“はじめの一歩”とは?
三浦綾子の作品を〝書き出し〟でご紹介する読み物です。
気に入りましたら、ぜひ続きを手に入れてお読みください。出版社の紹介ページへのリンクを掲載していますので、そちらからご購入になれます。紙の本でも、電子書籍でも、お好きなスタイルでお楽しみくださいませ。物語との素敵な出会いがありますように。
三浦綾子記念文学館 館長 田中綾
小説『雨はあした晴れるだろう』について
別冊女学生の友1966年5月
出版 … 『雨はあした晴れるだろう』北海道新聞社1998年7月
現行 … 『雨はあした晴れるだろう』三浦綾子記念文学館復刊シリーズ・小学館電子全集
高校3年生のサチコの日記形式で綴られる物語。義兄に恋心を抱くサチコは、その想いを悟られないようにするが、車のバックミラーに映った表情がきっかけで義兄との距離が縮まってしまう。姉への嫉妬心と良心とのはざまで心が揺れ動く。
「世界一の悲劇」
六月三十日
学校の帰り、山野先生といっしょになる。
「高校三年ってつまらん時だろう? みんなの話は大学の受験や就職のことばかりで」
そんなことを先生はおっしゃった。
「少なくとも高校の先生の毎日よりは、生徒であるわたしたちのほうが楽しいんじゃないかしら」
というと、
「うん、まあ、そう言われればそうだ」
と先生は笑っていらっしゃった。
わたしたちの未来に何が待っているのか、そう思うことの楽しさ。
何があったっていい。わたしはわたしの人生に真っ正面から素手でぶつかるのだ。
「傷痍なき人生は恥」
ということばを義兄に教えてもらった。いいことばだ。一度も傷ついたことのない人生なんて、わたしもごめんだ。
夜、義兄がわたしのへやに本を借りにきた。パラパラと本のページをめくる義兄の端正な横顔から、わたしは視線をそらすことができなかった。
ああ、世界でいちばん好きな人が、わたしの姉の夫だなんて……。
だめ、だめ、だめ。これ以上何も書いてはいけない。わたしは義兄にだけは正面からぶつかることはできないのだ。
「おにいさん。わたしはあなたのものになりたい」
もしも、そういったなら、いったいどういうことになるのだろう。傷つくのはわたしひとりではすまされない。
夜、雨が降っていた……。
七月十二日
義兄と姉が映画に行った。
「サッちゃんも行きましょう」
と姉が誘ってくれたが、勉強があるといってことわった。
「サッちゃん、もう少しおにいさんになついてよ」
姉は、そっと、わたしの耳にささやいて映画に行った。
ああ、かわいいおねえさん。おねえさんは疑うということを知らないのだ。わたしの心の中を知ったなら、きっとおねえさんは気絶するだろう。だれにも、知らせたくない大きなヒミツ。
おねえさんたちの車をじっと見送っていたのを、ふたりは知らない。
ひとりで勉強をしていると、直彦君から電話がきた。
「サチコ。君は何をしてる?」
「あのね、今、世界一の大悲劇を書いているのよ」
「世界一の大悲劇? はははは」
直彦のやつ、ゲラゲラ笑っている。
「君って相変わらず楽しいやつだなあ。その悲劇を拝読に、これから行ってもいいかい」
だって。
「そうね。今、姉も義兄もいないのよ。あき巣ねらいでもいいの?」
直彦君はスクーターで飛んできた。わたしと直彦君はすごい仲よしだと人は思っている。いや直彦君だってそう思っているのだ。
「傑作を読ませてくれよ」
直彦君の表情が少しかたくなっている。ふたりっきりだということを、意識している表情だ。
「書かれざる傑作よ。そんな小説できるわけないわよ」
わたしが笑った。
「そうだろうと思ったよ。サチコみたいな陽気な人間に、悲劇なんて書けるはずがないよ」
直彦君よ、陽気なピエロって悲しいものなのよ。でも、いいの。これはわたしの秘密だから。
「サチコ。ぼくね。なんだか変な夢をみるんだ」
直彦君がいった。
「ふーん。どんなユメ?」
「サチコがときどき夢の中に現れるんだけど、たいてい寂しい顔をしているんだ」
ギョッ。それはまさゆめよ。