11月初旬に、『破流(はる) 永山則夫小説集成1』『捨て子ごっこ 永山則夫小説集成2』(共和国、2023年)が発売されます。
1968年、19歳の永山が起こした連続殺人事件は知られているものでしょう。逮捕、収監された後に創作活動を開始し、1983年には「木橋(きはし)」で第19回新日本文学賞を受賞しました。小説を発表し続け、1997年、死刑執行。その直前、「本の印税を日本と世界の貧しい子どもたちへ、特にペルーの貧しい子どもたちに使ってほしい」という遺言から「永山子ども基金」https://nagayama-chicos.com/ が設立され、現在も各地で活用されているそうです。
北海道網走市に生まれ、青森に転居後さまざまな職に就いたことは、自伝的小説にも書かれています。中学生のころは、家で母や妹たちの食事の世話をしながら新聞配達を。中学卒業後は東京への集団就職の一人として、フルーツパーラー、板金工場、大阪の米問屋、池袋や羽田空港の喫茶店で働き、定時制高校に通いながら、牛乳配達店勤務、川崎で日雇い労働、横浜で沖仲仕なども経験したそうです。
そんな永山少年が、16歳ごろ、三浦綾子の『氷点』を貸本屋で借りて一気に読み込んだことを、「異水」(『異水』河出書房新社、1990年所収)という小説で知りました。それが収録された『捨て子ごっこ 永山則夫小説集成2』の附録文を引用させていただきます。
(前略)会話文の多い「異水」も映画的だ。時代は一九六六年頃、十六、七歳のNが大阪の米問屋で住み込みで働く物語である。月給をもらい、貸本屋で三浦綾子の『氷点』上下巻(一九六五年のベストセラー書)を借り、その読後感が詳述されている(『集成2』p399~402)。ある医師が出張中、妻が若い男性と二人きりで逢い、その間に三歳の娘が殺された。医師は妻への復讐のために、極秘に殺人犯の娘を養女として迎える――。Nは、「子どもをオモチャにしている」そんな医師夫婦に憤る。けれども続きを読まずにはいられず、徹夜で下巻を読む。「刑務所生まれかも知れないNには、自分が殺人犯の子の陽子と一緒に思え」、陽子が牛乳配達する姿にも涙し、まるで一体化したように読み進めていく。下巻の終盤、陽子は自身が殺人犯の子だと聞かされ自殺をはかる。ところが一転、実は殺人犯の子ではなかったことが明かされ、陽子は昏睡から目覚めてゆく。そのラストに対し、Nは、「殺人犯の子なら死ななければならなかったのか」と苛立ちを隠せない。自分の実存にまで降り立った地点からの読後感であり、ブームに沸いていた当時の『氷点』の一般的な評価と比べてみたくなる。
それにしても――自身の来し方を表現しうる言葉を獲得するまでの、永山則夫の長い長い道のりにこそ思いは及ぶ。「事件が在る故に私がある」(『無知の涙』ノート5)として、「私」の責任を自覚し、その責任の言語化・形象化がこれら自伝的小説なのだろう。そのことも含めて、若い読者に手に取ってほしいと思う。
田中綾「『員数外』の子どもたちは、今も」
『捨て子ごっこ 永山則夫小説集成2』附録、2023年
最後に、永山則夫と三浦綾子との、意外なつながりをご紹介。
河出書房新社「文藝」編集長で、永山則夫の担当だった方が、阿部晴政さんです。その阿部さんは、実は拙著『あたたかき日光(ひかげ) 三浦綾子・光世物語』の編集を担当してくださった方でした。まったくの偶然ですが、私には、偶然以上の何かがあるようにも感じています。 「異水」はじめ、「捨て子ごっこ」はぜひ読み返していただきたい短編です。