“はじめの一歩”とは?
三浦綾子の作品を〝書き出し〟でご紹介する読み物です。
気に入りましたら、ぜひ続きを手に入れてお読みください。出版社の紹介ページへのリンクを掲載していますので、そちらからご購入になれます。紙の本でも、電子書籍でも、お好きなスタイルでお楽しみくださいませ。物語との素敵な出会いがありますように。
三浦綾子記念文学館 館長 田中綾
小説『茨の陰に』について
JOTOMO 1977年4月〜12月
出版 … 『雨はあした晴れるだろう』北海道新聞社1998年7月
現行 … 『雨はあした晴れるだろう』三浦綾子記念文学館復刊シリーズ・小学館電子全集
政治活動を描いた異色の中編小説。札幌近郊の町の、町長選挙をめぐる駆け引きと攻防。現職町長の娘・景子は、両親や姉のあくどいやり方に嫌悪感を抱く。が、それを止める手立てもなく、自分の生き方や人生観に疑問を持つようになっていく。
「1」
〈どんな人間の一生も、すべて、自分自身へ行きつくための、ひとつの道なのだ〉
〈どんな人間も、完全に自分になれたためしはない〉
二階の部屋で、ヘルマン・ヘッセの小説『デーミアン』を読んでいた佐津川景子は、ふと目をあげて窓を見た。
庭の裏から、いきなり石狩平野は、果てしなくひろがっていた。水のはいった田んぼに、青い五月の空が映り、平野のところどころには、黒々とした針葉樹の防風林や、青や赤の農家の屋根が散在し、その彼方に地平線があった。
(自分自身へ行きつくための、ひとつの道……)
景子は地平線に目をやりながら、心の中でつぶやいた。ほんとうの自分自身になるためには、ただひとつの道しかないのであろうか。とすれば、自分がほんとうの自分になるためには、はたして、この家で、父母や姉たちと生活をつづけるべきか、どうか。
(やっぱり、思いきってこの家を出るべきではないかしら)
景子はこのごろ、幾度かそう思っていた。それは必ずしも、十九歳という若さゆえの浅慮とも、景子には思えなかった。
景子の父佐津川長吾は、石幌町の町長で、来春は三選を期待されていた。母の富喜枝は誰の心をも惹くしとやかな女性であり、姉の美図枝ものびやかな明るい女性であった。
そして景子よりも十も歳下の雅志は、少し神経質だが、景子によくなつく愛らしい弟だった。他から見て、景子が家出をしなければならぬ理由は、まったくないように見えた。
「景子、景子……」
母の富喜枝のやさしい声が近づいてくる。景子は黙って、英語のリーダーを本立てから取り出してひらいた。ドアがノックされ、母の顔がのぞいた。瓜実顔の富喜枝の顔は、いつものように微笑をたたえている。景子は母を見ていると、人間の印象や表情ぐらいあてにならないものはないと思う。この微笑の蔭に何がかくれているのか。意外と人々は知ってはいなかった。
「なあに、お母さん」
「なあにじゃないわよ」
語調は少しも尖らない。が、まつわりつくように、目に見えぬ何かがあった。有無をいわさぬ何かがあった。
富喜枝は机の傍までやってきて、景子のひらいているものが英語の本だと知ると、
「よくお勉強するのね。でもね、景子、今日は新築祝いなのよ。お父さんの後援者たちをお招きしてあるのよ。二十人も集まるのに、景子も手伝ってくれなくちゃあ……ね、手つだってね」
「ハイ、いま行くわよ」
景子は父の支援者たちがうとましかった。このうえ父に町長などつづけてほしくはなかった。が、それを口にすることは景子にはできなかった。母が父の地位にどれほど執着しているかを知っていたからだ。
「どうせきょうは土曜日だし、お勉強は明日でもできるわね」
景子は札幌の北都短大に通っていた。が、父の長吾も母の富喜枝も、娘の短大進学は嫁入り道具としか考えていなかった。中学までは学校の成績に異常なほどに敏感だった富喜枝が、去年景子が短大にはいってからは、一度だってその成績を気にしたことはなかった。
景子はエプロンをつけると、母の後から階下に降りて行った。つい十日前移ってきたばかりの、地坪七十坪もあるこの新宅の、きょうは表向きは建築落成祝いの日であった。が、招待客は厳選されていて、佐津川長吾後援会の幹部たちに限られていた。
料理は仕出し物を出す。だがこんなとき、手作りの幾品かを富喜枝は必ず添えることにしていた。
「いいこと? それが人の心をつかむこつですよ」
富喜枝は、娘たちやお手伝いの行子にいつも聞かせている。美図枝は十二畳の広いキッチンで、鶏の唐揚げの用意をしていた。行子は鮭を切っていたし、こういうときにはいつも手伝いにくる富喜枝の妹のハツ子も、忙しそうに大皿を拭いていた。
「やれやれ、やっとお姫さまが現れた」
姉の美図枝は景子を見て笑った。美図枝は、人の集まるところなら、葬式でも好きだといったことがある。きょうのために、何日も前から母よりも気をいれて準備していた美図枝である。笑うと盛りあがる美図枝の胸が、さらに大きく盛りあがった。景子はいやおうなく、父の支援者たちのために料理の手伝いをしなければならなかった。
「2」
夕方六時、ひとりの遅れる者もなく幹部たちが集まり、何やら協議がもたれた。それは協議と言うより密談といってよく、富喜枝以外はその部屋に出入りすることが許されなかった。それから一時間半ほどして祝宴がはじまり、女たちがみな酌にかり出された。またたく間に銚子があく。ビールが飲み干される。二十畳の大広間の電灯は煌々と明るかった。大声で政治を論じあう者、ひとりで心地よさそうに歌をうたう者、しだいに座が乱れてきた。
「今度という今度はね、町長、ほんとに、油断ならん選挙になりますぜ」
参謀格の、顔の四角い比羅井が、ぎょろりとした目を長吾に向け、どすのきいた声で低くささやくのを、景子は耳にした。景子は父のうしろにひっそりとすわっていた。
「しかしねえ、比羅さん、わしは現職だからねえ」
と、佐津川長吾が自信ありげにいった。
「そりゃあ町長、現職は強い。しかしな、今度の相手は高橋宏二だからな」
高橋宏二は、この三月まで石幌町の高校の校長をしていた。信念があり闊達な人物で、町民にも教え子にも人望があった。その高橋宏二を教え子たちがむりやり説得して出馬に踏み切らせたのである。しかも革新団体の推薦を受けるという情報も流れていた。ついこのあいだまで、無競争と思っていた佐津川派は、いささかあわてたのである。
石幌町で高橋宏二を悪くいう者はほとんどない。高橋宏二は炭鉱都市夕張から転勤してきて十年になる。その人格が、崩れかけていた石幌高校の校風を一新させたとさえいわれていた。
一方佐津川長吾の、町長としての手腕もかなり高く評価されていた。だが、もともと木材業であった佐津川長吾の経営が、この界隈の同業者の中で筆頭に立ったことに、疑惑をもつ者も少なくなかった。
「……なあに、いくら相手が高橋先生でも、人間だよ、比羅井君。人間という者は、叩きゃあ埃の出るもんだよ」
意味ありげに、長吾はニヤリと笑った。
「なるほど、叩けば埃は出るわな」
比羅井もニヤリとうなずき、その分厚い口を長吾の耳にもっていった。長吾は、
「ふん、ふん、なるほど。デマか。うん、それはいい手だ」
と、しだいに相好を崩していく。景子には二人の低いささやきは途切れ途切れにしか聞こえなかったが何か不安だった。と、長吾がいった。
「しかしな比羅井君、無理だよ。その手は無理だ。奴さんが教え子に手をつけるとは……」
「それが駄目、それが」
比羅井が大きな手をふった。熊の手のような大きな手であった。
「ねえ、町長」
再び比羅井が何やら低くささやいた。長吾がちょっと声をあげて笑った。
「うん、それならいいだろう。その手をみんなで相談してくれ」
長吾は比羅井のコップにビールを注ぎながら、
「なるほどあそこには娘や息子がいる。若いもんだ、色恋のひとつやふたつ、ないほうが不思議だし……」
「じゃあ、近いうちに『月刊石幌』の大原にいい餌でも持っていきますか」
景子は、思わずハッとした。『月刊石幌』は、石幌町にある郷土誌である。その郷土誌を出している大原達夫の息子哲也は、景子のひそかに心惹かれている青年だった。清潔な哲也のまなざしを思いながら、景子はそっと座を立った。
「なんだ、景子、ここにいたのか」
父の長吾が、景子の手をとった。長吾は酔うと、妻でも娘でも、お手伝いの行子の手でも、やたらに握る癖がある。そんなときの父を、景子は嫌っていた。
「ちょっと、お酒をとりに」
「そうか。おや、お母さんがいないな、お母さんを呼んでおいで」
「はい」
逃げるように景子は部屋を出た。姉の美図枝が、男たちの間にはいって、のけぞるように笑っている姿が、胸に残った。
タバコの煙と酒のにおいのする座敷から逃れて景子はほっとした。
キッチンでは叔母のハツ子が一人、酒の燗をしていた。
「今度の選挙は大変だねえ」
ハツ子は景子に赤い顔を向けていった。燗をしながら、刺身でもつついて独酌していたのだろう。襟を落とした粋な着付けが、会社員の妻には見えなかった。
「そうね」
適当な相づちを打つ景子に、
「あんたのお父さんね、選挙前にこの家を建てたのは失敗だったよ。なにしろ少し立派過ぎるからね。佐津川御殿なんていう人もあるからね。きっとまた、あることないこといわれるよ」
「そうお……あの、叔母さん、お母さんは?」
「おや、座敷じゃないの」
景子は部屋を出た。母の姿は、居間にもなかった。景子は居間のソファーにすわって吐息をついた。哲也の父の名が出たことが、景子の不安を大きくした。ちらりと耳にしたデマという言葉も、景子をおびえさせた。もしかしたら、前回の選挙のときのように、悪辣なデマでも流して相手候補を敗北させようとしているのかもしれない。
高橋校長は景子の尊敬する恩師でもある。その師に陰謀をたくらむらしい父たちの動きが恐ろしかった。前回の選挙のとき、相手候補に横領未遂の過去があるという風評が流された。そしてそれがそのまま票につながった。その候補は間もなく大阪に去って行ったが、それが横領事件を裏書きしているように人々は思った。だが、そのデマの出所が父の支援者たちであることを、まだ中学生だった景子は知ったのだった。
(汚いわ。汚すぎるわ)
高橋校長の息子や娘はまだ若い。景子は知り合いではなかったが、その前途ある若者たちを、デマで傷つけようとする父たちの策謀が恐ろしかった。
景子はふらふらと二階にあがって行った。と、景子はギョッとした。踊り場からまっすぐに広い廊下があり、その突き当たりに丸いバルコニーがあった。そのバルコニーから、いま母と後援会の幹事の一人が、絡まるようにして出てきたのだった。景子はとっさに、自分の部屋にとびこんだ。