『銃口』( 三浦綾子小説作品 はじめの一歩 )

“はじめの一歩”とは?

三浦綾子の作品を〝書き出し〟でご紹介する読み物です。
気に入りましたら、ぜひ続きを手に入れてお読みください。出版社の紹介ページへのリンクを掲載していますので、そちらからご購入になれます。紙の本でも、電子書籍でも、お好きなスタイルでお楽しみくださいませ。物語との素敵な出会いがありますように。

三浦綾子記念文学館 館長 田中綾

小説『銃口』について

連載 … 本の窓1990年1月〜1993年8月
出版 … 小学館1994年3月(上下2巻)
現行 … (上下2巻)小学館文庫・角川文庫・小学館電子全集
教師となった主人公が、治安維持法に問われて逮捕・勾留され、釈放の後に徴兵され従軍。実際にあった北海道綴方教育連盟事件をもとに、人と国家のあり方を考える物語。三浦綾子の最後の長編小説であり、小林多喜二の母・セキの半生を描いた『母』(1992年)と並んで、〝三浦綾子の遺言〟と呼ばれる。

「昭和の雪」

    一

 誰よりも先に夕食を終えた父の政太郎が、出窓の障子を大きくあけて、
「おお、まだ雪が降っているな。竜太りゅうた、飯を食ったらゆききをして来い」
 と、竜太を見た。ガラス窓の外側に、太い格子が並んでいる。ぱちりと音を立てて、政太郎は障子を閉め、ちょっと大島のえりき合わせた。かれいの煮こごりを口に入れながら、竜太が伏し目のまま、
「うん」
 と、重い返事をした。その竜太の表情を、政太郎も、母のキクエも、姉の美千代みちよも、弟の保志やすしも、ちらりと見てにやにやした。竜太は一口残っていた飯をかきこんで、
「保志、お前も雪掻きするべ」
 と、一つ年下の保志を誘った。保志はにこっと笑って、
「兄ちゃんは、いつまでたっても臆病おくびょうだな。もうじき四年生になるのにさ。夜になると、どうして一人で雪掻きできんのよ」
 と、先に立って玄関に出て行った。竜太とおそろいのかすり綿わたれが、その小さな背を丸くみせていた。
 確かに保志の言うとおりだと、竜太は思う。竜太は自分の家の夜の庭が妙に無気味なのだ。
 竜太の家は祖父の代からの質屋で、旭川あさひかわの質屋では五本の指に入ると、幼い時から聞いてきた。何でも旭川には三十数軒の質屋があるそうだから、裕福なほうなのであろう。黒塀に囲まれたがっしりとした門構えで、仲通りに沿って北森質店は建っていた。軒先に「志ちや」と紺に染めぬいたのれんが下がっている。
 夜になると、この黒塀の曲り角に、薄暗い行燈あんどんの灯がともる。明るい時に見る自分の家は、石造の倉や、黒塀に引き立って、誇らしいほどに立派に見えるのだが、塀の上の行燈に薄暗い灯が点ると、がらりと感じが変ってしまう。行燈のすぐそばに大きなれ柳が立っていて、それが行燈の薄暗さとあいって、ぞっとするような無気味さをかもし出すのだ。
 が、それは必ずしも竜太の臆病のせいとは限らない。竜太の家の茶の間には毎日のように私服刑事が張り込みにやってくる。どこかに盗難事件が起きると、刑事は幾日でも質屋に張り番をする。泥棒が盗品をさばくのは、ほとんど質屋と古物商であった。刑事は毎日のように来るわけだから、小学二年生の保志、三年生の竜太、そして六年生の美千代などとも親しくなる。時には、将棋の相手をしてくれたり、昔話などを語ってくれる。中でも、関西なまりのある大阪出身の西田刑事は話がうまい。いつかこんな話を竜太たち三人に聞かせてくれた。
「あれはいつやったかな。確か、まだ竜太や保志が学校へ行っとらん時のことや。美千代が二年生の頃やな。ある雪の降る夜な、この北森の質屋に、若い女が赤ん坊をおんぶしてな、恐る恐る質を入れにきた。風呂敷ふろしきのままおずおず差し出したその包みをあけて、番頭の良吉さんが驚いた。その風呂敷の中に、何が入っていたと思う? 着物でもなければ帯でもない。ショールでもなければ角巻でもない。何と赤ん坊のおしめが入っていた。良吉さんは、こんなものに金を貸せるか、と思わず怒った時……あん時はまだおじいちゃんが生きとったな。あのおじいちゃんは評判の情け深い人やったから、黙っておしめを風呂敷に入れたまま、
『このおしめを預けては、赤ちゃんが困りませんか』
 とやさしく尋ねてな、
『今日のところは、おしめを預かったつもりで、貸しましょう』
 と、なんと五十銭もその女に手渡してな、その上、番頭さんに命じて、米やら炭やら、届けさせると言ったそうや。女の人は泣いて喜んでな、何度も何度も頭を下げて、お礼を言っていたそうや。けどな、もう二度とその人は現れんかった。どんな事情か知らんが、ずいぶんと貧乏しとったんやな。そのうちに届けた米もなくなったのか、赤ん坊も死に、自分も死んだ。それからや、この家の柳の下に、女が赤ん坊をおんぶして、時々現れたそうや。幽霊いうのは、恨んでばかり出てくるのではない、ありがたくても出てくるのやなあ」
 と、両手を前にだらりと下げて、幽霊の真似までして見せたからたまらない。弟の保志は二、三日もたぬうちにけろりと忘れてしまったし、姉の美千代も、
「幽霊なんているわけない」
 と、勝気に濃い眉をぴりりと上げて、その場で一笑に付したが、竜太のほうはそうはいかなかった。日が経るにつれて、イメージが強く胸に刻みこまれてしまったのだ。
 それ以来、行燈に灯が入ると、一人で外に出るのをいやがるようになった。それと知った西田刑事が、
「うそだよ、竜太、あの幽霊は作り話や」
 と、大きな手を横にふって打ち消したが、竜太にはかえって話が本当に思われて、柳のほうを見るのが恐ろしくなるのだった。
 いまも竜太は、母のキクエが編んでくれた茶色のタコ帽子をかぶり、ひものついた手袋を両手にはめて玄関を出たが、柳の木に視線はやらない。そんな竜太に同情して、近所の人が、
「いっそ、柳の木をったらいかがです」
 と言ったが、政太郎は首を横にふって、
「いやいや、竜太もいつまでも臆病でいるわけではありませんよ。死んだおやじがこの質屋を始めた時、この辺りには太い柳がたくさんあったそうでしてな、その記念にと、おやじがわざと残しておいたものだそうです」
 と、伐ろうとはしなかった。
「兄ちゃん」
 弟の保志は、体は小さいが敏捷びんしょうだ。板にブリキを打ちつけたジョンバを両手で押しながら、元気よく雪掻きをしている。旭川の二月の雪は、アスピリンのように乾いていて軽い。
「何だ」
「兄ちゃん、ほんとにおっかないの」
「うん、おれ、おくびょうだからな」
「ふーん、兄ちゃんのように勉強できると、おくびょうになるのかな」
「だけど、人に言ったらだめだぞ、保志」
「あれ? 言ったらだめか。おれ、きょう楠夫くすおちゃんに言っちゃった」
 保志がつぶらな目を、困ったように伏せて、正直に言った。
「楠夫ちゃんに? なんだ楠夫ちゃんに言ったのか。こまったなあ」
 真野まの楠夫の母トシ子は、政太郎の妹で、つまり竜太と楠夫は従兄弟いとこ同士だった。同じ三年生で、クラスも一緒だった。成績も竜太と一、二を争うほどで、家も近かったから、毎日の学校の行き来もほとんど一緒だった。ふだんは仲がいいのだが、何かの拍子で、(おやっ)と思うようなことを楠夫は言う。
 今年の正月、こんなことがあった。叔母のトシ子に招かれて、真野の家に、美千代、竜太、保志の三人で遊びに行った時だった。家族合わせをして遊んでいた時、金満家というカードを抜いた楠夫の妹の佳世子が、
「きんまんかって、なあに?」
 と、あどけなく言った。佳世子は一年生なのだ。
「きんまんか? きんまんかってな、金持のことだ。竜ちゃんの家みたいなの、きんまんかっていうんだ」
「へえー、わたしのうちが金満家?」
 年嵩としかさらしく美千代が笑った。
「そうさ、美千代ちゃんちはきんまんかさ。けどな、質屋は貧乏人でもうかっているんだってな。貧乏人がいるから得してるんだってな」
 竜太は驚いて、楠夫の顔を見た。楠夫は自分の言ったことに何の頓着とんちゃくもなく、自分のカードを器用な手つきで並べ替えていた。美千代がぱっと立ち上がった。
「竜太、保志、さ、帰ろ」
 竜太には何となく姉の美千代の怒りがわかるような気がした。が、この場を不意に立ち去るほどの憤ろしさを、竜太自身は感じなかった。保志はきょとんとして、
「どうして帰るの? おれ、まだみかんもたべていないのに」
「何を言ってるのよ。みかんくらいうちにだってあるわ」
 美千代は保志の手をぐいと引き、
「竜太、帰るわよ」
 と、隣の部屋の叔父にも叔母にも挨拶もせず、真野の家を飛び出した。保志だけが大きな声で、
「おじさん、おばさん、さようなら」
 と言って玄関を出た。
 家までの二百メートル足らずの道を、美千代はものも言わずに、ずんずんと歩いた。美千代は六年生の中でも体格がよく、級長として号令をかける時、誰よりも澄んだ響く声を出す。いつも笑ってばかりいて、その笑い声の聞えるところには、すぐに幾人かの集まりができた。だから、たまに怒ることがあっても、そう怖いとは思わなかった。が、きょうの美千代は恐ろしかった。こんなに真剣に怒っている美千代は珍しかった。
 家に帰り着くと、父の政太郎と母のキクエは茶の間でお茶を飲んでいたが、三人の姿を見て、
「なんだ、もう帰って来たのか」
 と、時計を見上げた。まだ十一時だった。いつもの正月だと、昼前から行って昼食を馳走ちそうになり、夕方薄暗くなるまで遊んで来ることに決まっていた。
「うん、姉ちゃんが急に帰ろうっていったんだ」
「急に? けんかをしたのか」
 美千代は黙って頭を横にふった。
「けんかなんかしないよ、お父さん」
 保志が無邪気に答える。
「けんかもしないのに、急に帰って来たのかい」
 美千代の様子を見ていたキクエが、やさしく声をかけた。
「だって、楠夫ちゃんが……」
 美千代の大きな目から涙がころげおちた。保志が首をかしげた。竜太は窓の外を見た。太い格子越しに、門の外を駆けて行く子供たちの姿が見えた。
「いったいどうしたのさ」
 美千代の涙に驚いてキクエは言った。美千代は、
「お母さん、楠夫ちゃんがね、質屋は貧乏人のお陰でもうかっているんだって……貧乏人がいるから得してるんだって……ほんと? お父さん」
 と涙声で言った。滅多に泣いたことのない美千代の泣き顔を、政太郎はじっと見つめながら耳を傾けていたが、
「質屋は貧乏人のお陰でもうかっている? なーるほど。言われてみればそのとおりだな、母さん」
 と、キクエを見た。
「誰がそんなことを楠坊に言って聞かせたんかねえ」
 キクエが眉根を寄せた。
「いや、しかし、楠坊の言うとおりだよ。この店に金持が質を入れに来たためしはない。金に困った者しか、この店には来んからのう。貧乏人のお陰でもうけていると言われりゃ、ま、それはそのとおりだ」
 政太郎は大きく口をあけて笑った。が、すぐに、
「しかしな、美千代。質屋というもんが、もしなかったら、金に困っている人間は、きっと困るにちがいないぞ。お前も六年生だ、よく聞いておけ。人間誰しも、一生のうちには金に困ることが必ずある。そんな時、親戚や知人のところに行って、たとえ一円でも貸してくれと頭を下げるのは、こりゃあ辛いもんだ。昨日まで仲よくしていた者でも、そういい顔をして貸してはくれぬもんだ。渋い顔になったり、見下げた顔になったりする。胸の中がひんやりするような、冷たい顔を見せられるほど人間辛いことはない。
 ところが質屋というものがあるお陰で、羽織の一枚も風呂敷に包んで持って行けば、質屋はいらっしゃいと迎えてくれる。品物によっては、一円借りるつもりが五十銭しか借りられないこともあるが、反対に二円借りられることもあって、何とか急場をしのげるわけだ。品物は金の都合のついた時に受け出しに行けば、ちゃんとそのまま返してもらえる。むろん、約束の三ヶ月が過ぎても、そのままにしておけば流れるわけだがな。ま、いずれにしても、質屋のお陰で、親戚知人に頭を下げる辛さは、まぬがれる寸法だ。
 質屋がなければ、首りしかねない気弱な人間だっているわけだから、おれはいい仕事をしてると思っているよ」
 竜太はうなずきながら聞いていたが、
「したら、お父さん、やっぱし貧乏な人のおかげで、質屋はもうけているんか」
「まあそうだ。だから、質物しちもつを入れに来るお客さんには、ありがとうございます、とていねいに頭を下げるんだな」
 涙をぬぐった美千代が、
「お金を貸すのに、頭をていねいに下げるの」
 と、ようやくふつうの声で言った。
「そうだ。金を貸す者が何も偉いわけではない。特に質屋の場合、品物を預かって金を貸すわけだからな。商売させてもらっているんだから、頭は下げなきゃならん」
 竜太が顔を上げて、
「したらさ、お父さん、お金だけ貸す時は威張ってもいいの?」
 と、まじめに聞いた。政太郎は思わず笑った。キクエがみかんを盛った盆をテーブルの上においた。政太郎はみかんの皮をむきながら言った。
「この質屋を始めたお前たちのおじいちゃんは、仏さんと言われたもんだが、よく言ったもんだ。『人間金があるくらいで、威張っちゃならん』とな」
 みかんをほおっていた保志がすっとんきょうな声を上げて、
「お父さん、お金がある人、偉いんじゃないの」
 と尋ねた。
「どうだ、美千代、竜太、金のある人間が偉いのか」
 竜太は首をひねったが、美千代が言った。
「わたしたちの坂部さかべ先生、ちっちゃな家に住んでるけど、わたし、偉いと思う」
 快活な声だった。竜太は思わずうなずいた。
(そうだ! あの坂部先生、おれも偉いと思う)
 何となくそう思う。どこが偉いのかよくわからぬが、話す言葉や生徒を見る目があたたかい。政太郎が言った。
「うん、坂部先生は偉い。おれなんぞより、よっぽど偉い。金はおれのほうが持ってるかもしれないがな……」
 キクエがストーブに、太いまきを二本放りこんだ。

   二

 がらりと大きな音を立てて、教室の戸があいた。三年二組の生徒五十名は一斉に立ち上がる。黒い詰襟つめえりの服を着た河地かわち三造さんぞう先生は、教卓に両手を置いて、じろりと生徒たちを一瞥いちべつした。それが合図で、級長の竜太は、
「礼!」
 と号令をかける。六年生の姉の美千代も三年生の竜太も級長なので、きょうだい級長と呼ぶ者がいた。一同が着席すると、河地先生が言った。
「みんな、つづかたの宿題をやってきたな」
「はい」「はい」と低い声高い声があちこちにした。
「うまくできたか」
「できません」
 これは男子も女子も声が揃った。
「綴り方の題は……」
 そこまで言って河地先生はくるりと背を向け、「御大葬ごたいそうの日のこと」と黒板に書きながら、
「御大葬って何か知ってるか」
 と、ふり向いた。ひょうきん者の浅田が、
「一、二、三の体操です」
 と言った。みんなが笑った。河地先生の目がぎょろりと光った。
「出て来い、浅田!」
 浅田はのろのろと先生の前に立った。先生の手が浅田の頬を殴った。浅田がよろけた。
おそれ多くもかしこくも、大正たいしょう天皇の御大葬を、一、二、三の体操とは何ごとか」
 と、今度は頭を小突こづいた。
「みんな、御大葬の日はいつだった?」
 立ったまま浅田が手を上げた。先生が指した。
「二月七日? なんだ、ちゃんと知ってるじゃないか。よし、戻ってよい」
 河地先生は不機嫌な顔を不意に竜太に向けた。
「じゃ、級長の竜太、どんな綴り方を書いてきたか、読んでみい」
「はい」
 竜太は綴り方用紙を持って立ち上がった。胸が動悸どうきしている。竜太は綴り方は好きだが、今度ばかりは自信がなかった。何をどう書いていいかわからなかった。先生はいつも、思ったこと、見たこと、聞いたことを正直に書けと言う。だからそのとおりに書いた。
「 御大葬の日のこと
 大正天皇陛下へいかがおかくれになって、御大葬というのがありました。これは天皇陛下のお葬式のことです。お母さんが絣の着物と、羽織と、しまはかまを新しく作ってくれました。
 外へ出ると、粉雪が降っていて、すごく寒かったです。式の日だからと言って、すべりどめのついた下駄げたいていけと言われました。ぼくはゴム靴を履きたかったけど、いとこの楠夫ちゃんや、弟の保志といっしょに、学校に行きました。途中、ふざけて下駄がぬげ、足袋たびが雪にぬれて、足が冷たかったです。時々雪を払い、二条から六条まで歩いて行きました。
 学校に着いたら、足袋がすっかりぬれていて、ほんとうに冷たかったです。寒い運動場で式がありました。運動場の板が氷のように冷たかったです。うわ靴を履いていても足が冷たかったです。気をつけの姿勢でいなければならないので、足を動かしたくても、動かせませんでした。
 ぼくは、天皇陛下がお隠れになったのだから、冷たいぐらいはがまんしようと思いました。校長先生のお話がありました。ぼくは足ばかり気にしていました。みんなで、大きな声で、御大葬の歌をうたいました。『地にひれ伏して天地あめつちに 祈りしまこといれられず 日づる国の国民くにたみは あやめもわかぬ闇路やみじゆく』という歌でした。悲しそうな歌でした。
 ぼくは御大葬の日を思うと、今でも足が冷たくなります。でもご大葬の日を思って、これからもぼくは勉強して行きます。   おわり」
「なあんだ、それで終りかっ!」
 言うやいなや、壇上から河地先生が飛んで来た。竜太はびくりと肩をふるわせた。
「これが三年二組の級長の綴り方かっ! 御大葬の日の綴り方かっ!」
 あっと言うまに先生の手が両頬に鳴った。竜太はいまだかつて先生に殴られたことはなかった。恐ろしさで体が硬直した。歯がガチガチと鳴った。女生徒たちが目を伏せた。
万世一系ばんせいっけいの天皇陛下が崩御ほうぎょされたのに、お前は足が冷たいだけか。先生は恥ずかしいぞ。今日、残って書き直せ。こんなものを職員室に持っていくわけにはいかん」
 竜太はどうして叱られたのか、よくわからなかった。綴り方は、見たこと、思ったこと、聞いたこと、したことを正直に書けばよいと、いつも先生は言う。そのとおりにしたのだ。
 竜太が殴られて、教室はしんと静まった。河地先生が、
「じゃ、楠夫、お前が読め。お前はどう書いてきた?」
「はい」
 楠夫は一番うしろの席で立ち上がった。楠夫はクラスで一番背が高いのだ。
「お前は副級長だ。しっかり読め」
「はい!
  御大葬の日のこと
 ぼくは、大正天皇陛下がお隠れになったと聞いた時、心臓のつぶれる思いがしました。天皇陛下は、日本で一番偉いお方です。国民の父親なのです。そしてぼくたちをわが子のように、かわいがって下さるのだと先生が言いました。
 御大葬の日、雪が降っていました。ぼくは竜太君といっしょに、悲しいのをがまんして学校に行きました。式の時、校長先生は、これで大正天皇陛下とはお別れになりますと、言われました。御大葬の歌をうたう時も、悲しくて涙がこぼれそうになりました。でも、ぼくは日本男児だから、泣いてはならないとがまんしました。
 ああもう、大正天皇陛下はこの世にはおられません。でも摂政宮せっしょうのみやが新しい天皇陛下になって、ぼくたちをかわいがってくださいます。ぼくたちは安心して、昭和しょうわ御代みよを生きていけばいいのだと、お父さんが言いました。
 御大葬の日は、自分の親がおかくれになったように悲しかったです。   おわり」
「うん、よし! 副級長のほうが立派だ。竜太、聞いたか。な、みんな、楠夫のほうが立派な綴り方だな。楠夫は三年生なのに、よく天皇陛下の崩御を悲しむ気持になったな。竜太、お前恥ずかしいとは思わんか。なんで足が冷たい足が冷たいと、それしか書くことがなかったのか。今日はきちんと書き直さんと、暗くなっても帰さんぞ」
 河地先生の言葉に、真野楠夫は胸を張って辺りを見まわした。と、先生が言った。
「それはそうと楠夫、自分の親が死んだ時に、おかくれになったとは使わんぞ。覚えておけ」
 と、一言たしなめた。
 みんなが帰った教室に残って、竜太は綴り方を書き直していた。ストーブの火は消えて、教室の中は次第に冷えてゆく。もう三時にはなるだろう。誰もいない教室は、森閑しんかんとしてものさびしい。竜太は背を丸めて、鉛筆で一字一字ていねいに書き直していく。楠夫の綴り方を聞いていたから、どう直せばいいかよくわかった。要するに、楠夫のように、「天皇陛下が死んで悲しい」、と書けば先生は許してくれる。だが楠夫は、あの日学校に行くのに、悲しそうな顔など全くしていなかった。竜太をからかって、
「竜ちゃん、竜ちゃんは自分ちの庭の柳の下に、幽霊が出るって、信じてるってか」
 と、幽霊の真似をし、
「馬鹿だなあ。文化文明の世の中だぞ。飛行機も汽車も自動車もある世の中だぞ。幽霊を信じるなんて、馬鹿じゃないか。な、みんな」
 と、つれの者たちに大声で言った。その中に保志もいて、
「そうだよねえ、幽霊などいないよねえ」
 と相槌あいづちを打った。それから楠夫は先頭に立って、
「うらめしや……」
「うらめしや」
 と言いつづけ、
「めしやは、うらにしかないんか。おもてだってあるべや」
 と、ふざけて笑った。竜太は足袋がぬれて冷たいのを我慢しながら、黙ってからかわれていたのだ。
(楠夫ちゃんは、うそを書いた。それに……)
 竜太は知っているのだ。綴り方の宿題は、楠夫の父か母が、必ず手伝ってやるということを。そんな楠夫の真似をして、自分の綴り方を書くのはいやだった。日本の天皇さまがおかくれになったのは、竜太としても何となくさびしい。しかし、楠夫が書いたほどに泣きたくなるほど悲しくはない。
(一度も会ったことがないし、声を聞いたこともないもな)
 と思う。
(ぼくは、わるい生徒なのか)
 先生に殴られ、残されるほどの悪い生徒なのかと、竜太は悲しかった。
(もう綴り方なんか書くものか)
 そうも思う。先生は何でも正直に書けという。だから正直に書いたつもりなのだ。だが先生は、思わないことまで書けというのだ。竜太は納得のいかぬままに、楠夫の綴り方を真似て書いた。臆病な竜太だったが、今日は幽霊のことを考える暇はなかった。ただ、今まで味わったことのないみじめな、不愉快な思いで綴り方を書き上げた。
 書いた綴り方を職員室に持っていくと、ストーブの傍らで煙草たばこんでいた河地先生が、
「何だ、早いな。もうできたのか」
 と、竜太の綴り方を手に取った。そして煙草をくわえたまま、少しむずかしい顔で読んでいたが、読み終ると大きくうなずいて、
「うん、これでいい。楠夫よりよく書けてるじゃないか。初めからこう書けば文句はなかったんだ」
 と、竜太の頭をでぐるりとなで、
「よし、帰ってよい。早く帰れ」
 と、あごで戸口のほうをしゃくるようにした。竜太は不意に涙がこみ上げてきた。うれしかったのではない。口惜くやしかったのだ。口惜しさが心の底から噴き出てきたのだ。が、竜太は一礼して、手の甲で涙をぬぐいながら職員室を出た。
 家に帰ると、弟の保志が飛び出して来た。
「兄ちゃん、先生になぐられたってほんとうか。のこされたってほんとうか」
 保志はきこんで尋ねた。そのうしろに、姉の美千代が黙って突っ立っていた。竜太は自分が残されたこと、殴られたことを、既に父も母も知っていると観念した。
 茶の間に入ると、台所から母が前掛まえかけで手をき拭き顔を出して、
「寒かったろう」
 と、ねぎらった。またしても竜太の目に涙があふれてきた。学校に入って以来、三年生の今日まで、殴られたり、残されたりしたことは一度もなかった。
 竜太が帰って来たと察したらしく、店から政太郎が茶の間に入って来た。質屋が忙しくなるのは、夕暮からだ。まだ二月の太陽は、沈んではいなかった。
「殴られたってか」
 いきなり父の政太郎が言い、
「殴られることだってあるさ。どんな綴り方を書いたんだ? 見せてみろ」
 あんじょう父親は今日の出来事を何もかも知っていた。が、とがめる口調はつゆほどもなかった。竜太はすすり上げながら、綴り方を父の前に差し出した。政太郎はきらりと目を光らせて綴り方を読んでいたが、読み終ると声を上げて笑った。
「なるほど、始めから終りまで、足が冷たい、足が冷たいの一点張りだ。それで先生が殴ったわけだ。先生としては、ちょっと困ったな。天皇陛下がお隠れになって、足が冷たかったばかりではな」
 と、竜太の顔をまじまじと見、
「しかしなあ、竜太。お前三年生だもな。もうじき四年生になるといっても、子供だもな。天皇陛下がお隠れになって、悲しくて仕方がないと思えなくても、仕方がないんだ。大人じゃないんだからな」
 政太郎に替わって綴り方を読んでいた母のキクエが、
「父さん、これでけっこう。子供なりに悲しみは出てると、わたしは思いますけれどね。冷たいというのは、悲しみの感情に通ずるものがありますよ」
 いかにも俳句を作るキクエらしい言葉だった。
「なるほど、まあそう言えばそうだな。しかし先生は、悲しみが出ているとは思わなかったんだろう」
「わからないほうが悪いんですよ」
「それはともかく、竜太、人間は一生の間に、口惜しい目にったり、つらい目に偶ったりすることが、何度もあるもんだ。馬鹿にされたり、誤解されたり、悪口を言われたりな」
「…………」
「お父さんは今でも辛い目に偶うことが、幾度もある。辛い目に偶わせる人間のおかげで、人間は本当の大人になるのかもしれん。だからな、むやみとうらむな。根に持つな」
 政太郎がそう言った時だった。姉の美千代が叫ぶように言った。
「お父さん、わたしは反対よ。恨まなければならないことは、絶対恨むわ。根に持つわ。わたし、忘れてならないことは、絶対忘れないの。竜太、今日の先生の仕打ちを、決して忘れちゃ駄目よ。別だん悪いことを書いたんじゃないのに、殴ったり書き直しさせたりするようなの、先生じゃないわ。わたしは許さない」
 語尾がふるえた。竜太はその声に姉らしさを感じた。今まで竜太にとって、美千代は頭のいい、ちょっと厳し過ぎる姉だった。いつも明るく笑っている美千代だが、どこかに厳しさがあった。それが今、あたたかい何かが胸に流れこむような、そんな親しさを覚えたのだった。保志が笑った。
「姉ちゃん、おっかないな。うらむのか。根にもつのか」
 母のキクエが言った。
「美千代、いつからお前そんな気持になったんかねえ。お前は笑い上戸じょうごで、明るくて、親切で、いい気性きしょうだと思っていたけどねえ。きついことを言うようになったねえ。ねえ、お父さん」
「うん、しかし、もしかして美千代の生き方の方が、おれなんかより上等と言えるかもしれんな」
 考え深げな政太郎の声だった。

坂部久哉先生

   一

 玄関でうわ靴に履き替えた竜太と楠夫は、一目散に廊下を走った。二人は今日から四年生なのだ。四年生の教室は、西側の階段を上がった右手にある。この階段の途中の踊り場に、大きな四角い鏡が掛かっている。絵の額縁がくぶちのように、縁が金箔きんぱくで、小学校には贅沢な鏡だ。二人は鏡には見向きもせず、階段を一段置きに駆け上がった。
 学校へ来る道々、「おれたちの先生、誰だべな」と二人は胸をわくわくさせて来たのだ。道すがら楠夫は、
「おれ、今までどおり河地先生でもいいや」
 とも言っていた。
「河地先生? そうだなあ」
 竜太は気のなさそうに相槌あいづちを打ちながら、
(もし河地先生の持ち上がりならどうしよう)
 と心配だった。河地先生には、一年生から三年生まで受持たれた。熱心で真面目まじめな先生ではあった。が、どうかすると大声を出す。拳骨げんこつをふるう。竜太も大正天皇たいしょうてんのう大葬たいそうの日のつづかたで、両頬りょうほおなぐられた上、残されて書き直しを命ぜられた。それまで殴られたことがなかっただけに、大きな屈辱だった。以来、俄かに河地先生が嫌いになった。どうにかして、今日からは新しい先生に替わって欲しいと思っていた。河地先生以外なら、どの先生でもかまわない気がしていた。楠夫は、
「おれ、河地先生もいいけど、谷川たにかわ先生もいいな」
 と、晴れた空を見上げながら、にやにやした。谷川先生は若い女の先生で、洋服を着ている。ほとんどの女の先生がはかま胸高むなだか穿いて、廊下を歩く時も風呂敷ふろしき包みを胸に抱え、足音を立てずに歩く。が、谷川冴子さえこ先生は教科書を持った手を大きく振りながら、廊下の真ん中を、さっさっと一直線に歩く。受持以外の生徒に会っても、
「お早う。元気?」
 と快活に声をかける。時には頭をでてくれることもある。軽く肩を叩いて通り過ぎて行くこともある。楠夫は時折、
「谷川先生って、いい匂いがするな」
 と、鼻をうごめかすことがある。その谷川先生がいいなと、楠夫は道々言ったりしていたのだ。が、その時竜太は、
(谷川先生では困る)
 と思った。谷川先生は嫌いではない。が、女というのは困る。なぜ困るのかはわからないが、いい匂いのするのも何となく困るのだ。とにかく、どんな先生になるかと話し合いながら来ただけに、二人は廊下を走り、階段を駆け上がった。
 竜太と楠夫は、階段を上がり切ると、右手の四年二組の教室を目がけて飛んで行った。教室の出入口の上に先生の名が出ているはずだ。その下に、生徒たちが七、八人集まって、何かわいわい騒いでいる。駆け寄った二人を見て、誰かが言った。
坂部さかべ先生だぞ!」
 竜太はわが耳を疑った。見上げると、「四年二組坂部久哉」と、黒塗りの札に白い字で達筆で書かれてあるではないか。楠夫が両手を上げたかと思うと、
「坂部先生だーっ!」
 と叫んで、
「よかったなあ、竜ちゃん」
 と、竜太に抱きついた。竜太もしっかりと楠夫に抱きついた。竜太は急に楠夫をすごく好きになったような気がした。

つづきは、こちらで

【動画】『銃口』『青い棘』登場人物の言葉(企画展2020)

終戦75年企画展「アノ日、空ノ下デ君ハ何ヲ想フ」『銃口』『青い棘』作中人物のことば130-三浦綾子記念文学館企画展2020

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