“はじめの一歩”とは?
三浦綾子の作品を〝書き出し〟でご紹介する読み物です。
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三浦綾子記念文学館 館長 田中綾
小説『カッコウの鳴く丘』について
女学生の友1966年7月
現行 … 『雨はあした晴れるだろう』三浦綾子記念文学館復刊シリーズ
主人公は、貧しい家の娘・順子、中学三年生。順子はある日、級友の真寿子から財布を盗んだと疑われる。真寿子の仲間の安枝、周子との三人から問い詰められるが、居合わせた同じクラスの哲夫が順子をかばい、真寿子らを諭す。真寿子らにとって憧れの存在である哲夫からたしなめられたことで、彼女らは戸惑い反発し、そして結末は思わぬ方向へ。
『カッコウの鳴く丘』
六月の丘からみおろす旭川の町は、紫にけむって静かだった。人口二十五万の町というのに、人ひとり住んでいないような、そんな静けさである。
順子は、のぼりつめた丘に立って、ぼんやりと町をながめていた。いや、目は町に向いているだけで、何も見ていないといったほうがよかった。
「わたしじゃないわ。わたしは人の物を盗んだりするほど、心まで貧しくなってはいないわ」
級友の真寿子が、きょうのひる休みに、さいふがなくなったとさわぎ始めたのである。
「変ねえ」
真寿子と仲よしの安枝がそういって、じろりと順子のほうをふりかえった。
「いくらはいっていたの?」
周子が真寿子にたずねた。
「三千円と、あとは小銭だけど、四百円くらいかしら……」
「まあ、三千四百円も」
安枝は大げさにおどろいてから、ふたたび順子のほうをふりかえった。
「金額なんかよりも、なくなるって気分がいやだわ」
真寿子はふきげんな声でいった。
「へんねえ。このごろ、ときどき物がなくなるわね」
安枝がそういって、あごをしゃくるように順子のほうをみた。
「二年の時は、こんなことはなかったわ」
「クラスが編成変えになってからよ」
「ああ、いやになってしまう」
真寿子と安枝と周子は口々にそういっては、順子のほうをみた。三人は仲よしグループだ。仲よしのしるしに、そろいのバッジを胸につけ、同じグリーンの小さな手帳を胸のポケットに入れている。
三人ともクラスの中で、もっともはで好きでおしゃれだった。そろって髪を長くあみ、水色のリボンをつけて、左の肩から前にたらしている。
「ねえ、あの立野くんの歩き方!」
とくすくす笑いながら、足の悪い立野芳夫のまねをしたり、
「わたしね、ぶた肉って大きらい」
などと、ふとっている只木雪子のうしろから、きこえよがしにいうことくらい、この三人組にとっては、朝めし前のことなのだ。
ある時、順子が首にはれ物ができて、ほうたいを巻いて学校に行った。すると三人組はただちに友だちにこういった。
「あの人のほうたいはダテなのよ。あんなものを巻いて、男の子の目を引こうとするのよ。」
三人組は毎日のように、クラスの中に話題を提供した。たとえなんの気なしに石を投げ入れても、池の中のかえるに当たれば、それはかえるたちにとって、生き死にの問題だと、かえるが抗議したたとえ話があるが、池に石を投げ入れるいたずらっこのような、むじゃきなものではなかった。
三人組は、毒をそそぐように、人の悪口や悪意のあるうわさ話をクラスの中にばらまいた。そんな真寿子たちを級友はきらいながら、しかし面とむかって、その態度を指摘する者もいなかった。それどころか、真寿子たちのたてるうわさを本気にして、わざわざいいふらす者もたくさんいた。
どこの組にもひとりやふたり、ふしぎに真寿子たちのような生徒がいるものらしい。特に真寿子たちは順子をきらった。その第一の理由は、順子が貧しい家の娘だったからである。
順子の家は、家というより、つぶれかかった小屋のようであった。父が長いこと病気でねていて、母もまた弱かった。生活保護を受けて、順子と順子の弟と四人が、生活しているのだ。貧しさは順子一家の罪ではない。
〝すずめさん〟
と、三人組は順子をよんだ。いつも一枚の同じ服を着たきりすずめだというのである。
順子はとりたてて美しくはなかったが、深く澄んだ大きな目は、人目をひいた。それは級友のだれよりも、深い悲しみを知っているからかもしれなかった。
いままでも、二、三度クラスの中で紛失事件があった。そのたびに三人組の視線は順子にそそがれた。しかしきょうのようにろこつにじろじろみつめられると、順子は腹がたつよりも悲しかった。
(たしかにわたしの家は貧乏だわ。でも貧しい家の人間が、必ずしもお金にきたないとはかぎらないわ)
新聞で何百万円という汚職をしているのは、むしろお金のある人たちではないか、と順子は思った。丘の上には、さっきからカッコウが鳴いていたが、いまの順子の耳にははいらなかった。
「あら、こんなところで何をしていたの」
うしろで三人組の周子の声がした。ふり返ると、安枝と周子が真寿子をまん中にして立っている。そろいの星形のバッジが胸に、光っている。
「町をながめていたのよ」
順子の声は沈んでいた。
「へえ、あんた、あんがいロマンチックなのね。わたしはまた……」
いいさして周子はチラッと赤い舌をみせた。
「なあに?」
「いや、なんでもないの」
周子はずるそうに笑った。
「あなた、ほんとうに町をながめていただけなの」
いままで、つきさすように順子をみつめていた真寿子が、口をひらいた。
「そうよ。なぜそんなことをいうの」
順子は、この三人が自分のあとをつけてきたように思って、不快だった。
「わたしのおさいふがなくなったこと、知っているでしょう」
真寿子は半分問いつめる口調である。
「ええ、知っているわ」
「あなた、もしかしたら」
そういって真寿子は周子と安枝にうなずいてみせた。順子はがまんがならなかった。
「もしかしたら、わたしが盗んだんじゃないかといいたいのね」
「そういうわけじゃないけれど……」
さすがに真寿子は断言することはできなかった。
「そういうわけさ」
ふいにうしろの草むらで声がした。驚いてふり返った四人の前に、今泉哲夫が立っていた。
「あら、今泉さん」
周子がまっ先に声をあげ、真寿子も安枝もほおを赤らめた。
同じクラスの哲夫は学校きっての秀才である。しかし背が高くて、浅黒く引きしまったその目鼻だちは、秀才というより、スポーツマンのような感じを与えた。テニスも水泳もうまい。特にスキーは選手だった。回転のフォームは、女生徒ばかりか男生徒も声を上げて応援するほど、巧みで美しかった。そのうえ、哲夫はさっぱりとした気性で親切でもあった。
真寿子たち三人組は、とりわけ熱心な哲夫のファンである。哲夫の前に出ると、三人組は頭が上がらない。先日三人連名で、哲夫にデートを申しこむ手紙を書いた。だが、翌日の放課後、
「先約があるんだ。悪いけど」
と、あっさり哲夫にいなされてしまった。
「先約って、どなたなの」
周子が思いきってたずねた。
「おふくろさ」
哲夫はそういって、さっさと帰ってしまった。
「ほんとうかしら、おかあさんとデートするなんて」
「うそじゃないと思うわ。あの人うそつきには思えないもの」
「そうねえ」
三人は哲夫のことになると、得意の悪口のほこ先もにぶった。そして、内心、自分たちは哲夫にきらわれているのではないか、という不安をめいめい感じてもいた。
いま、白いランニングシャツを着た哲夫が、日に焼けたふとい腕を組んで、真寿子たちをじっとみつめていた。常日ごろは女王のようにごう慢な真寿子も、哲夫にみつめられると、うつむいてしまった。
(わるいところをみつかったわ)
哲夫には、やさしい少女にみられたかった。自分を反省することを知らないような真寿子にも、そんなしおらしさはあったのである。
(どうしよう。なんといいつくろったらいいのだろう)
真寿子はうつむいたまま、かるくくちびるをかんだ。
カッコウがまた近くの木の上で鳴いた。
「順子さん。きみがこの人のさいふをとったのだと、この人たちはいっているんだね。」
順子をみる哲夫の目がやさしかった。
「いいえ、そこまではおっしゃらないわ」
順子は思わず三人組をかばうようにことばをにごした。順子のことばに、哲夫はふっと驚きに似た表情を浮かべた。
「いや、ぼくは聞いていたんだ。ひるねをしようと思って、この草の中でねころんでいたら、この三人組が、順子さんに妙ないいがかりをつけてきたじゃないか」
哲夫はそういうと、草の上にどっかと腰をおろした。