【案内人ブログ】No.43 『非国民文学論』を読む 記・三浦隆一

事務局ブログ

刺激的で魅力的なタイトルだ。このタイトルを目にして何かのためらいを感じる人がいるとすれば、そう感じた人の勘は正しい。本書は、文学館館長の田中綾が大学に職を得るきかっけとなった博士論文が大部分であるので、決して読み通すのは生易しくはない。
正直に言おう。私は小説を読むのは好きでも、詩歌、特に短歌に対してこれまで余り親しんできたとは言えない。本書の特に前半は北條民雄や明石海人の短歌を中心として書かれているので、短歌の専門家とも言える著者の立論についていくのは並大抵ではなかった。しかし、後半に入ってくると、金子光晴の詩を中心として書かれているので、戦時中の第一級の抵抗詩人となる金子の世界に触れられるのは嬉しかった。
それにしても、田中綾という人は、自分で言っているとおり、不思議な聴覚の持ち主なのである。何しろ、本の方から「書いて」と呼びかけてくると言うのだから。戦時下の短歌史、言論統制、労働問題が主な関心領域である氏は、詩歌を選ぶ際に、その独特な嗅覚によって探り当てる。
特に明石海人の二・二六事件歌と金子光晴の「富士」という詩については胸を打たれるものがあった。金子は鋭い批評精神の持ち主でもあり、世界の動乱の中で、自我は守り通されたのだ。
田中綾の主著に『書棚から歌を』がある。古くは万葉の時代から現代まで珠玉の作品を紹介した本で、現在も北海道新聞で連載が続いている。その中で衝撃を受け忘れることができない次の歌がある。

親不孝通りと言へど親もなく親にもなれずただ立ち尽くす 公田耕一

「公田」は「クデン」と読むらしいが、この歌は三山喬著『ホームレス歌人のいた冬』の中に収められているらしい。50代でフリーの身分である三山は公田の歌に自身の明日を重ねざるを得なかった、とサラリと書くが、別のところでは次のようなことも書いている。M・ドルガス=リョサの定義によれば、「文学」とは「世界がうまくできてはいないこと」を教えてくれるものだ、と。そのような作品のひとつに金子文子の『何が私をこうさせたか―獄中手記』がある。この本は岩波文庫に入っており、いつでも読めるようになったのでおすすめする。

『非国民文学論』の終わりに田中綾は金子文子を登場させ、このように書く。

一九二六(大正十五年)七月二十三日、宇都宮刑務所栃木支所内で金子文子は縊死した―そう報道されている。だが、死亡時刻も死亡手段も、実のところ明確ではないという。
けれども、若い金子文子は、〈保護〉の名のもとに何人もの身体を拘束し、〈恩赦〉の一言で刑死から緩慢な生へと覆す国家に対し、凛と顔を上げて抗った。

『非国民文学論』第2部第2章「仕遂げて死なむ―金子文子と石川啄木」

ここで現代に生きる我々としては、香港の雨傘運動の指導者で、現在は収監されている周庭氏を思い出す。
香港に忍び寄る民主主義の危機は、日本の危機でもあるのだから、できるだけの支援が求められる。金子文子のようにしない為にも。
『非国民文学論』は難解かもしれないが、田中綾や文学館の今後にも期待を抱かせる何かがこの書にはある。事務局長が、終戦75年企画展「アノ日、空ノ下デ君ハ何を想フ」で「戦争を起こさないための200冊」のブックリストの一冊にこの書を選んだのは、分かる気がする。戦争を語るのにこの時代の徴兵忌避者に注目するなど、こんな本があったか、と思うからだ。

三浦綾子さんがそうであったように、田中綾も立場の弱い者、虐げられた者に対するまなざしは常に暖かい。表現方法は違っても、これが本書の持つ最大の特徴であろう。

by 三浦文学案内人 三浦隆一

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