『長いトンネル』( 三浦綾子小説作品 はじめの一歩 )

“はじめの一歩”とは?

三浦綾子の作品を〝書き出し〟でご紹介する読み物です。
気に入りましたら、ぜひ続きを手に入れてお読みください。出版社の紹介ページへのリンクを掲載していますので、そちらからご購入になれます。紙の本でも、電子書籍でも、お好きなスタイルでお楽しみくださいませ。物語との素敵な出会いがありますように。

三浦綾子記念文学館 館長 田中綾

小説『長いトンネル』について

小学4年生1977年4月〜9月
現行 … 『雨はあした晴れるだろう』三浦綾子記念文学館復刊シリーズ
のり子と啓一は従兄妹で同じ学校に通う小学4年生。のり子の父は借金がかさんで妻に逃げられてしまう。母がいなくなったのり子は悲しさと寂しさをこらえながら懸命に生きるが、ある日、啓一をも巻き込む、大きな事件が起こってしまう。

『第一回』

     一

 日曜日の午後──。
 晴れわたった四月の空に、白い雲がひとつぽっかりとうかんでいる。その空の下を、のり子は、父の木野村安蔵と歩いていく。新しい家の立ちならぶ旭川市の郊外である。
 のり子のまっくろなかみを、そよ風がなでる。古ぼけた赤い服のせなかがあたたかい。
 安造は小さな鉄工所を経営しているが、しょうばいがうまくいかない。だから、のり子は服が古ぼけて、短くなっても、新しい洋服を買ってもらうことはできなかった。
 のり子はいま、かなしかった。服が短くて、古ぼけているからではない。かなしいのは、父と母のなかがわるいことだ。父と母は毎日のようにけんかをする。
 さっきも、二人はけんかをした。
 あなた、もうこんな生活は、がまんできないわ。借金しゃっきんで、借金をかえすために生きてるみたいじゃないの。
 母はなみだ声になっていった。父は、
「おれだって、すきでびんぼうしているわけじゃないっ!」
と、どなった。
 そのあと、父はせなかをまるめて、しょんぼりと何か考えていたが、
「ちょっと、竹原んちへいってくる」
と、のり子をつれて出てきたのだ。
 父は菓子屋で、ケーキをみやげに買った。竹原の家は、父のいもうとのとつぎ先で、のり子と同じクラスの啓一のいる家だ。だから、のり子と啓一は、いとこになる。
 ポストの立っている角を曲ると、五十メートルほど向こうに、竹原の家がみえた。赤い屋根、二階のベランダ、ブロックのへい、庭の大きなまつの木。どれも、のり子の家にはないものばかりだ。このあたりで、一番りっぱな家だ。家の向こうに、白い雪をかぶった大雪山が美しい。
 のり子は父より先にかけだした。のり子と啓一はなかよしだ。啓一のことを思うと、のり子のかなしみがうすれた。
「おばさあん」
 げんかんのドアをあけると、のり子は呼んだ。すんだいい声だ。チャイムが鳴って、おばが出てきた。うすむらさきのブラウスに、黒いスカートがよく似合った。
「ああら、のり子ちゃん。よくきたわね。おあがりなさい」
 おばは、愛そうのよい笑顔をみせ、二階に向かってさけんだ。
「啓一、のり子ちゃんよう」
 啓一は、のり子が門を入ってくるのを、二階からみていた。ほんとうは、母に呼ばれる前に、げんかんにむかえに出るつもりだった。だが啓一はやめた。なんとなく、はずかしかったからだ。
 啓一はのり子がすきだ。ぱっちりとした、かしこそうな目や、愛らしい口もとがすきだ。はきはきしていて、だれにでも親切なところも、勉強のよくできるところもすきだ。すきだからこそ、あんまりうれしそうにとび出していくのが、はずかしかったのだ。
 母に呼ばれて、わざとゆっくりと階段をおりていくと、おじの木野村安造がドアをあけて入ってきたところだった。
「こんにちは、おじさん。」
 啓一は、安造おじの持っている菓子ばこをみて、
(ケーキだな)
と、にやりとした。
 啓一の母は、安造をみて、かすかにまゆをしかめた。
(おかあさんったら、またまゆをしかめて!)
 啓一はちょっと口をとがらせた。ふた月ほど前に、おじの安造がたずねてきた時も、たしかに母がまゆをしかめたのを、おぼえている。
(おじさんがきらいなのかな。自分のおにいさんなのに)
 みんなは明るく広い居間に入った。安造は菓子ばこをさし出して、
「そら、啓ぼうのすきなケーキだぞ。ところで清ぼうはどうした」
と、きげんよくいった。清は啓一のおとうとで、一年生だ。
「清はへんとうせんで、ねてるよ。」
「へんとうせん? それはこまったな。あいかわらず弱いんだなあ。」
 安造おじがいったが、啓一の母は、だまって、もらったケーキを菓子ざらに配っていた。その横顔がなんとなく不きげんにみえる。啓一はおじにものり子にも気の毒な気がした。
(いやだな。おかあさんったら。いつものやさしいおかあさんみたいでないや。)
 啓一は心の中でつぶやいた。
 だが、安造は気にとめるふうもなく、黒い皮ばりのソファーにすわって、にこにことタバコに火をつけた。
 のり子は何となく気がねらしく、こう茶をいれている啓一の母をみている。
(やっぱり、のり子ちゃんだって、気になるさ)
 せっかく遊びにきたのに、と思うと、啓一はすこしはら立たしかった。
 と、その時、げんかんでふたたびチャイムがなった。啓一が出ていくと、ゆうびん配達のわかい男が立っていた。
「書留です。はんをください」
 啓一は、居間にもどって、
「おかあさん、はんだと。ゆうびん屋さんだよ」
「いつものところから、はんを持っていって」
 啓一は、母の部屋の鏡台のひき出しから、はんを持っていき、現金書留のふうとうを受けとると、母のところに持っていった。母は、差し出し人の名前をみると、
「あら」
といって、にこっとわらった。だが、啓一の持っているはんをみると、
「あらいやね、啓一。それは実印よ。ゆうびんを受けとる時は、みとめ印を使わなくちゃだめよ」
「うん、わかった」
 しかられた啓一は、首をすくめてのり子のほうをみた。のり子は安造おじとならんでケーキを食べている。
 のり子が安造にいった。
「おとうさん、じついんって、なあに?」
「実印か。うん。命の次にだいじなもんだ。うっかり他人にわたすと、財産までとられることがあるからな」
「ふうん、ずいぶんだいじなものなのね」
 のり子が、ケーキをフォークで二つにわりながらいった。啓一も、はじめて実印がだいじなものであることを知った。だが、どうして実印が他人の手に渡ったら、財産までなくなるのか、そのかんけいがよくわからない。
 啓一が実印をもとのところにおきにいこうと思った時、おじがいった。
「どれ、啓ぼう、そのはんこをおじさんにみせてみろ。印相をみてやるから」
 啓一は、何げなく実印を安造に渡しながら、
「印相って、なあに?」
と、たずねた。安造は実印をしげしげとみながらいった。
「啓ぼう、おまえ、手相って知ってるだろ」
「うん、知ってる。手の線をみて、長生きするとか、出世するって、うらなうんでしょう」
「そうだ。印相ってのはね、はんの相でね、はんをみると、その家の運命がわかるそうだ」
 するとのり子が、むじゃきにいった。
「ああら、そんならおとうさん、うちの印相もちゃんとみた? よっぽどうちの印相はわるいのね。運のよくなるはんに、かえたらいいのに……」
 啓一は思わずわらった。のり子のいうとおりだと思った。印相をみることができるのなら、注文する時によいはんを買えばよかったのだ。いままで笑顔をみせなかった母もわらって、
「ほんとにのり子ちゃんのいうとおりだわ。おにいさん。はんこひとつで商売がはんじょうするなら、だれも苦労はしないわよ」
 母の笑顔をみて、啓一はほっとした。のり子も安心したようだった。が、安造は聞こえないような声で、じっとはんをみつめていたが、
「ううん、なるほど。澄代、このはんなら申し分がないよ。お前んところは金まわりのいいのもむりないな。ますます発展するいっぽうだ。何しろ、三十八や九で、竹原はこんなりっぱな家をたてたんだからな」
と、あらためて部屋の中をみわたした。
 この家は去年の秋にたてたばかりで、まだ新しい。部屋は、下に五つ、二階に四つあって、このあたりでも大きな家のほうだ。
「でもね、おにいさん。それは何もはんのせいじゃないのよ。竹原が朝からばんまで、働きづめに働いてたてたのよ。……おにいさんのように、かけごとなんかもしないで……」
 いいかけて、啓一の母の澄代は、口をとじた。啓一はおじの持っている実印をもとの場所においてきて、
「のりちゃん、二階にいこう」
とさそった。

     二

 日がくれてから、のり子と安造は、両手にたくさんのおみやげをもらい、ハイヤーに乗せてもらって帰ってきた。
(やっぱり、おばさんって、いい人だわ)
 ハイヤーのまどから、家々のあかりをみながらのり子は思った。楽しい半日だった。
 のり子と啓一は、啓一の部屋で夕方まで遊んだ。まず、漢字の書きくらべをした。さんずいの字をいくつ書けるか、きへんの字をいくつ書けるか、にんべんの字をいくつ書けるか、二人はむちゅうになって競争した。二人とも、クラスでトップを争っている。
 だが、なんといっても、啓一は本をたくさん持っている。児童文学全集や、世界の童話、そして民話の全集もずらりと本だなにならんでいる。どうしても、のり子よりも字を覚えている。二人はだから、会うと必ずこの漢字書きくらべをする。
 きょうは、のり子もうかんむりの字やてへんの字では啓一に勝った。そのあと二人で、クイズをしたり、トランプをしたり、五目ならべをしたりした。歌もうたった。
「四季のうた」も「北の宿」も、学校で習った歌も、童ようもうたった。
 それから夕食をごちそうになった。のり子のすきなカレーライスだった。みつ豆や、シュークリームも食べた。おふろにまで入れてもらった。おみやげには、クッキーやチョコレートや、のりやかんづめや、父の安造のせびろまであった。
 のり子の父は、啓一の父とからだの大きさが同じくらいなので、時々、そのお古をもらうのだ。お古といっても、まだまだ新しい。
 夕方帰ってきた啓一の父も、ビールをつぎながら、
「とにかく働くことですよ、おにいさん。かせぐに追いつくびんぼうなしってね」
と、いくども、のり子の父をはげましてくれた。
 のり子は幸せだった。童話で読んだシンデレラの話が思い出されるほど楽しかった。
 だが、家に帰ると、母はおみやげのふろしき包みをほどきながらいった。
「またこんなお古でごまかされて。お金を借りることはできなかったの」
と、ひるのけんかの時のようになみだ声になった。
 のり子は急に、さむざむとした気持ちになった。いままでの楽しかった思いが、ぺしゃんこになったような気がした。
(どうして、おかあさんはおとうさんに、もんくばかりいうんだろう)
 だまって、あごのひげをひっぱっている父をみていると、のり子はたまらなくなって、自分の部屋に入って、ふとんをしいた。
 ふとんをしくと、のり子は明日の学校の用意をした。かなしい時や、さびしい時は、教科書やノートをひらくのだ。なぜなら、のり子は学校がすきだからだ。勉強がすきだからだ。先生がすきだからだ。
 少し国語の本を読んでから、のり子はふとんの中に入った。ふとんがひんやりとからだにつめたかった。のり子はまた、啓一と楽しく遊んだきょうのことを思い出そうとした。だが、ひと部屋おいた向こうの茶の間から、時どき父の大きなどなり声が聞こえてきて、おちつかなかった。
 そのうちに、のり子はいつしかねむってしまった。父と母がなかよくなればいいと、ねがいながらねむってしまった。
 どのくらいねむったころだろう。のり子はだれかに自分の名前を呼ばれているような気がした。のり子は目をあけようとしたが、ねむくてしかたがなかった。たしかにだれかが呼んでいるようなのに、なんとしても目があかないのだ。まっくらな、深いねむりの中にのり子はまたひきこまれてしまった。
 次の日の朝、七時ごろ、のり子は目をさました。家の中がひっそりとしている。父のいびきが、となりの部屋から聞こえる。いつもなら母はもう起きているはずなのに、ことりとも音がしない。
 のり子は耳をすました。野菜をきざむまな板の音か、水を出す水道の音でも聞こえないかと思った。が、家の中はひっそりとしている。すずめがまどの外でさえずっているだけだ。
(いやだわ、おかあさんったら。ねぼうしたら、学校がおそくなるのに)
 のり子は、ふとんの上に起きあがった。
 と、その時、まくらもとに、ふうとうがあるのに気づいた。
(何かしら)
 ねまきすがたのまま、のり子は、ふうとうを手にとった。
「のりちゃんへ、
          おかあさんより」
 と、ボールペンで書いてある。のり子は、はっとして中の手紙をとり出した。
「のりちゃん、ごめんね。おかあさんはもうくたびれました。おとうさんは、仕事にせいを出さず、かけごとばかりして、たくさんの借金をつくりました。いくらおかあさんがたのんでも、本ごしを入れて働く気にはなってくれません。そのうち、必ずのりちゃんをむかえに来ます。それまで、のりちゃんもがんばっていてくださいね。かぜをひかないように」
 かぜをひかないように、という字が、なみだでにじんでいた。
 のり子は手紙を持ったまま、
「おとうさん、大変だよ!」
 と、部屋をとび出した。

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