このたびの令和6年能登半島地震で被災された方々に、心よりお見舞い申し上げます。
元日、そのニュースを少し遅れて知った私は、歌人・坪野哲久の故郷である、石川県羽咋郡志賀町に想いを馳せました(志賀町ホームページ「坪野哲久」)。

坪野 哲久
1906(明治39)年生まれで、生誕100年の2006年には、志賀町から『坪野哲久小説集』も刊行されています。実際に訪れたことはないにもかかわらず、写真で見た坪野哲久文学記念館の外観がふいに想われました。
哲久は、昭和初期のプロレタリア短歌運動から出発し、昭和十年代には、象徴的な独自の美的世界を構築した歌人です。東洋大学に進学以降は東京に居住していましたが、故郷を詠ったものも少なくありません。
母のくににかへり来しかなや炎々と冬濤圧(お)して太陽没(しづ)む
『百花』
日本海に面した志賀町の、沈む冬の夕陽の荘厳なほどの美しさ。冷えた空気のなかに、りんとした気品がうかがえます。
曼珠沙華のするどき象(かたち)夢にみしうちくだかれて秋ゆきぬべき
『桜』
日中戦争下の一首です。胸部疾患で臥せることの多かった哲久は銃後の身でしたが、若い歌友たちは、次々と戦地へ。その姿を見送る熱い思いの形象が、あかあかとした「曼珠沙華」なのでしょう。時代というものに打ち砕かれてしまう、失意の歌でもありますが、美的世界に昇華させた絶唱ともなっています。
かなしみのきわまるときしさまざまに物象顕(た)ちて寒(かん)の虹ある
『碧巌』
これは戦後、60代での歌集の巻頭歌で、「ときし」の「し」は強調の意味です。かなしみが極まった時、幻のようにたちあらわれる鮮烈な「寒の虹」。これも能登の海に見えた虹なのかもしれません。 儚くとも人々の眼裏(まなうら)に灼きつくような、美しい虹。そんな虹を今後も見られることを願ってやみません。