“はじめの一歩”とは?
三浦綾子の作品を〝書き出し〟でご紹介する読み物です。
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三浦綾子記念文学館 館長 田中綾
小説『片隅のいのち』について
週刊朝日1973年8月
現行 … 『雨はあした晴れるだろう』三浦綾子記念文学館復刊シリーズ
知的障害を持つ波夫は、母が早くに亡くなり、父に育てられたが、その父も死んで孤独になった。父が長年勤めた食品会社の社長が波夫を引 き取ってくれて、そこで働いているが、笑いものにされる。唯一の理解者だった炊事婦も去ってしまい……。
『片隅のいのち』
「のろ! このばか者! 何だこれは!」
販売主任の中原の、噛みつくような怒声が飛んだ。が、波夫は、いつものように「はあい」とゆっくり答えた。
波夫は十七歳だが、体格だけは二十代の若者に見える。
加川食料品卸問屋には、三十名程の店員がいるが、誰もが波夫を「のろ」と呼ぶ。知能指数の低い波夫を、「うすのろ」を略して「のろ」と呼ぶのだ。
波夫は確かに魯鈍だが、穏やかな性格で、力が人一倍強い。どんな高い所にでも平気で登る特技がある。危険を感じないのか、集合煙突の掃除もすれば、倉庫の屋根の雪おろしも、いやがらない。力があるから、荷物の積みおろしにも重宝な存在だ。
一度命じられると、止めよといわれるまで、忠実にやる。今も、波夫は、主任の命令で黙々とトラックに積み荷していたのだ。主任の中沼は、牛缶やアスパラの缶詰の入った、重いダンボールの箱を積むように指示して、自分は昼食をとりに、店員二、三人と近くの食堂に行っていた。
昼食を終えた中沼が、食堂の隣のパチンコ屋でパチンコをし、帰って来て驚いた。波夫は、命じておいたダンボールを積み終わると、更に、傍らにあった他に配送するマヨネーズや砂糖の箱までも、高々とトラックに積み上げているのだ。波夫は、肩で大きく息をしながら、中沼をみて、ニコニコと笑った。
「これだから、ばかは困る!」
中沼は波夫に、すぐに荷物をおろせと荒々しく命じた。
「はあい」
彼はいわれるままに、折角積んだ重いダンボールをおろしはじめた。主任の中沼と、他の店員たちは、タバコをふかしながら、その波夫を黙って眺めていた。
波夫は十箱程おろして、よろよろとよろけた。
「どうした? のろ!」
中沼がどなった。
「腹すいたあ」
波夫は倉庫のコンクリートの床にぺたりと坐って、中沼たちを見上げた。そこではじめて、波夫がまだ食事をとらずにいたことを、中沼は気づいた。
波夫が、五年前に死んだ経理係木原の息子だということは、誰もが知っていた。木原は、加川食品創業の時から三十年にわたって勤めた実直な男だった。子供のなかった木原が四十に手が届いて生まれたのが波夫だった。結婚し十五年目に男の子が生まれたというので、木原は大変な喜びようだったが、その妻は産後が悪くて死んだ。
そして、波夫が魯鈍であることも、生後三年にして確実となった。木原はこの知恵おくれの子供を不憫がり、後妻ももらわずに育てたが、五十二歳の時脳卒中で死んだ。
社長の加川が、波夫を引きとり、店の屋根裏に住まわせ、一昨年から雑役に使っていた。
木原の在世中、遊び好きの中沼は度々木原から金を借りていた。借りては返し、返しては借りていたが、死んだ時二十万程の借金があった。人のよい木原は、借用証もとらずに貸していたから、中沼は何くわぬ顔でそのまま通した。が、そんなひけめが、波夫に対する中沼の気持ちをかえって邪慳にした。
社長の加川は、はじめ波夫に五千円の小遣いをやった。
「豚に真珠、いや猫に小判だ。どっちみち金など持たせても、使い方もわからんだろう」
店員たちは口々にいった。
三度の食事は、加川の台所でとったし、無論酒もタバコも飲まない波夫だったが、マンジュウや餅の好きな波夫には、五千円は足りなかった。
炊事婦の山野津也子は、五十過ぎの気の強い女で、未亡人だった。社長の加川にも、その妻にも遠慮なくものをいった。利かん気だが、涙もろく、料理が上手で、どんな仕事も手早かった。加川夫妻は津也子を気に入っていた。だから津也子が、
「旦那さん、いくら波夫ちゃんだって、五千円じゃかわいそうですよ。ちゃんとまじめに働いているんだし、影で怠けている連中より、余程価がありますよ」
と抗議した時、加川はあっさりうなずいた。
「そうか、それもそうだな。じゃ、一万円ふやして、一万五千円やろうか」
加川にしても、よく勤めてくれた木原のことを思うと、その一人息子である波夫に、そのぐらいのことをしてもいいと思った。今まで加川は、商売に忙しく、その妻も謡曲や仕舞の稽古に忙しく、波夫のことはほとんど念頭になかった。
店員たちは、波夫を「のろ」と呼んだが、さすがに加川夫妻はそうは呼ばなかったし、あらわにばかにすることはなかった。が、無関心であった。
一人、炊事を受け持つ津也子が、波夫に何くれとなく心を使い、影に日向にかばってくれた。三度の食事はもとより、肌着もこまめに洗ってくれたり、洗い方を教えてくれたりもした。
朝昼晩、波夫は大てい台所で、津也子と共に飯を食べた。
「波夫ちゃん、人間、頭より心が大事だよ。波夫ちゃんのようなきれいな心が、この世の宝だよ」
時々、津也子はそういって聞かせる。
「おれ、きれいな心? おばさんは心が見えるの?」
その度に、波夫はふしぎそうな顔をする。
「ああ、おばさんには何でも見えるよ。波夫ちゃんはね、何の欲もなし、陰日向もなし、人を恨んだこともない」
津也子はその太い指を折りながら数え上げる。母親を知らない波夫には、津也子は実の母のような存在だった。波夫は津也子を「山野のおばさん」「山野のおばさん」といって慕った。
が、不幸なことに、波夫にとって最も慕わしい津也子が、ある日急性リウマチで突如倒れた。
「山野のおばさん、痛いか」
波夫は津也子の部屋を朝夕見舞った。しかし津也子は、やがて息子夫婦のもとに引きとられて行ってしまった。
波夫は津也子の車が出て行くのを見て、地団駄踏んで泣いた。頑是ない子供のように、ワアワア声を上げて泣く波夫の姿は、体が大きいだけに、憐れでもあり、滑稽でもあった。
津也子の後に来たより子は、まだ二十四、五の、若い娘だったが、津也子のようにきびきびと立ち働くこともせず、洗濯の途中でテレビを見たり、タバコを喫ったりする怠惰な女だった。今まで黒光りしていた台所の床板はたちまちうす汚れた。料理も下手で、塩からい煮つけや、こげついた魚を加川家の人々は食べさせられることになった。
より子は波夫を、ほかの男たちと同様に、「のろ」とか「のろちゃん」と呼び、猫でも扱うように、残り物をどんぶりにさらけて食べさせた。力仕事をする波夫は、たくあんのしっぽや、人の食べ残したおかずののったどんぶり飯を、文句もいわずに、汚い台所の床にすわって食べた。
客の来る事務所や店には、波夫は出してもらえない。いつも波夫は倉庫で働いている。倉庫に行くと、店員たちが待っていたとばかりに仕事を押しつける。ひまな時には、みんなで波夫をおもちゃにする。
「おい、のろ! お前男だろ? 男はタバコぐらいのめなきゃ、女にもてないぞ」
波夫の口に無理矢理タバコをくわえさせ、
「さ、すうんだ。うんとすうと、体がふわふわとなって、いい気持ちだぞ」
喫いこんだ波夫が、煙にむせて苦しがったり、めまいしてふらふらと倒れるのを見て、みんなが腹をかかえて笑う。酒の飲めない波夫に、無理矢理酒を飲ませてからかうこともあった。
酒やタバコだけではなかった。
ある夏の夜、中沼は波夫を連れて、女の部屋に行った。そこがどんなところか、波夫は知らない。
「あら、この坊やなの。意外といい体をしてるじゃないの」
シュミーズ一枚の女がニヤニヤと笑った。盛り上がるような太ももが、つやつやと光っている。
「体格だけはな。しかし……」
中沼は意味ありげに笑って、
「のろ。このおねえさん、いい女だろ」
波夫はまじめな顔で、じっと女をみつめていたが、
「山野のおばさん、いい女だ」
といった。
「だれ? 山野のおばさんって」
女は横ずわりのまま、タバコを波夫に吹きかけた。
「なに、この前までいた店の飯たきばあさんだ」
「まあ、ばあさんがいい女?」
「タドンのような目の、口やかましい女でね」
「いやーね」
「だからさ、いっただろ? のろは、女には感じないんだ」
「本当かしら、こんないい体をして」
女は疑わしそうに波夫を見た。
波夫は、女の部屋のタンスの上にある小さな博多人形を、珍しげに眺めていた。木株に坐って横笛を吹いている童の人形である。
「のろ! この部屋ではな、みんなズボンを脱ぐんだ」
いわれて波夫は、何のためらいもなくズボンを脱いだ。パンツ一つのほうが、波夫も涼しく楽だった。
「パンツも脱ぐんだ」
中沼もズボンを脱ぎながらいった。
「わるねえ、あんたは」
「しかし、君、本当かどうか知りたいといったじゃないか」
波夫は、倉庫で荷物をかつげと命令された時のように、パンツを脱げという命令にも、素直に従った。中沼は波夫の前で女を抱いた。波夫はふしぎそうに二人の動きをみていたが、やがて、
「あーあ」
と大きなあくびを一つした。そして横になったかと思うと、下半身をあらわにしたまま、幼子のようにすやすやと、寝息を立てはじめた。
その日の昼も、波夫は台所で、より子から朝食の残りをあてがわれていた。これが波夫の、この世の最後の食事であろうとは、より子も知り得ぬことであった。冷たいみそ汁をかけたどんぶりの飯を、音を立ててぺろりと平らげる波夫を、より子はうっとうしげに見、
「のろ。あんた何のために生きてるの。あんたなんかに、嫁さんの来手もないのにさ」
と、ずけずけといった。波夫は首をかしげて、
「何のために生きてるのかな」
と、ゆっくり答える。
「何だって、そんなにゆっくり答えるの。いらいらしてくるよ」
波夫はどんぶりをそっと出して、
「ごはん、ちょうだい」
「あら、まだ食べるつもり? 一杯きりよ。もう、ごはんなんかないわよ」
「もう、ごはんないの?」
波夫はちょっと淋しそうに笑い、
「腹へったあ」
「腹がすいたら、餅でもパンでも、買ってきて食べたらいいじゃないの。のろは社長からたくさんお金をもらってるんじゃないの」
「うん、もらってる」
波夫はのろのろと立ち上がって、近所の店に餅を買いに行った。
買って来た餅を、うす暗い倉庫の隅の荷の陰で食べていると、中沼がパチンコで取ったタバコをのみながら、四、五人の店員と入って来た。
「おい、のろ、何をしてる? 積み荷だぞ!」
「はあい」
答えようとした途端、波夫はのどもとをおさえた。食べかけの餅がのどにつまったのだ。が、すでに誰もが自分の仕事に取りかかっていた。伝票と荷物の数を照合する者、得意先に電話をかける者、それぞれの仕事の中で、倉庫の片隅の波夫の様子に不審を抱く余裕のあるものはなかった。
波夫は一人、声もなく胸をかきむしって、倉庫の床にのたうっていた。