【年末年始読み物企画】検証:『氷点』=「笑点」? (2)綾子のお気に入り「桂歌丸師匠」

学芸ブログ

1963(昭和38)年1月1日

 そもそも、綾子はなぜ『氷点』を書いたのでしょうか。

 自伝『この土の器をも』によると、1963(昭和38)年1月1日の夜、綾子は光世とともに両親の家を訪問したことがことの発端でした。両親は綾子の療養のために家も土地もみな売り払い、五軒長屋のような、小さなアパートに移り住んで、末弟夫婦と同居していました。

 秀夫が何を思って綾子に社告を見せようとしたのかはわかりませんが、「わたしには無縁な話だと、思わず笑った」綾子はその晩、一人先ほどの社告を思い返します。

既成の作家も応募資格があるのだから、大変な応募数に上るだろう。わたしのような者に、新聞小説など書けるわけはないが、もし書くとしたら、どんな小説を書くだろう。(中略)
わたしはふと、療養中に遠縁の者が殺された事件を思い出した。
「もし、自分の肉親が殺されたら?」そう思ったとたん、わたしはこれだと思った。ここから一つの物語りが生れそうだった。(中略)もし、妻の不注意で子供が殺されるとしたら……そうだ! これを発端として物語りを展開してみよう。わたしは社告のことも何も忘れて、その夜長編小説の粗筋を作った。

三浦綾子『この土の器をも』二十七

 翌1月2日にはこの粗筋を光世に話し、執筆の許可を求め祈ってもらいます。執筆は9日から始まりました。このころの綾子は雑貨店を営んでおりましたから閉店後、夜22時から布団の中で書きはじめます。[1]今もそうですが、住居環境が今ほど良くない部屋では万年筆のインクも凍るような寒い日々が続きます。小説の舞台を外国樹種見本林(三浦綾子記念文学館分館がある場所)に設定し、1月19日には知人を訪ねた帰途、見本林を二人で訪れ、カラスの屍やスキーをする子供たちの姿を見て、テレビ関係者だと思われてにんまりしたことが『この土の器をも』(二十八)には記されています。

光世、応募原稿のタイトルを思いつく

 光世が出勤途中に四条八丁目のバス停で『氷点』というタイトルを思いついたことについては、『ごめんなさいといえる』(小学館)に併録された1963年1月22日の光世の日記にあります。[2]

朝、綾子の小説の題、発案。
「氷点」綾子曰く「スバラシイ題デス。さすがはあなたです。」

「三浦光世日記――『氷点』を世に産み出した五百五十日」(三浦綾子『ごめんなさいといえる』に併録)

『「氷点」を旅する』に収録された光世の随筆「小説「氷点」に思う」では、「今朝は、氷点下何度くらいかな…」とあたりを見回して「氷点下……うん、綾子の小説、氷点はどうか」と思ったことがきっかけであったとも記しています。『氷点』というタイトルは、綾子は気に入るものとなりました。[3]

 みなさんがご存じのとおり、その後『氷点』は綾子のデビュー作として人気を博します。『氷点』の舞台である外国樹種見本林に当館が建てられることになるとは、このころの二人には想像もつかなかったことでしょう。

「氷点」ブーム

 綾子が自伝『命ある限り』で回想しているように、「氷点」連載終了後からのちに「氷点」ブームと呼ばれる社会現象が起こります。小説『氷点』は、テレビドラマ化、映画化、新派による舞台化がなされ、いずれも大ヒット。特に陽子役を内藤洋子が演じたテレビドラマ版は最終回の視聴率が42%を超えました。その後『氷点』は複数回にわたりテレビドラマ化され、ヒロイン陽子役は新人女優の登竜門といわれるようにさえなりました。また、地元旭川では菓子「氷点」も売り出され、舞台となった外国樹種見本林は全国的に有名になりました。

綾子のお気に入り「桂歌丸師匠」

 綾子の『氷点』をもじったのが「笑点」だという説については幅広く知られていますが、綾子に番組出演のオファーがあったことや、「笑点」の熱心なファンであったことはこの説ほど流布していないように思われます。

 自伝『命ある限り』には、当時テレビがなかったため時折隣りの両親宅で「笑点」を楽しんでいたとあります。出演依頼があったのは記述から推測すると1967(昭和42)年ごろのようですが、綾子は「とてもできる話ではない」と出演を断ります。が、オファーそのものについて「光栄」だと思い、「あのような高級な番組に声をかけてもらえることなど、生涯にそうあることではない」と喜ばしい事柄として記憶しています。

 やがて、数年後、三浦も私にテレビを買ってくれた。いつしか私たちは「笑点」のかなり熱心なファンとなって見つづけてきた。日曜日の午後、人と面会をする時も、「笑点」の放送時間を避けるほどである。
 二、三年前、旭川市の隣り町東川に、「笑点」のレギュラー桂歌丸師匠と三遊亭小遊三師匠が来ると聞いて、三浦と二人で駆けつけた。いつもはテレビの画面で見るそのお顔を、私たちは舞台間近に仰ぎ見て、少年少女のように感激したのだった。[4]

三浦綾子『命ある限り』第七章「元婚約者にあって」

 桂歌丸と三遊亭小遊三見たさに駆け付けた時の喜びは、間もなく復刊される『難病日記』(角川文庫)でも次のように記しています。

    〇月〇日
 夕刻、仕事を終え、東川町公民館に落語を聞きに。出演者の中に、「笑点」のレギュラー・メンバーの桂歌丸さんと三遊亭小遊三さんが来られるという。この二人の落語が聞けるとはと心躍らせて駆けつける。さすがはご両人、見事な話術。言葉の伝達ということを改めて考えさせられる。小説も言葉の伝達なり。聞きながら、これだけの芸は、なまなかな修業や感性では、到底得られぬものと、深く感銘す。

三浦綾子『難病日記』命日

 ここで、綾子のお気に入り「桂歌丸師匠」の略歴を紹介します。

 桂歌丸(本名:椎名巌)は1936(昭和11)年8月14日、神奈川県横浜生まれ。
 「笑点」考案者の立川談志と同い年となります。1951(昭和26)年11月五代目古今亭今輔に入門、今児を名乗り、1954年(昭和29年)11月に二ツ目昇進。1961年(昭和36年)兄弟子・米丸門下に移籍、桂米坊に改名。
 1964年(昭和39年)1月21日から桂歌丸と改名、1968(昭和43)年3月真打に昇進します。

 師匠の米丸につけられたこの名は、のちに歌丸自身が「歌丸になってから、あたしの噺家人生の前途に光が見えてきたんです」[5]と言った通り、改名して一年後、たまに顔を合わせるぐらいの間柄だった立川談志に声をかけられ[6]、1965年(昭和40年)3月12日より放送が始まった日本テレビ「金曜夜席」の大喜利メンバーとして出演、とっさに思い付いたネタをぶつけ、「あたしはそばをたぐりながら、初めてのテレビレギュラーをたぐり寄せたんです」[7]

 その後はご存じの通り、1966(昭和41)年5月15日より始まった「笑点」には第1回目からレギュラー出演、2006(平成18)年、五代目三遊亭圓楽(以降、三遊亭圓楽あるいは圓楽と表記)の後任として「笑点」五代目司会者となり、2016(平成28)年5月22日の生放送を以て『笑点』を勇退、2018(平成30)年7月2日、慢性閉塞性肺疾患のため横浜市内の病院で死去しました(81歳)。

 ところで、綾子は自身を「病気のデパート」と称したほど次々に病気にかかりましたが、桂歌丸もまたたくさんの病気と付き合い、6回の手術を経験したそうです。そんな歌丸に「笑点」メンバーが半ば本気でつけたあだ名は「病気のデパート」と「不死鳥」[8]の二つだったそうです。

 本稿を書くにあたり、何冊かの資料を読みましたが、桂歌丸著『座布団一枚! 桂歌丸のわが落語人生』(小学館)に綾子について記されている箇所を以下引用します。

 『笑点』という名前は、たしか談志さんがお考えになったんです。当時、三浦綾子さんの『氷点』という小説がテレビドラマになって、評判を呼んでいたでしょう。その『氷点』をもじって『笑点』。最初のうちはメンバー同士でも、「変な名前だ」なんて言ってたんですけどね。
 あとになって知ったんですが、三浦綾子さんは、『笑点』の由来が『氷点』だということを大変お喜びになってらしたんです。三浦さんがお住いの旭川(北海道)へ私が仕事で行った折にも、よく会場にお見えになっていました。[9]

桂歌丸著『座布団一枚! 桂歌丸のわが落語人生』(小学館)

 「これは……」と思わずにんまりした記述を見つけ引用したところで、次回に続きます。

文・岩男香織


[1]『氷点』執筆過程および入選までの記録は『ごめんなさいといえる』(小学館)所収「三浦光世日記――『氷点』を世に産み出した五百五十日」に1963年1月9日~1964年7月10日参照。p88~p95の光世の日記に詳細あり。

[2] 本稿では、光世の日記に基づき、光世が『氷点』のタイトルを思いついた日を1月22日とした。『ごめんなさいといえる』(小学館)に併録された1963年1月22日の光世の日記には次のようにあるため。

朝、綾子の小説の題、発案。
「氷点」綾子曰く「スバラシイ題デス。さすがはあなたです。」

「三浦光世日記――『氷点』を世に産み出した五百五十日」(三浦綾子『ごめんなさいといえる』に併録)

一方『「氷点」を旅する』に収録された光世の随筆「小説「氷点」に思う」には次のような記述がある。

 タイトルを「氷点」と提案したのも私である。一月十二日の朝、通勤の途次、私は乗り換えのバス停で、
 (今朝は、氷点下何度くらいかな…)
 と辺りを見まわし、
 (氷点下……うん、綾子の小説、氷点はどうか)
 と思ったことがきっかけであった。
 その日、帰宅して、
 「綾子、その小説『氷点』というタイトルにしてはどうか」
 途端に綾子は声を上げ、
 「あら、素敵ね。さすがは光世さんね」
 と、大いに感服してくれた。綾子が「さすがは」と言ったことなど、すっかり忘れていたが、昨年何かの資料を探していて、偶然そんな記録を見つけた。

三浦光世「小説「氷点」に思う」(『「氷点」を旅する』)

[3] 前述『「氷点」を旅する』に収録された光世の随筆「小説「氷点」に思う」参照。

[4] 詳細は三浦綾子『命ある限り』(角川書店)第七章「元婚約者にあって」参照。

[5] 桂歌丸『歌丸 不死鳥ひとり語り』中公文庫、2018年8月、中央公論社、p66

[6] 桂歌丸は所属する協会が違い、たまに顔を合わせる程度の間柄の立川談志から声をかけられたのは若手の大喜利に出ているのを耳にしたからだろうと推測している。桂歌丸『歌丸 不死鳥ひとり語り』中公文庫、2018年8月、中央公論社、p66参照。

[7] 桂歌丸『歌丸 不死鳥ひとり語り』中公文庫、2018年8月、中央公論社、p67

[8] 桂歌丸『歌丸 不死鳥ひとり語り』中公文庫、2018年8月、中央公論社、p196

[9] 桂歌丸『座布団一枚! 桂歌丸のわが落語人生』小学館、2010年9月、p96

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