【年末年始読み物企画】検証:『氷点』=「笑点」? (3)「笑点」考案者、落語家 立川談志

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1月2日は立川談志(戸籍上の)誕生日

 落語家で立川流家元の立川談志(本名松岡克由)は、1926(昭和11年)年1月2日生まれ(※戸籍上の生年月日で、実際は前年12月2日東京・小石川生まれ)、2011(平成23)年11月21日喉頭癌のため75歳で死去、来年は没後10年となります。

 敗戦後、綾子は児童に教科書に墨を塗るよう命じたことについて次のように考えます。

わたしは、わたしの七年の年月よりも、わたしに教えられた生徒たちの年月を思った。その当時、受け持っていた生徒は四年間教えてきた生徒たちであった。人の一生のうちの四年間というのは、決して短い年月ではない。彼らにとって、それは、もはや取り返すことのできない貴重な四年間なのだ。その年月を、わたしは教壇の上から、大きな顔をして、間違ったことを教えて来たのではないか。

三浦綾子『道ありき』二

 綾子が教師として教科書に墨を塗らせた側にいたのに対し、当時9歳の談志は教科書に墨を塗った当事者になります。
 没後刊行された談志の自伝『立川談志自伝 狂気ありて』には

敗戦を終戦といった大人のごまかし。「敗戦」という言葉を使うようになったのはずっと後になってからで、その頃は「終戦」といっていた。[1]

立川談志『立川談志自伝 狂気ありて』(亜紀書房)

と当時の「大人のごまかし」を厳しい目で指摘しています。談志がこれまでの学校で教えられてきたことに不信感を持ったことは想像に難くありません。

 10歳のころより伯父に連れられて行った浅草の寄席で落語に夢中になり、1952(昭和27)年4月五代目柳家小さんに入門、前座名小よしを名乗ります。1954(昭和29)年3月二ツ目に昇進、小ゑんと改名、1963(昭和38)年4月真打に昇進と同時に「五代目立川談志」を襲名します[2]

 1950(昭和25)年放送法が制定、創業時の放送局は「噺家さえいれば番組が成立する」と、美術セットの準備がいらない落語家はあちこちで引っ張りだこになります。1953(昭和28)年2月1日NHK東京テレビ局が本放送を開始しますが、一般家庭へのテレビ普及率が大きく押し上げられたのは1964(昭和39)年の東京オリンピックの頃でした。

 同年7月10日は綾子の小説『氷点』が入選し、12月9日より「朝日新聞」朝刊にて新聞連載を開始した年ですが、ラジオからテレビへとメディア形態が大きく変わる中、昭和30年代から40年代にかけて、第5次落語ブームと呼ばれる時期がありました。

 しかし「第5次落語ブーム」と言われていたにもかかわらず、実際の寄席は、三遊亭圓楽が回想しているように、ラジオやテレビといったメディアの変化により、わざわざ寄席に足を運ぶ客は減っていたのです。

 また、山本進『図説 落語の歴史』(河出書房新社)[3]にあるように、1964(昭和39)年は東京落語界にとっての厄年とされます。というのも相次いで四人の落語家、すなわち三遊亭百生、八代目三遊可楽、二代目三遊亭圓歌、三代目三遊亭金馬といった名人と呼ばれた人物が相次いでこの世を去ったからです。

 このような状況に危機感を抱き、伝統にしがみつくのではなく、現代ならではの方法を模索し、テレビで落語ができないかと立川談志が考えたのももっともなことです。翌1965(昭和40)年12月、談志は初の書下ろし自著『現代落語論』(三一書房)で「現代と大衆と古典とをつなぎ合わせる落語家がいなければ落語はかならずダメになる」[4]と訴え、警鐘を鳴らしています。

「金曜夜席」の頃

 1965年3月12日(金)、22時~23時15分、日本テレビ系で新番組「金曜夜席」が始まりました。「笑点」の前身となる番組で、総合司会立川談志。レギュラー出演は桂歌丸、柳亭小痴楽、柳家きん平、三遊亭圓彌、三遊亭圓楽、座布団運びは漫才師西〆子でした。[5]

 のち、スポンサーを中心に時間帯を変えればもっと視聴率が取れると声が上がり、発展解消的に放送時間を移動、番組名を「笑点」と変え、番組は半世紀以上続く長寿番組となりました。[6]「金曜夜席」の企画には談志がかかわっており、後年次のように語っています。

最初は金曜夜の番組で、日本テレビから何か番組案を出してくれと言われた。金曜の夜十時半からかな、その頃は「そんな時間、誰も見ないよ」と言われていた時間帯です。あたしの出したプランは二つ、テレビで寄席をやる。酒場の男と女の会話を見せる。前者が「金曜夜席(よせ)」、一年後に日曜夕方に移って「笑点」になり、後者がのちに「11PM」になったわけです。[7]

著 立川談志、聞き手 吉川潮『人生、成り行き―談志一代記―』新潮文庫

 余談ですが「金曜夜席」や「笑点」を調査する中で個人的に興味深く読んだエピソードをいくつか紹介します。談志の先見の明や斬新なアイデアが「笑点」をこのような長寿番組にしたのではないかと考えられます。

 まず、「金曜夜席」[8]という番組名。「寄席」「夜話」でもなく「夜席」。見慣れない語であったのが原因なのか、新番組開始の1965年3月12日付「朝日新聞」朝刊(東京版)の番組欄では、番組名が「夜話」と誤植されるハプニングが発生。当時の番組欄をじっくり見ると、このころは「大喜利」という語も一般的でなかったのか「①落語②ゲストコーナー③大喜劇合戦」と紹介されたり、裏番組は「夫婦善哉」(司会ミヤコ蝶々・南都雄二の視聴者参加型番組)であったりしたことを、図書館で調査をする過程でこの日の新聞を見て初めて知りました。[9]

 また、談志が大喜利を採用したのは、落語家が延々としゃべりつづけるのを見るのは視聴者が耐えられない、CMで落語がカットされるという考えもあってのことでした。斬新なアイデアといえますが、一方で寄席の衰退を示す端緒な事項だとも言えます。
 座布団の枚数でどの落語家が面白かったのかを一目でわかるようにしたのも談志のアイデアのようです。上下関係のある落語家同士で、格下の落語家が先輩から座布団をとるのは気まずいということから、落語界とのしがらみがない俳優の石井伊吉(後、毒蝮三太夫と改名)を二代目の座布団運びとして連れてきたのも談志でした。[10][11]
 当時石井は「ウルトラマン」でアラシ隊員役を演じていたことから観客の子供たちが「アラシ隊員」と掛け声をかけられることもあり、毒蝮三太夫と改名したきっかけとなったそうです[12]

 石井の「笑点」初出演は1967(昭和42)年1月29日のことで、同日より竹内大三によるアニメのオープニング映像とともに、番組初のテーマソング「笑点音頭」が放送されます。

 ぴあMOOK『笑点五〇年史 1966-2016』によると、番組名「笑点」の由来については、この歌詞を踏まえ「“笑いのポイント”だから=笑点」が有力とされているとあります。
 近年の有力説のとおりこちらが番組名の由来なのでしょうか。[13]

文・岩男香織


[1] 立川談志『立川談志自伝 狂気ありて』2012年8月、亜紀書房、p41

[2] 立川談志『立川談志遺言大全集10 落語論一 現代落語論』2002年4月18日、講談社、p158-159に以下の記述があり7代目が正しいようだが、襲名当時五代目を名乗っていた。

談志になるについていろ/\と名前の歴史を調べてもらったら、何のかんのとわたしは七代目になり、したがって先代は六代目なのだが、例の釜掘りの談志が初代と称していたせいか、先代は四代目といっていたらしく、ならいっそのコト、五代目というのは語呂もいいし、師匠も五代目小さんだし、ちょうどいいやってなもんで、わたしは五代目立川談志ということになっている。

立川談志『立川談志遺言大全集10 落語論一 現代落語論』講談社

[3] 山本進『図説 落語の歴史』ふくろうの本、2006年5月、河出書房新社、p107

[4] 立川談志『現代落語論』1965年12月、三一書房 ※本稿では立川談志『立川談志遺言大全集10 落語論一 現代落語論』2002年4月、講談社を使用。p226

[5] 桂歌丸『座布団一枚! 桂歌丸のわが落語人生』2010年9月、小学館、p90-92参照。

[6] 湯島de落語の会編『落語 修業時代』山川出版社、2017年6月、p26参照。

[7] 著 立川談志、聞き手 吉川潮『人生、成り行き―談志一代記―』新潮文庫、2010年12月、p59

[8] 読み方についての調査が及ばなかったが、ぴあMOOK『笑点五〇年史 1966-2016』では「キンヨウヨルセキ」としているが、談志や歌丸が自著で「よせ」とフリガナをふっていることから「夜の寄席」という意味で「キンヨウヨセ」が正しいのではないかと私は考える。

[9] 1963年3月12日付「朝日新聞」(東京版)朝刊8版9面参照、同日付「朝日新聞」(大阪版)9面及び「朝日新聞」夕刊(東京版)3版10面では「金曜夜席」と表記されている。

[10] 『笑点』はこうして生まれた ぴあMOOK『笑点五〇年史 1966-2016』2016年9月、p174

[11] 立川談志「見どころ聞きどころ」の芸人達 石井伊吉(立川談志『談志人生全集 第一巻 生意気ざかり』1999年6月、講談社所収、p394-p396)

[12] 材・文 田崎健太、写真 関根虎洸『全身芸人 本物(ルビ:れじぇんどい)だらけの狂気』、2018年12月、太田出版、p138-139には、石井伊吉は俳優として「ウルトラマン」に出演、アラシ隊員を演じていたが立川談志助言で俳優から路線変更、芸名も毒蝮三太夫に改名して座布団運びとして番組に出たことが記される。この起用は談志のアイデア。当初、落語家自身が座布団を運んでいたが、自分より格上の落語家から座布団を奪ったりするのは具合がよくなかったところから。
石井伊吉については第三章「毒蝮三太夫」p121-172参照。

[13]  『笑点』はこうして生まれた ぴあMOOK『笑点五〇年史 1966-2016』、2016年9月、p102「検証!・2 実はふたつの説が囁かれる名前の由来」に以下の記述がある。

『笑点』番組名の由来には、現在もなおスタッフ間でふたつの説がある。ひとつは、「“笑いのポイント”だから=笑点」説。談志司会時代のテーマ曲だった『笑点音頭』のなかにも同様の歌詞があるため、この説が有力とされている。もうひとつが、当時流行していた三浦綾子の小説『氷点』をもじったのでは、という説。残念ながらどちらの説が正しいか、50年を経た今や真相は藪のなか。

ぴあMOOK『笑点五〇年史 1966-2016』

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