わだしのつれあい、末松つぁんのあにさんでした。
 明治十六年頃から、だんだん借金がかさんで、裁判沙汰さいばんざたになってね、秋田市の裁判所やら、仙台せんだいまでも出かけて行って、金と時間ばかけて争ったけど、負けたんだって。
 そんなこんなで、田畑のほとんどを手離してしまった。立派な母家おもやも、うまやも、宿屋も、みんな始末せんければなんないようになってしまった。相場ってもんは、恐ろしいもんだねえ。
 さすが慶義さんも、にっちもさっちもいかんくなった。そのどうしようもなくなった家の始末ば、何と弟の末松つぁんに押しつけて、東京に行ってしまったの。言ってみれば、夜逃げっていうことかねえ。この慶義さんには、あとでわだしらもずいぶんとお世話になったわけだけどね、相場などに手さえ出さねば、末松つぁんは苦労しないですんだのね。そう何べんもわだしは思ったの。
 慶義さんは、ツルさんというつれあいと、子供たちばつれて、それでも、なんぼか金ば握って東京さ出た。そして、東京では、木版刷もくはんずりとかいう仕事を始めたの。子供向けの絵本だの、大人向きの浮世絵だの売ってたと聞いたけど、やっぱりまだ裁判をやって、金ば取っ返そうと思ったのか、東京の裁判で頑張ったけど、金ばかりかかって、とうとうすってんてんになってしまったんだって。
 何でもね、小林の家っていうのは、先祖代々「多治右衛門」といわれていたでっかい地主でね、お父っつぁんの、多吉郎の時代に分家ぶんけしたんだとか。だから、多吉郎父っつぁまにしても、わだしのつれあいの末松つぁんにしても、それまでは貧乏生活は知らなかったのね。
 可哀相に、末松つぁんは、まだ二十はたちやそこらで、だんだん家の傾くのを、手も足も出ずにじっと見ていてね、しかも後始末は慶義兄さんからまかされたわけだから、すっかり心臓ば悪くしたの。気の優しい人だから、なんぼ心ば痛めたもんだか。わだしが嫁に行った頃でも、ちょっとの畠仕事にも、すぐに息切れしたり、心臓がどかどかしたり、よく畠の中にしゃがんでいたり、寝ころんでいたりしていたもんです。なんぼ辛かったもんだかと、末松つぁんが死んで何十年も経った今でも、哀れでねえ。
 わだしは思うんだけど、慶義さんが相場でかまど引っくり返したにしても、裁判さえやらなければ、あんなに何もかも、すってんてんにならないですんだかも知れないってね。
 まあ、多吉郎父っつぁまにしたって、気の毒だった。何しろ無一文むいちもんになってから死んだわけだからね、もし慶義さんが、駅亭の仕事ばまじめに継いでくれていたら、多吉郎父っつぁまだって、長生きしたかも知れんのにね。
 ああ、家が傾いてからはね、多吉郎父っつぁまは、嫁取りやとむらいのお花をけたりして、小遣こづかせんかせいでおられた。はい、父っつぁまは学もあったし、お茶やお花のたしなみも深かった人です。それがねえ、人に頼まれて花ば活けたり、手紙の代筆して小遣銭稼いでいたわけだから、なんぼ淋しかったもんだか。
 でもねえ、時代というのかねえ。あの時代は、村全体がだんだん貧しくなる一方の、やりきれん時代でもあったのね。それまではね、貧しい農家は、みんないろいろ手内職をしていたもんだったの。それがね、東京辺りから、どんどん安い品物が村々に入って来たから、団扇うちわ作る内職なんかも、立ち行かんくなってしまった。
 ちょうどその頃ね、北海道で鰊景気にしんけいきいていた。嘘かほんとか、北海道の浜には鰊が押し寄せてきて、こんまい子供でも、手づかみで鰊ば取ったっちゅう話だった。
 秋田から北海道っていう所に行くには、なんせしょっぱい海を渡って行かねばならない。ずいぶんと遠い所の気持ちがしたども、それでも鰊場にしんばさ稼ぎに行けば、何十円かふところに入れて帰って来られる。そう言って男たちは、北海道さわれもわれもと稼ぎに行くようになった。
 荒海渡って北海道に行く気になれん者は、近くの山の造材に雇われて、ひと冬家さ帰って来んかった。それでも、無事にひと冬終わればよかったども、時々怪我けがする者が出てね。その頃、
「怪我と弁当は手前持ち」
 って言ってね、親方は見舞金一銭くれるわけでなし、怪我した者は充分に医者にかかるわけにもいかず、一生足ば引きずって歩くようになったり、つえをついても歩けんようになったり、そりゃあみじめなもんだった。
 今考えると、どうしてあんなにひどい扱いを受けたもんだか。怪我した者も、怪我した自分が悪いみたいに、ちんこくなって、医者代くれだの何だのと、言い出す者もなかった。中には恥を忍んで、医者代ば親方の所に借りに行った者も、たまにはあったらしいけど、
「怪我と弁当は手前持ちだ!」
 と怒鳴られて帰って来るのがおちでね。今みたいに健康保険があるわけでなし、まあひどい世の中だったもんだった。

 あれはまだ、長男の多喜郎の生まれない明治二十六年頃だったと思うがね、青森から大館までの、奥羽本線おううほんせんの工事が始まったの。そして、大館から秋田までの鉄道工事が、川口で始まったらね。何せあの頃で出面賃でめんちんが一日八十銭というの。貧乏人にとっては、大変なぜにこでね。男も女もみんな張り切って日雇いに出たもんだ。
 ああ、仕事かね。それがさ、危ない仕事で、トロッコ押しが主な仕事だったの。のたのたトロッコば走らせるわけにいかんべさ。トロッコに土ば一杯積んで、線路の上を走って行く。そのトロッコが山を削った曲がり角を、勢いつけて走って行く。その時、急ブレーキをかけてね、うまくカーブば曲がって行かねばならん。これがむずかしかった。下手をすると、トロッコが脱線して、真っさかさまにふり落とされた人もいた。
 しかし、わだしも末松つぁんも、よくやったもんだと思う。でもね、二人でおんなじトロッコに乗ってね、わだしだって、急カーブ切るのうまくてね……若かったんだねえ。何せ一日八十銭もらえる。それがうれしかった。末松つぁんと一緒に働くのがうれしかった。あの、風を切ってトロッコに乗るのが、わだしの気性に合ってたんかねえ。過ぎ去れば、あんな命懸けのことでも、懐かしいもんだねえ。だけど、懐かしがっているだけで、いいんかねえ。
 とにかくね、かけそば一杯が二銭としなかった時代だよ。一銭八厘とか、一銭二厘とかね。そんなぐらいの頃だからね、一日八十銭は大きかった。かけそばを四十人以上にごっつぉうできるわけだからね。ほんとにありがたい出面賃だった。
 ま、さっきも言ったようにさ、坂ばころがるように、貧乏になっていく真っ最中の小林の家に、なんで嫁に来たもんだかね。わだしが十三だの十四だのっちゅう子供だったから、何の考えもなく、お父っつぁんやおっかさんの言うとおり、馬橇に揺られて嫁入りしたんだねえ。もしも十七、八になっていたら、小林の家の噂を聞いて、そんなに借金のある家なら、こりゃ大変だと、ちょっと考えたかも知れないね。
 だけどね、あんた、わだしは貧乏の苦労こそしたけど、末松つぁんと一緒になったことは、ほんとに幸せだったと思うよ。あの頃の農家は、みんな貧乏してたからね。小林の家だけが貧乏なわけではなかった。中には、貧乏しながら酒んで暴れる亭主だって、いくらもいた。けど末松つぁんは、多吉郎父っつぁまに似て、本が好きでね、小説が好きでね。雨降って、トロッコ押しにも出られん時は、寝そべってよく小説本を読んでいた。
 わだしは字も読めんから、本なんか手にも取って見なかったけど、多吉郎父っつぁまも、末松つぁんも、わだしが字も読めないのを、馬鹿にしたことは一度もない。
「セキはよく働く」
「セキは素直だ」
「いい嫁だ、いい嫁だ」
 なんてほめてくれてね。わだしが縫物なんぞしてると、「小公子」なんぞという小説ば読んでくれたりしたものだった。
 それがね、末松つぁんはお芝居が好きだとかで、女のせりふの所は女の声ば出して、年寄りのせりふの所は、じいさま声で読んでくれたの。だから、おもしろくておもしろくて、今でもあの末松つぁんの声が忘れられんの。そのせいかね、わだしは今まで、どのくらい息子や娘たちに、本ば読んで聞かせてもらったもんだか。特にこのチマは、借りて来た本、借りて来た本、わだしに読んで聞かせるの。まだ女学校の時からね。
 あれま、慶義あんつぁまの話からそれてしまって……。
 慶義あんつぁまは、その後どうにもならなくなって、東京からまっすぐ北海道の開拓農に志願して、行ってしまったの。何せ、一か八かの相場の好きな人だから、あっちに相談したり、こっちに相談したりなどしないのね。度胸がいいっていうか……。
 その開墾かいこんに入ったところが、小樽おたるの外れの潮見台しおみだいという所だった。その頃の小樽ときたらあんた、北海道一景気のいい所でね。でっかい外国の船が、何せきも出たり入ったりしてたんだと。
 この慶義あんつぁまの長男坊は、幸蔵こうぞうといってね。パン屋に住みこみに入った。わだしの住む川口には、パン屋なんてものはなかったから、パンなんてもの、見たこともなかった。団子でもない、饅頭まんじゅうでもない、そのパンてものが、想像もつかんかった。ま、言ってみればハイカラな食べものだったわけね。
 幸蔵はね、ほんとはね、最初靴屋に勤めたんだって。この靴だって、わだしら秋田の田舎に住む百姓たちには、馴染みのないもんでね。そうだべさ、わだしらのくものは、藁草履わらぞうり藁靴わらぐつがふつうで、下駄げただって贅沢なもんだったからね。
 まあそれはともかく、幸蔵は初めは靴屋に住みこんだわけだけど、どうしてだか、パン屋に入ってしまった。
 そのわけはあとでわかったんだども……とにかくある時、小樽の慶義あんつぁまから手紙が来た。末松つぁんがランプのしんを太くして、その長い手紙ば読んでいたが、
「何なに? なんだって!?」
 と、声に出して驚いた。末松つぁんは、ふだん大きな声など出さない人だから、わだしは胸をどきんとさせて、
「末松つぁん、何が起こったの? 慶義あんつぁまが病気にでもなったのかね」
 って、モンペに継ぎを当てていた手をとめて、思わず聞いてみた。
 末松つぁんは黙って頭を横にふって、おっかない顔をしたまま、手紙を先に先にと読んでいく。
(何か一大事が起こったにちがいない。なんだべ? なんだべ?)
 と、わだしは心配でね、息を殺して、手紙の読み終わるのを待ってたの。
 とうとう読み終わった末松つぁんは、ふーっと太い吐息ばらしてね、そしてわだしに言った。
「いいか、おセキ、驚くなよ。幸蔵の野郎がヤソになったんだとよ」
 ヤソと聞いて、わだしもぶったまげた。
「な、なんだって!? ヤソになったって? それはまたごっぺ返したね」
 次の言葉がつづかんかった。あんたねえ、これ、明治三十四年頃の話だからね、ヤソと聞いたら、驚くの驚かんの騒ぎじゃない。明治の初めには、ヤソば信じたら、信じた当人はむろんのこと、家族の者まで磔刑はりつけになったっちゅう話だからね。ヤソと聞いただけで、みんなぶるぶるおっかながったもんだ。そんな毛唐けとうの神さんなんぞ信じて、ご先祖さまに申し訳が立つもんだか、ご先祖さまのたたりがないもんだか、わだしは今にも自分たちが、ぐるぐる縄でしばられて、引っぱられて行くような気がして、
「ヤソなんて、そったらもんが小林の家から出たなんて、世間さまに恥ずかしくないべか」
 と、末松つぁんに言ってみた。すると何か考えていた末松つぁんが、わだしの顔を見て言った。
「いや、何も恥ずかしいことはなかべ。どこの神さん信じようと、どこの仏さん信じようと、もはや文明開化の世の中だ。ヤソのご禁制も明治六年で解けたことだし、ま、心配すっことはなかんべ。けどなあ、ヤソになったとはなあ。北海道って、ぶったまげた所だなあ」
 その話ば聞いて、わだしも少しは胸をでおろしたが、その後近所の人にも、幸蔵がヤソになった話はせんかった。
 末松つぁんが、手紙をかいつまんで教えてくれたところによると、幸蔵が初めに雇われた靴屋の主人も、あとで勤めたパン屋の主人もヤソだった。多分、二人は友だちだったにちがいない。
 このパン屋は、札幌さっぽろに大きな本店があって、小樽やあちこちに支店もたくさん持っていたんだと。それで、人手が足りんくて困っていた。靴屋はそれほど忙しくはない。その靴屋にいる幸蔵に、パン屋の主人が目をつけた。
 ああ、この幸蔵という息子はね、おやじの慶義あんつぁまとは、ちっとも似ていなかった。正反対だった。慶義あんつぁまは、相場だとか勝負事は大好きで、体を動かして働くことは好かんかった。
 ところが幸蔵は、くるくると働く正直一方な若者でね、靴屋の主人にも可愛がられ、パン屋の主人にも可愛がられて、ヤソ仲間に入ってしまったのね。
 わだしは話を聞いて、
「やれ、災難だったなあ」
 と、しみじみ言った。
 それはそうと、パンを作るという仕事は、そんなに何年もかからんでも、一人前になれるんだね。パン屋は石原っちゅう苗字みょうじだったが、この石原から、慶義あんつぁまと幸蔵はパン屋の支店を譲ってもらうことになった。
 ええ、やっぱり慶義あんつぁまは、開拓農なんて、そんな実直な仕事は向かんかったのね。まあ人間、向き不向きがあるから、仕方ないどもね。
 幸蔵がパン屋に入った次の年、慶義あんつぁまは、自分の家に「小林三星堂」という看板ば上げた。さてね、何で三星なんぞと名前つけたんだか、何でも、ほら、空に三つそろった星が出るべさ。あの星、何つう星だったっけね。なに? オリオン? あ、そうそう、オリオン、あの星が好きだからって、慶義あんつぁまが言っていたっけ。
 とにかく「小林三星堂」の看板ば上げた。そして、何とかぼつぼつ商売になっていったらしいども、その二年後の明治三十七年、とんでもない災難が起きた。
 明治三十七年といえば、日露戦争にちろせんそうが始まった年だが、小樽に大火事が起こってね、稲穂いなほ町から色内いろない町、それから手宮てみや町と、ま、小樽の盛り場という盛り場は、全部焼けたんだって。
 何でも、二千五百軒も焼けたんだと。何でまたこんな大火事になったもんだかね。火元は稲穂町。この稲穂町に慶義あんつぁまの店もあったから、もう一番先にぺろりと焼けた。
 あん時はね、やっぱりわだしは、仏罰っちゅうもんがあるんだと思ったね。だって、そうだべさ。慶義あんつぁまって人は、よくよく災難にう人だと、あんたも思わんかね。代々続いていた小林の家はつぶす、息子は何とヤソになる、おまけに火元のそばで大火事に遭う。わだし、慶義あんつぁまは可哀相だが、もうこれまでだと思ったね。折角新しい店ば出して、パン屋の看板上げて、ようやく何とかなりそうになったと聞いたばっかりなのに、それからどれほどもしないうちに、丸焼けになってしまった。わざわざ北海道まで渡って行って、慶義あんつぁまって、何んちゅう気の毒な方だと、わだしは一晩泣いて泣いて、泣き明かしたもんだった。
 末松つぁんも、ぽろっと涙をこぼされて、それからしばらく手を組んで、じーっと何か考えていなさったが、
「おセキ、そだに泣くでねえ。昔から禍福かふくはあざなえる縄のごとしと言ってな、人生ってもんは、わざわいと幸福が交り合っているもんだ。慶義あんつぁまも、不幸つづきばかりと、決めたもんでもあるめえ。人生、雨の日もありゃあ、天気の日もあるべえ」
 わだしがあんまり泣くんで、末松つぁんはそうおだやかに慰めてくれたったどもね。けど、あんたさん、あの辺の秋田の百姓共は、生まれた時から死ぬまで貧乏つづきだべさ。そして子供が死んだり、親が怪我したり、出稼ぎに行ったまま父親が帰って来なかったり、今に何かいいことあるべえ、いいことあるべえと思って暮らしているうちに、なあんにもいいことなくて死んでいった者ばかりでないの。それでも、「禍福はあざなえる縄の如し」なのかねえ。福なんていうものには、一度も会わないで死んじまう人がほとんどだったもの。
 それはそうと、慶義あんつぁまって人は、大した男だった。あれこそ、失敗も大きいが成功も大きいっつう人間だね。
 慶義あんつぁまはね、あんた、大火事には遭ったものの、火事になんぞ負けている人ではなかった。それこそ火事に遭った次の日から、小さなパン工場ば、潮見台のほうに建て始めたっちゅうから、おったまげた話だわね。
 そしてね、慶義あんつぁまは、小樽中のどんなパン屋より先に、パンの製造ば始めたんだと。さあ、人間、そこが勝負どころなんだね。ほかのパン屋が、大火事でどうするべかと、泣いたり、ぐちったりしているうちに、三星堂ひとりだけが、せっせせっせと、パンを作って売り始めた。その上ね、その何カ月後には、もう潮見台から町の真ん中の新富しんとみ町に店ば移してね、あんた、がっちりした大きな看板ば上げたんだと。
 相場をする人間って、肝っ玉が大きいのかね。慶義あんつぁまって人は、そんなに肝っ玉が大きかったのね。とにかく、あきれたり、喜んだりしているうちに、年が明けて明治三十八年になった。
 日露戦争は、明治三十七年八年のえきと言ってね。日本はでっかいロシヤと戦争している最中だった。でも、昔の戦争は、昭和の戦争とちがってね、飛行機なんぞ飛んで来んかったから、空襲なんぞなかった。敵なんぞ、影も形もなくてね。むろん原子爆弾もなかった。日本の国が戦争してることなんぞ、考えねえ人がざらにいたもんだ。
 ま、そんな時代に、日本の海軍が樺太からふとば狙って、小樽の海に二十も三十も軍艦を置いていた。もうその頃には、ほかのパン屋も立ち直っていたが、何としても立ち上がりの早かった三星堂には追っつくわけはないの。慶義あんつぁまは、御用商人の仲間に加わって、十カ月という短い間に、たくさんの軍艦に、何十万円分もの食パンば売ったんだと。
 それで、三星堂は小樽で誰一人知らぬ者のないパン屋になって、大繁昌したってことね。あれこそほんとうに、わざわいを福となすっていうんだべかね。
 さあ、こうなると、慶義あんつぁまも鼻が高い。何しろ、生まれ故郷の川口には、顔向けならんほどの、落ちぶれた状態だったから、帰りたくても帰れんかった。だが、これで一代築いたわけだから、つれあいのツルさんが、ず毎年故郷に帰って来るようになった。ちりめんの着物ば着て、藤色の羽織ば着て、土産物ばたくさん持って帰って来ると、村中の若い者も年寄りも、男も女もツルさんの話ば聞きに来る。ツルさんは、タバコすぱすぱ吸いながら、
「小樽にはなあ、電気っちゅうもんがあって、昼より明るくなるんだよ」
 だの、
「三星堂のパン焼きがまはね、電気仕掛けでひとりでパンが焼けてくるの」
 なんて言って聞かせてくれるもんだから、みんな、北海道って、そだにええ所かと行って見たくなる。
 その後慶義あんつぁまも村に帰って来て、みんなに五十銭ずつも小遣いばくれて、そりゃあもうありがたがられてねえ。慶義あんつぁまの得意げな顔ったら……見ていてわだしらもうれしくてねえ。そん時慶義あんつぁまは、わだしと末松つぁんにこんなこと言ったの。
「お前たちには、今まで大変な苦労かけたから、どうだ、小樽に渡らねえか。末松の心臓じゃ、百姓仕事はもう無理だべ。小樽だばパン売るだけでも、結構暮らしていかれっからなあ。何せ北海道じゃ、日給だって三円もくれるんだぞ」
 わだしら、心が動いたわね。日給三円と聞いて、わだしらより先に北海道に出かけた若者もいた。よくはわかんないども、北海道の景気ばよくして、給料を釣り上げれば、人が集まるって、おかみが考えたことだと、ずーっと後で聞いたこともあったども、ま、とにかく秋田にいたわだしらには、北海道は夢のような所だと、誰もが思ったんでないべか。
 わだしらも心は動いたどもね、けど、人間なかなか住みれた故郷は離れられないもんね。自分の生まれ育った土地ってものは、こりゃ何ともいとしいもんだ。なんぼ貧乏だといったところで、飢え死にするほどでもない。気心のわかった親戚や、こんまい時からの友だちは、こりゃあお金に替えられん宝だもんね。慶義あんつぁまの家族以外は、誰一人知る人もいない北海道に、そう簡単には行く気になれんのよね。今考えると、小樽に来なければ、多喜二ももっとちがった一生ば送ったかも知れんどもね。

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