“はじめの一歩”とは?
三浦綾子の作品を〝書き出し〟でご紹介する読み物です。
気に入りましたら、ぜひ続きを手に入れてお読みください。出版社の紹介ページへのリンクを掲載していますので、そちらからご購入になれます。紙の本でも、電子書籍でも、お好きなスタイルでお楽しみくださいませ。物語との素敵な出会いがありますように。
三浦綾子記念文学館 館長 田中綾
小説『氷点』について
連載 … 朝日新聞1964年12月〜1965年11月
出版 … 朝日新聞社1965年11月
現行 … (上下2巻)朝日文庫・角川文庫・小学館電子全集
旭川を舞台にした現代小説。病院長の辻口啓造と妻・夏枝を巡る愛憎劇。ある夏の日に起こった事件が、一家を悲劇の渦に巻き込んでゆく。その発端となったのは、夏枝と眼科医・村井の逢引だった。嫉妬に駆られた啓造が目論んだ、驚きの復讐とは?
「敵」
風は全くない。東の空に入道雲が、高く陽に輝やいて、つくりつけたように動かない。ストローブ松の林の影が、くっきりと地に濃く短かかった。その影が生あるもののように、くろぐろと不気味に息づいて見える。
旭川市郊外、神楽町のこの松林のすぐ傍らに、和、洋館から成る辻口病院長邸が、ひっそりと建っていた。近所には、かぞえるほどの家もない。
遠くで祭りの五段雷が鳴った。昭和二十一年七月二十一日、夏祭りのひる下りである。
辻口家の応接室に、辻口啓造の妻、夏枝と、辻口病院の眼科医村井靖夫が、先程から沈黙のまま、向いあって椅子に座っている。座っているだけでも、じとじとと汗ばんで来るような暑さであった。
突然、村井は無言のまま立ち上ると、大股にドアのところまで行って取手に手をかけた。
取手が、ガチャリと音を立てた。長い沈黙の中で、その音が夏枝には、ひどく大きく響いた。
夏枝は思わず目を上げた。つややかな瞳に、長いまつげが影を落している。とおった鼻筋に気品があった。紺地の浴衣に、雪国の女性らしい、肌理こまかい色白の顔がよく映えている。
(さっきから、黙ってばかり……)
そう思いながら、夏枝は背を向けたまま立っている村井の、長身の白い背広姿を見上げて微笑した。つつましやかな、整った夏枝の唇が、ほほえむと意外に肉感的に見える。それは二十六歳の若さの故ばかりではなかった。
先程から、村井が何を言いたがっているかに夏枝は気づいている。夏枝は、その言葉を待つ表情になった。そのような自分を意識しながら、旅行中の夫、啓造のやや神経質だが優しい目を、ふと思い出していた。
今年の二月であった。夏枝は、ストーブの灰を捨てる時、灰が目に入って村井に診てもらった。その時以来、村井は夏枝から心をそらすことが、できなくなっていた。
無論それまで、院長夫人である夏枝を知らない訳ではない。しかし夏枝には、まともに顔を合わすこともできないような、関心を持つことすら憚られるような犯しがたい美しさがあった。
その夏枝が彼の患者となったのである。手術台の上の、夏枝の角膜につきささっている微細な炭塵をとりのぞき、眼帯をかけ終ると、村井はかつてないふしぎな喜びを感じた。
「これですね、犯人は」
村井は夏枝に、ピンセットの先の小さな炭塵を見せた。
「見えませんわ。あまり小さくて」
手術台の上に片手をついた姿勢で、夏枝は小首をかしげて微笑した。
「これなら、見えますでしょう」
村井は白いちり紙に、ピンセットをなすりつけるようにして炭塵を移した。それを見る二人の頬がふれ合わんばかりに近いのを、村井は意識していた。
「まあ、こんなに小さいんですの。あんまり痛いものですから、どんな大きなゴミかと思いましたわ」
眼帯をかけて片目になった夏枝は、遠近が定まらなかった。定まらないままに、彼女はじっとゴミをみつめていた。二人の頬を寄せ合う時間が、少し長かった。
それから半月程、夏枝は通院した。彼女の目がかなりよくなって、治療の必要がなくなっても、村井はだまって洗眼した。
「もうよろしゅうございますか」
ある日、夏枝がたずねると、村井は哀願するようなまなざしをした。
「もう一度、暗室でよく診なければ……」
少し声がかすれた。
暗室はせまかった。向き合って椅子に座っている二人の膝が触れた。診る必要はなかった。だが彼は、ゆっくりと時間をかけて診察した。
終ると村井は、食い入るように夏枝をみつめた。その真剣な目のいろに、夏枝はたじろいだ。同時に、胸の中にキュッと押しこんで来る、ふしぎに快い感情があった。だが夏枝は表情を変えなかった。
「ありがとうございました」
立ち上る夏枝の手を村井がつかんだ。
「行かないでください」
子供っぽい言い方がかわいいと思った。夏枝は、つつましく目をふせると、村井の手をそっとはずして暗室を出た。
それから村井は、時々辻口家を訪ねるようになった。しかし辻口家の幼い徹とルリ子に対しては、あまり言葉をかけなかった。
「村井さんは、子供がおきらいらしいですわね」
ある時、夏枝が言った。啓造がちょうどその場を、何かの用ではずした時だった。
「子供がきらいというんでは、ないのですが……」
村井はちょっと皮肉に唇をゆがめた。冷たい、ニヒリスチックな表情であった。
「でも奥さんの子は嫌いだな。嫌いというより呪いたい存在と言いますかね」
「まあ! 呪うなんて……そんな……」
「奥さんは、子供なんて産んでほしくなかった」
村井の慕情の激しさに、夏枝は感動した。
今、ドアの前に立っている村井の後姿を見ながら、一か月ほど前の、その村井の言葉を夏枝は思い出していた。
遠くで再び祭りの五段雷が鳴った。
取手に手をかけたまま、村井がふり返った。その広い額がじっとりと汗にぬれている。やや、うすい唇が、もの言いたげにかすかに動いた。
夏枝は村井の言葉を待った。
その言葉を待つと言うことが、人妻の彼女にとって、どんなことなのか今は、夏枝は気づきたくなかった。
「どうして、ぼくに結婚なんか、すすめるんです?」
村井のたたきつけるような激しい語調に、長い沈黙が破られると、夏枝はかるいめまいをおぼえて、傍らのスタンドピアノによりかかった。
「奥さん!」
村井はピアノに寄りかかっている夏枝に近づいた。夏枝は、すばやく椅子から立ち上ると、うしろへ退いた。
「奥さん、あなたは残酷な方だ」
村井は夏枝の前に立ちはだかるように迫った。
「残酷ですって?」
「そうですよ。残酷ですよ。あなたは、さきほど、ぼくに縁談を持ち出したじゃありませんか。ぼくは、あなたがわかっていてくださるとばかり思っていた。ずっと以前から、ぼくの気持がよくわかっていらっしゃったはずだ。それなのにあなたは……」
村井はテーブルの上の写真を見た。夏枝がすすめた写真の女性は、笑声が聞えそうなほど無邪気な笑顔で、アカシヤの樹によりかかって写っている。
村井は視線を夏枝の上にもどした。男にしては美しすぎる黒い瞳であった。その目が、時々どうかすると虚無的に暗くかげることがあった。その暗いかげりに夏枝はひかれるものを感じた。
今、村井はややすさんだ暗い目で夏枝をみつめている。夏枝はその村井の胸に倒れこみそうな自分を感じて目をふせた。
こんなふうに明らさまな口説をきく日が、いつか来るように夏枝は思っていた。
今日縁談を持ち出したのも、村井は結婚をすすめるためではなく、夏枝に対する関心がほんとうのところ、どの程度のものかを、はっきり知りたいためかも知れなかった。
夏枝は、よくしなう美しい手を合わせて、拝むように胸のあたりに持って来た。そのしぐさが、ひどくなまめいて見えた。
「夏枝さん」
白いしっくいの壁を背にした夏枝の前に立ちふさがると、村井は夏枝の肩に手を置いた。村井の手のぬくみが、浴衣を通して夏枝の体に伝わった。
「いけません。怒りますわ、わたくし……」
村井の顔が覆うように夏枝に迫った。
「村井さん、わたくしが辻口の妻であることを、お忘れにならないでください」
夏枝の顔が青かった。
「夏枝さん、それが忘れられるものなら……ぼくはそれを忘れたい! 忘れられないからこそ、今までぼくは苦しんで来たじゃありませんか」
村井の手が夏枝の肩を激しく揺さぶった、その時であった。廊下に足音がして、ドアが開いた。
ピンクの服に白いエプロンをかけたルリ子が、チョコチョコと入って来た。
村井はあわてて、二、三歩夏枝から離れた。
「おかあちゃま、どうしたの?」
三歳のルリ子にも、大人二人の様子にただならぬものを感じとったらしく、いっぱいに見ひらいた目で村井をにらんだ。
「おかあちゃまをいじめたら、おとうちゃまにいってやるから!」
ルリ子はそういって小さな手をひろげて、母をかばうように夏枝のそばにかけよった。
村井と夏枝は思わず顔を見合わせた。
「そうじゃないのよ、ルリ子ちゃん。おかあちゃまはね、先生と大切なお話があるのよ。おりこうだから、外で遊んでいらっしゃいね」
夏枝は小腰をかがめ、ルリ子の両手を握って軽く振った。
「イヤよ。ルリ子、村井センセきらい!」
ルリ子は村井を真っすぐに見上げた。子供らしい無遠慮な凝視だった。村井は思わず顔をあからめて夏枝をみた。
「ルリ子ちゃん! いけません、そんなことをいって。村井先生は、おかあちゃまと大事なお話があるといったでしょ? おりこうさんね、よし子ちゃんのお家へ行って遊んでいらっしゃい」
夏枝は村井よりもいっそう顔をあからめてルリ子の頭をなでた。
もし、村井の愛を拒むなら、今ルリ子をひざに抱きあげるべきだと夏枝は思った。しかしそれができなかった。
「センセきらい! おかあちゃまもきらい! だれもルリ子と遊んでくれない」
ルリ子はくるりと背を向けて応接室を飛び出して行った。エプロンの蝶結びが可憐に揺れた。
夏枝はよほど呼びとめようかと思った。しかし今しばらく村井と二人きりでいたい思いには勝てなかった。
廊下を走るかわいい足音が勝手口に去った。何か心に残る足音だった。
「ごめんなさい、ルリ子が失礼なことを申しあげまして……」
ルリ子の出現が二人を近づけた。
「いや、子供って正直ですね。そして恐ろしいほど敏感なものですね」
村井は、立ったまま煙草に火をつけながらいった。
「あなたはうちの子をおきらいでしたものね」
「きらいというのとは、ちょっとちがうんです。徹くんにしろ、ルリ子ちゃんにしろ、何かこう神経質な感じや、はれぼったいような眼なんか、院長そっくりじゃありませんか。ぼくは院長と夏枝さんの子供だという、その事実に耐えられないんです。見るのも辛いことさえある」
村井は煙草を灰皿に捨てると、両手を深くズボンのポケットに入れたまま、熱っぽく夏枝をみつめた。
二人の視線がからみ合った。
村井は煙草を灰皿に捨てると、両手を深くズボンのポケットに入れたまま、熱っぽく夏枝をみつめた。
二人の視線がからみ合った。
夏枝が先に視線をそらした。彼女は静かにピアノの前に座ってふたを開いた。何を弾くというのでもなかった。両手を軽くピアノの上に置いたまま夏枝はいった。
「お帰りになって頂けません?」
声が少しふるえた。夫も、女中の次子も、ルリ子もいないこの家の中で、何かが起るのを彼女は感じた。夏枝の体の中に、その何かを期待するものがあった。その自分が恐ろしかった。
富枝の言葉を聞くと、村井は片頼に微笑を浮べて、ピアノの前に座っている彼女のうしろに立った。
「夏枝さん」
彼はうしろから、ピアノの鍵盤におかれた夏枝の白い両手を上からおさえた。ピアノが大きく鳴り響いた。
思わずふり向いた夏枝の頬に、村井の唇が触れた。
「いけません」
心とは反対の言葉だった。村井は無言で夏枝の肩を抱いた。
「いけません」
村井の唇をさけて、夏枝はあごを深く衿にうずめた。唇だけは避けなければ、そのあとの自分に自信がなかった。
「いけません」
夏枝の頼を上に向かせようとしている村井に三度拒むと、村井は身をかがめて夏枝の頼に唇をふれようとした。彼女はかたくなに身をよじって村井をさけた。村井の唇は夏枝の頼をかすめただけであった。
「わかりました。そんなにぼくをきらっていられたのですか」
村井は夏枝の拒絶にはずかしめられた思いで、さっとドアを開けて玄関に出た。
夏枝は呆然として立ち上った。
(きらいなのじゃない)
拒絶は媚態であり、遊びであった。次に来るものをいつの間にか夏枝は待っていたのだった。二十八歳の村井には、それがわからなかったのだ。
夏枝は村井を送りに出なかった。引きとめてしまいそうな自分が恐ろしかった。
村井の唇がふれた頼に、そっと手を当てた。その部分が宝石のように貴重に思えた。胸をしめつけるような甘美な 感情があった。結婚して六年、夫以外の男性にほじめて口づけを頼に受けたことが、夏枝の感情をたかぶらせた。
夏枝は再びピアノの前に座った。キイの上を白い指が走った。ショパンの幻想即興曲であった。次第に感情が激して来た。夏枝は長いまつ毛をとじたまま酔ったようにピアノを弾きつづけた。
ちょうど、このころ幼いルリ子の上に何が起きていたかを、夏枝は知る由もなかった。
突然ピアノ線が鋭い音を立てて切れた。不吉な感じだった。
はっとした瞬間、
「ピアノ線が切れるまで弾くとは、またずいぶん御熱心なことだね」
いつの間にか夫の啓造が、いつものように優しい笑顔でうしろに立っていた。
「あら! 今日でしたの」
夏枝は狼狽した。啓造の帰宅は明日の予定であった。ぽっと頬をあからめて立ち上った姿がなまめいた。それが啓造には、夫の突然の帰宅を喜ぶ姿に思われた。
「だまって立っていらっしゃるんですもの、いやなかた!」
夏枝は啓造のくびに、その白いむっちりした両腕をからませて彼の胸に顔をうずめた。今の今まで、村井靖夫を思って上気した自分の顔を、夏枝は見られたくなかったからである。
啓造はふと、いつもとちがったものを夏枝に感じた。今までの夏枝は、自分から啓造のくびを抱くというようなことはなかった。
「暑いよ」
そういいながらも、しかし啓造は夏枝の背に腕をまわした。
啓造は学者肌で、神経質だがとげとげしいところが少なかった。もの静かで優しい夫であった。信頼できる夫だった。
夏枝は、夫の胸に顔をうずめながら、心が次第に安らかになっていった。先ほどの妖しく波だった村井への感情が、今はふしぎだった。嘘のようでもあった。
(やっぱり辻口が一番いいわ)
そう思った。夏枝は啓造を愛している。医者としても夫としても尊敬していた。何の不満もなかった。
(それなのに、何故村井さんと二人でいることがあんなに楽しいのかしら)
夏枝にはそれがふしぎだった。今はこうして、夫が一番いいと思っていても、再び村井に会うとどうなるか、自信がなかった。制御できないものが、自分の血の中に流れているのを夏枝は感じた。
(おかあちゃまをいじめたら、おとうちゃまにいってやるから!)
ふと、先程のルリ子の言葉を思い出して、夏枝はヒヤリとした。
「おつかれになって?」
ルリ子の帰りが、なるべく遅いようにとねがいながら、夏枝は夫を見上げた。
「うん」
啓造は、子供の頭を撫でるようにやさしく夏枝の頭を撫でた。パーマをかけない豊かな髪がこころよく匂った。彼は夏枝の髪にあごをつけたまま、何気なくテーブルの上を見た。
啓造の目が鋭く光った。そこにはコーヒー茶碗と灰皿があった。灰皿にある吸いがらを啓造は目で数えた。八本までは数えられた。
彼はひややかに妻をはなれた。
夫の気配に夏枝はハッとした。
「ルリ子はどうした? 徹も次子もいないじゃないか」
啓造のきびしい視線は、なおテーブルの上にあった。啓造の表情に、夏枝は村井の来訪を告げそびれた。
「徹は次子に連れられて映画ですわ。ルリ子ほその辺で遊んでいませんでした?」
「見なかった」
幼いルリ子まで外に追いやって、誰もいないこの部屋で、一体この煙草の吸いがらの主と何をやっていたのかと、啓造は探るような目になっていた。
来訪者が誰であったかを夏枝から先にいってほしかった。啓造はピアノに片手をふれた。
ドミソ ドミソ ドミソ
指は同じ鍵をくり返していた。
何かやりきれなかった。夏枝は急に不機娩になった夫に、ますます村井の来訪をいい出しかねた。
ドミソ ドミソ ドミソ
バタンと大きな音を立てて啓造がピアノのふたをしめ た。ちょうど夏枝が灰皿とコーヒー茶碗を下げるところであった。
一瞬、啓造と夏枝の目が合った。カチリと音のしそうな視線であった。夏枝が先に目をそらして部屋を出て行った。ドアを出て行く夏枝を眺めながら、啓造は来客のことに一言も触れない妻にこだわっていた。
「客があったのか」
と、さりげなく気軽に問うことが、もはや啓造にはできなかった。
「村井か、高木か」
彼の留守に通す男客といえば、この二人しかない筈である。
高木雄二郎は産婦人科医で、札幌の総合病院に勤めていた。啓造の学生時代からの親友である。高木は学生時代、夏枝を嫁にもらいたいと夏枝の父に願い出た。夏枝の父津川教授は、内科の神様といわれ、啓造や高木の学生時代の恩師であった。
「夏枝の嫁ぎ先は考えてある」
と断わられた高木は、
「それは誰です。辻口ですか、奴ならおれは諦める。しかし他の奴だったら絶対諦めません」
と大声でどなったと啓造は夏枝からも、高木本人からも聞いていた。
高木は目鼻立ちの大造りな豪放磊落型の男であった。時々ひょっこりと札幌から出て釆て、病院に啓造を訪ねると、
「これからお前のシェーン(美人)なフラウ(奥さん)を口説きに行くがいいか?」
などと冗談をいう独身の男だった。
(高木が訪ねてきたのならいいんだ)
高木はさっばりした気性で、夏枝のことなど、とうに忘れているらしい。どういう風の吹き回しか、専門外の乳児院の嘱託をやり、
「おれには、結婚しなくても、子供だけはゴシャマンといるぞ」
と結構楽しそうに暮している。
(高木は今日札幌で会って釆たばかりだ。すると訪問客はやはり村井か)
啓造は不安になった。
(村井が来たと素直にいえない何かやましいことがあったのだろうか)
彼は暗い表情になって、窓外のストロープ林に目をやった。
(うん……辰子さんかも知れない。あの人も煙草は喫う)
資産家の一人娘藤尾辰子は、夏枝と同じ二十六歳、女学校時代からの夏枝の友人で、日本舞踊の師匠である。
(あの人は応接室になど入らない)
啓造はいらいらと一人思い惑っていた。
勝手口に女中の次子と幼い徹の声がした。徹の何かいって笑う澄んだ声がきこえて来た。
(映画から帰ったのか)
そう思いながら啓造は応接室を出て茶の間に行った。夏枝と次子は台所にいるらしく、徹は茶の間のソファに腹ばいになっていた。
「おとうさん、帰ってたの? あのね、おとうさん、ぼくアメリカの兵隊さんになろうかな」
「どうして?」
啓造は、今日の来客は村井にちがいないと思いながら、徹の傍に腰をおろした。
「うん。アメリカの兵隊さんね、とっても勇ましいの。機関銃をダダダ……と射つとね、敵がバタバタ死ぬんだよ」
「ふーん、戦争映画かい」
啓造はいやな顔をした。
「敵はみんな死ぬんだ。だけど死ぬって、どんなこと? 死んだらいつ動くの?」
「死んだら、もう動けないねえ」
「おとうさんが注射したら動く?」
「いや、どんなに沢山注射しても動かない。もうごはんも食べないし、話もしないよ」
「うーん。死ぬっていやだなあ。でも敵は死んでもいいんだね。だけど、敵ってナーニ? おとうさん」
「敵っていうのはねえ……困ったねえ」
戦争中に啓造は三カ月ほど、北支の天津に軍医として行っていた。肋膜炎ですぐ帰されたのである。そんな短い期間の兵粘病院での軍医生活では、戦争を実感として感ずることはできなかった。風景や女性の風俗に異国情緒を感じたが、この空の下で、どこかに壮絶な戦いがあるということすら啓造にはふしぎだった。
旭川に帰っても、艦載機が一、二度来ただけで終戦を迎えてしまった。もともと学生時代から反戦思想であった啓造には、どの国に対しても敵という意識はなかった。だから、徹に敵とは何かといわれても、答えにつまった。
「そうだねえ。敵というのは、一番仲よくしなければならない相手のことだよ」
五歳の徹にはわかるまいと、啓造は自分の言葉に苦笑した。
「ルリ子ちゃんが敵なの?」
いつも兄妹は仲よくするようにといわれている徹であった。
「いや、ルリ子は徹の妹だよ。敵というのはね、憎らしい人のことだ。意地悪したり、いじめたりする人さ」
「ああ、四郎ちゃんね。四郎ちゃんが敵?」
徹は近所の子の名をあげた。
「困ったな、どうもむずかしい。四郎君は友だちさ、敵じゃないよ」
啓造は笑った。
「とにかく、うんと仲のわるい人だよ」
「仲のわるい人と、どうして仲よくしなければならないの?」
徹はかわいい眉根をよせて考える顔になった。
「昔ね、イエスというえらい人がいてね。その人が、敵とは仲よくしなさいと教えたんだよ」
啓造は「汝の敵を愛すべし」という言葉を思い出していた。学生時代だった。夏枝の父である津川教授がいったことがあった。
「君達はドイツ語がむずかしいとか、診断がどうだとかいいますがね。わたしは、何がむずかしいといって、キリストの〝汝の敵を愛すべし″ということほど、むずかしいものは、この世にないと思いますね。大ていのことは努力すればできますよ。しかし自分の敵を愛することは、努力だけじゃできないんですね。努力だけでは……」
夏枝の父は内科の神様のようにいわれた学者で、その人格も極めて円満な人であったから、ひどく悲しげな面持で 語ったその言葉は啓造に強い印象を与えた。
学生の啓造からみると、この教授には不可能な事が一つもないように思われた。講義の時に何かのことから津川教授はそう語ったのだったが、こんな円浦な人にも敵がいて、悩むことがあるのかと、啓造は不思議に思ったものであった。
「何だかよくわかんない」
敵と仲よくせよといわれた徹は、不得要領の軒で台所に立って行った。空腹をおぼえたらしく、
「おかあさん、何かちょうだい」
と甘ったれている声がした。
啓造は、敵という言葉について思いめぐらしながら、不意に村井靖夫のねたましいまでに美しい目を思い出した。すると予期せずに殺意に似た感情が彼の胸をよぎった。
「敵とは、一番仲よくしなければならない相手だ」
とたった今、徹にいった自分がおかしかった。今までも、生真面目な啓造と、何か投げ出しているような虚無的な村井とはどこか肌が合わなかった。それでいて何となく気になる存在だった。
(もし今日、おれの留守に夏枝と何かあったとしたら……夏枝はなぜいきなりおれに抱きついてきたのだろう? 今までそんなことをしたことはなかったのに……)
(いつも静かにピアノを弾く夏枝が、なぜ、あんなにピアノ線が切れるまで激しい弾き方をしたのだろう? なぜ、客のあったことを夏枝は黙っているのだろう? 何かあったのだ。もしそれが村井とだったら)
絶対に許せないと啓造は思った。自分の生活を脅かす者に寛容であり得る訳はない。
(敵とは愛すべき相手ではない。戦うべき相手のことだと徹にいうべきであった)
啓造はそう思いながら二階の書斎に上がって行った。
「誘拐」
「ルリ子ちゃん遅いですわね、奥さん」
馬鈴薯のうらごしをしていた次子が手をとめた。
「ほんとうね、いつもより少し遅いわね。次ちゃん、それがすんだら迎えに行ってね。またどうせよし子ちゃんの所でしょうから」
夏枝はルリ子のことを忘れていたわけではなかった。
「おとうちゃまにいってやるから」
と村井に対して幼い反感を体一杯に示したルリ子の帰宅の、少しでも遅いことを願っていたのだった。
ルリ子を迎えに行った次子は、どうした訳かなかなか帰って来ない。時計を見ると五時半に近い。しかし七月の五時半は夕暮には遠かった。
「どうしたのかしら」
と作りあげたマヨネーズを戸棚に入れた時、次子が帰って釆た。
「奥さん、ルリ子ちゃんは帰りましたか」
「まだよ、よし子ちゃんの所にいなかったの?」
「ええ、今日は二時ごろに帰ったきりですって」
「二時ごろ?」
夏枝は青ざめた。二時といえばルリ子が応接室に入って来たころではないか。あれから今まで三歳のルリ子がどこに行くというのだろう。
「センセきらい、おかあちゃまもきらい。だれもルリ子と遊んでくれない」
そういったルリ子の言葉が、今になってへんに気になった。
その時かわいい足音がした。ほっと安心した。だがそれはルリ子ではなかった。ほっペたの赤いよし子だった。
「これ、ルリ子ちゃん忘れたの」
さし出したのは夏枝が作った五十センチほどの抱き人形であった。夏枝はそれをみると胸騒ぎがした。人形を受けとると急いで外へ出た。いちいの生垣の傍に先ほど次子といっしょにルリ子を探しに出た徹がぼんやりと立っていた。
「ぼくおなかすいた。ルリ子ちゃんどこにもいない」
「次子ねえちゃんにごはんをいただきなさいね」
夏枝はよし子の家の方へ走り出していた。
「あら、まだ見えませんの?」
小学校教師をしているよし子の母が、エプロンで手を拭きながら出て来た。
「見本林は探されましたか」
「いいえ、まだ。あの子一人では、めったに林の中に入りませんの」
「でも見本林は子供達の遊び場ですもの」
よし子の母は下駄をつっかけて先にかけ出した。
啓造に告げなければと思いながら、まだいなくなった訳でもない、できれば啓造に知られずにルリ子を探したいと、夏枝はわが家のいちいの生垣の横を駈けて見本林の中に入って行った。
みたところ見本林はひっそりとして、子供達の声も姿もなかった。
この見本林というのは、旭川営林局管轄の国有林である。
北海道最古の外国針葉樹を主とした人工林で、総面積一八・四二ヘクタールほどある。
樹種はバングシャ松、ドイツトーヒ、欧州赤松など十五、六種類もあり、その種類別の林が連なって大きな林となっている
見本林の仲には管理人の古い家と、赤い屋根のサイロが建っていた。
辻口家は、この見本林の入口の丈高いストローブ松の林に庭つづきとなっている。
美しいいちいの生垣をめぐらして低い門を構え、赤いトタン屋根の二階建の洋館と、青いトタン屋根の平屋からなるがっしりとした家であった。
この見本林を三百メートルほどつきぬけると、石狩川の支流である美瑛川の畔に出る。
氷を溶かしたような清い流れの向うに、冬にはスキー場になる伊の沢の山が見え、遙か東の方には大雪山につらなる十勝岳の連峰がくっきりと美しい。
子供たちは林の中の鬼ごっこや、かくれんぼに飽きると、美瑛川で泳いだり魚をすくって遊ぶのだった。
しかし今日は、旭川の夏祭りに出かけたのか林には人影はなかった。
下草がぼうぼうと長けて、林の中はうす暗かった。
「ルリ子ちゃーん」
「ルリ子ちゃーん」
叫んだが返事はない。返事のないことに夏枝は怯えた。
管理人が、林の中の家の窓から顔を出した。
「病院のおくさん、どうしたんですか。今日は珍らしく子供たちは林に入ってこなかったようですがな」
親切で、いつもルリ子の頭をなでてくれる男だった。
夏枝と、よし子の母は顔を見合わせた。
よし子の母は、じつとしていられないようで、ドイツトーヒの林の方にかけて行った。夏枝は立ちすくんだままだった。
林の中で山鳩がひくく鳴いた。
「センセきらい、おかあちゃまもきらい。だれもルリ子と遊んでくれない」
ルリ子の言葉が再び思い出された。
夏枝はふらふらと歩き出した。滅多に陽に当ることのない林の中の路は、やわらかく湿っている。そのやわらかい土の上を歩くと不安が足もとからのぼってくるようであった。
窪地に入ると夏枝は何かにつまずいた。みると鳥の死骸だった。鳥の羽がその周辺に散乱していた。いやな予感がした。
林の中に夕光が漂っていた。煙っているような光であった。木の間越しに斜めに射す光はところどころにしま目を作っていたが、そのしま目もおぼろであった。
「ルリ子がいないのか」
低いが、厳しい啓造の声がした。夏枝はギクリとして後を振り向いた。
「ルリ子は、いつからいないのだ」
啓造の声はきびしかった。夏枝はおどおどして啓造を見た。他人のような夫の顔であった。夏枝は、こんな夫の顔を見たことがなかった。
「そんなおそろしい顔をなさっては、いや」
と今までの夏枝ならいったかも知れなかった。しかし今は、村井とのことが何となくうしろめたいのと、ルリ子の行方がわからないことで夏枝はいくじなく口ごもった。
「二時過ぎごろかしら……」
「なぜ、わたしにも探せといわないのだ」
啓造の言葉に夏枝は目をふせたまま、答えることができなかった。
「だれかに連れられて、お祭りでも見に行ったのじゃないのか」
はっとして夏枝は顔を上げた。
村井がルリ子を祭りに連れて行ったのかも知れない。これだけ探して見当らなければ、あるいはそうかも知れない。ルリ子は「センセきらい」といったけれど、子供のことだから格別深い理由がある訳ではない。ルリ子はもとも と人なつっこいところもある子で、だれにでもよくなついた。村井においでと手を出されれば喜んでついて行ったかもしれないのだ。それにしても村井は、なぜ断りもなしに連れて行ったのだろう。
「ひどい村井さん」
思わずつぶやいた夏枝に、
「村井? 村井がどうかしたのか」
啓造が聞きとがめた。
「実は今日村井さんがお見えになって……」
「村井が訪ねて来たのか。君は一度もそれをいわなかったね。どうしていわなかった?」
「どうしてって……」
夏枝をさぐるような啓造の目を見ると、反撥して言葉をついだ。
「忘れていたんですもの、村井さんなど」
「そうかね」
啓造の言葉が途切れた。夏枝の見えすいた嘘に怒りと妬心がむらむらともたげてきた。しかし啓造は反射的に自分を押えた。それが彼の性格であった。彼は静かな声になった。
「まあいい、それは。帰ったのは何時だ」
「あなたのお帰りになる十五分か二十分前でしたわ。きっとルリ子は村井さんに連れられて行ったのですわ」
夏枝は、村井に連れられて祭りを見ているルリ子を想像して安心した。村井は、啓造が明日帰る予定であったことを知っている。だから、あんな別れ方をしたものの、外で遊んでいるルリ子をみつけて祭りに行き、夕方また訪ねて来るつもりになったのかも知れないと夏枝は思った。
「やぁ、ルリ子ちゃんとすっかり仲よくなりましてね」
と夏枝を驚かすつもりかも知れない。それにしても、一言断ってから連れて行ってくれたら、こんなに心配することもなかったのにと、夏枝は啓造に従って林を出た。
「本当に村井が連れ出したのかね」
林を出ると、啓造は半信半疑の顔で夏枝をふり返った。
「あら、どうなさいましたの」
林の入口で顔を見合わせている啓造と夏枝に、よし子の母がエゾ松林の小道から出て来ていった。
「やぁ、どうも御心配をおかけ致しまして済みません。どうやら、家に釆た客が祭りに連れ出したんじゃないかということになりましてね」
「そうですか、それならよろしいんですけれど、こんなに探してもいなければ、きっとそうかも知れませんわね。わたくし誘拐かと思ったりして心配でしたけれど」
「誘拐ですか」
まさかというように、啓造はちょっと笑った。笑われて、
「ほら、ありましたでしょう。何人も誘拐された事件が。一年たたないのに、いやなことばっかり……。でも、よかったですわ、ルリ子ちゃんは」
そういってよし子の母が去ると、夏枝はまた何となく不安になった。
家に帰ると、食事を終った徹が疲れたのか食卓の傍にね むっていた。
村井に電話をかけると、村井は留守だった。
「まだ帰っていらっしゃらないんですって」
あるいは、その辺までルリ子を背負って来ているのではないかと、夏枝は落ち着きなく外へ出て見た。夏の日は長い。七時を過ぎても、まだ外は明るかった。丈高くなったとうきびの葉が風にさやさやと音を立てている。しかし村井の姿は見えなかった。家に入ると啓造が、いらいらとした表情で食卓の前にあぐらをかいていた。
「御飯にしましょうか」
「いや、いい。それより警察に電話する」
啓造は夏枝をなじり罵りたい思いを抑えて立ち上った。
受話器を取ろうとした時、けたたましくべルが鳴った。
「村井さんからですわ、きっと」
夏枝の言葉に啓造はちょっと妻をふり返って受話器を取った。
「もしもし夏枝さん」
(夏枝さんとは何だ! いつからなれなれしく奥さんが夏枝さんに変ったのだ)
啓造は唇をかんだ。
「もしもし、お電話をくださったそうですね。怒ってはいらっしゃらないんですか。今日はほんとうに失礼してしまって……」
村井は夏枝が受話器を耳に当てて、じっと聞いている姿を想像しているらしい。相手は夏枝と信じて疑わない声であった。
「…………」
「夏枝さん、もしもし聞えますか、やっぱり怒っていらっしゃるんですか」
啓造はうしろに来て立っている夏枝にだまって受話器を渡した。
「やっぱり怒っておられるのですね」
無言のまま啓造が聞いていた電話の言葉が何であるかを知って、夏枝は息をのんだ。
「もしもし、先ほどは失礼しました。あの……村井先生はルリ子をご存知ありません?」
夏枝はつとめて事務的な口調でいった。しかし啓造を意識して声がこわばった。
「え? ルリ子ちゃんがどうかしたのですか」
夏枝の顔色が変った。
「ルリ子が見えないのでございます」
「いつからです、それは」
村井と二人でいたあの時に、ルリ子は応接室を出て行ったきりなのだ。
「あの……」
口ごもって夏枝は啓造を見てからいった。
「ご存じなければ致し方ございません。失礼申し上げました」
村井がまだ何かいっていたようであったが、夏枝は受話器を置いた。
「村井も知らないのか」
啓造はあわてた。村井が知らなければルリ子はどこにいるのだ。啓造は、ぼう然と立っている夏枝をつきのけるようにして、受話器を取ると警察を呼び出した。
子供がいなくなったことを告げると、なーんだ迷い子ですかというような、のんびりした口調で警官は応答した。
「いやぁ、今年の祭りは迷い子が去年の倍ちかくもありましてね。今日は参りましたよ」
「いや、いなくなったといっても迷い子じゃないと思いますが」
啓造は腹立たしくなって、事情をかいつまんでテキパキと説明した。
「一人で街の方へでも出かけたんじゃありませんか」
「さあ、ふだんはこの辺から遠くへ行ったことがありませんが」
「ふだんはともかく、今日はお祭りですからね。だれか近所の子が出て行くのを見て、あとからチョコチョコついて行くということもあるでしょう」
祭りの警戒で人手不足なのか疲れた声であった。
「もしかしたら、誘拐ではないかと思いましてね」
自分の口から出た誘拐という言葉が、凶器のように啓造を脅やかした。
「誘拐ですか」
ちょっと言葉を途切らせてから警官が尋ねた。
「だれかに連れられて行ったのを目撃した人でもありますか」
「いや、それは聞いてはおりませんが」
「では電話か何かで脅迫でもされましたか」
「いいえ」
「多分迷い子になっていると思いますがね」
一応、係には連絡しておくといって電話は切れた。
「誘拐ならだれかの目にとまるはずですわ、まひるですもの」
夏枝も弱々しく香定した。
「しかし、この林をぬけて堤防つたいに行けば、どこの家の前も通らずに街の方に出て行くことはできるからね」
啓造の声は暗かった。
警察に一応の届けはしたものの、啓造も夏枝も不安はつのるばかりであった。警察だけを当てにするわけにはいかなかった。啓造は病院に電話をかけた。当直の医師が驚いて、
「すぐだれかを応援にやりましょう」
といってくれた。啓造も夏枝も、台所で洗い物をしている次子も、黙り勝ちであった。
少しの音にもビクリと肩をふるわせ立ち上る夏枝を、啓造は苦々しげに見つめていた。啓造は夏枝を愛していた。
それだけに、自分の出張中に、夏枝が村井と会っていたことを許すことができなかった。啓造ばかりか次子も徹もルリ子も家にいなかった。それはいかにも、
「男を引き入れて……」
という淫らな言葉で形容される、そんな感じをいだかせた。しかも、その間に幼いルリ子の行方が知れなくなったのだ。啓造は言葉に出したら際限なく、どなり散らしそうな自分を感じておしだまっていた。どなることを啓造は最も恥ずべきこと、軽蔑すべきこととしていたからである。
しばらくして病院から、中年の小使二人と若い外科医の松田、そして村井が来た。既に外はまっ暗になっていた。
「どうも……済みませんな」
啓造は頭を下げたが、村井につきさすような視線を浴びせずにはいられなかった。
夏枝と次子を宏に残して、一同は懐中電灯を手に林に入った。夜の林の樹々は、一本一本が不意に動き出すかのように不気味だった。懐中電灯を闇に向けると、そこにだれかがヌッと立っているような感じがした。
(こんな時間に、林の中にルリ子がいるはずがない)
そう思うと林の中を探すのが徒労のような気もした。
(村井がルリ子を知っているのではないか)
ふっとそんな思いがかすめて、啓造は立ちどまった。やがて川の畔りに出た。急に視界が開けて、星空が大きく拡がっていた。
「川に落ちたのだろうか」
ふだんあまり林に入らないルリ子が、この川まで一人で来るとは考えられなかった。啓造はきびすを返して再び林に入った。電灯を行く道に向けると、光りの中に長身の男がうつし出された。啓造は思わず声を上げるところであった。村井だった。村井の青白い顔がひどく不気味に見えた。
「びっくりしましたよ」
村井の方も驚いたようであった。
「失敬」
啓造は自分の驚きをかくして、さりげなくいってから、あ、そうそうというような調子でいった。
「君、今日ぼくの留守に釆てくれたんだってね。何か用事だった?」
村井はだまって懐中電灯で自分の足もとを照らした。
見本林、近所一帯、街に至る道筋と、一晩中の捜索に誰も彼もがつかれて、ひと眠りしようと辻口家に帰ったころは、もう三時を過ぎていて、夏の夜は既に白みかけていた。
夏枝は繰り返し昨日のことを思っては自分を責めた。
(あの時、わたしがルリ子をひざに抱きあげればよかったのだ)
小さな手をひろげて夏枝をかばうようにしたルリ子の、可憐な姿が思い出された。何ごともなければ、いまごろルリ子はこのふとんの中で、スヤスヤと眠っているはずであった。
しかし今は、小さな赤い花模様のふとんに、かわいい枕が主待ち顔にあるだけであった。
「おかあちゃまもきらい」
といったその時のルリ子のさびしさを思うと、夏枝はたまらなかった。まっくらな夜を幼いルリ子が、どこでどう過したことかと、盗れてくる涙にくもる瞳をこらして、明けかかった外をみていた。
風にさわぐ林のざわめきが聞えてくる。そのざわめきを聞きながら、夏枝は結婚したころの予感が思い出された。
この家で初めての夜であった。六年前であった。啓造の母はとうに死んで、この家には啓造の父と妹、女中の三人が住んでいた。啓造は大学の研究室にいたので新居は札幌にあった。
層雲峡への新婚旅行の帰途、この家に寄った。その夜は 激しい風が吹きまくっていた。林の樹々は口のあるもののようにわめいていた。夜がふけるにつれて、ますます風は吹きつのった。林はごうごうと土の底から何かがわき返るような恐ろしい音を立てていた。
その時夏枝は、この嵐が、自分の結婚生活を象徴しているような不吉な予感に襲われて、思わず啓造の胸にすがりついたのだった。
夏枝は、今、その時のいやな予感が当ったような気がした。あのピアノ線が切れたのも、不吉の前兆ではないかと彼女はおびえた。夏枝は幼いころからピアノを習って来たが、かつてピアノ線を切ったことはなかった。
ルリ子が応接室に入って来たあの時まで、時間が逆転してくれるものならば、美貌や財産はおろか、自分自身の命を失ってもよいと夏枝は思った。あれはたった十三時間前のことなのだ。今一度ルリ子が、
「おかあちゃま、どうしたの」
と応接室に入って来たあの時まで、時間を戻すことができるなら、しっかりとこの胸に抱きしめて決してルリ子を離しはしないものを。
(しかし、あの時だって抱いてやることができたのだ。あの時だって……)
涙があふれた。それなのになぜ、
「外で遊んでいらっしゃい」
などと、むごいことをいったのか。あの時わたしはルリ子と一緒にいるより、村井と一緒にいたかったのだ。それがわたしという女なのだと夏枝は自分を罵った
天罰てきめんという言葉を夏枝は身にしみて感じた。夫以外の男に心を寄せたその途端に、速やかに罰は下ったのだ。天罰でなくて何だろう。
(何とかしてあの時まで、さかのぽることはできないだろうか)
何かの本に、
「過ぎ去った時間だけは神でも取返すことはできない」
とあったことを夏枝は思い出していた。
寝椅子の村井に目をやると、ぼんやりと煙草を吸っている顔が、へんに淫蕩な不健康な感じであった。
(ルリ子を外に出したのは、この男といたかったからなのか)
夏枝は自分の愚かしさが悔やまれてならなかった。
とうとう啓造と夏枝と村井の三人は一睡もしなかった。
時計が五時を打った。すでに陽は上っている。次子が起き出して台所でゴトゴト音を立て始めた。
突然、玄関の戸が激しく打ちたたかれた。啓造も夏枝も村井もハッと椅子から立ち上った。啓造が真先に玄関に飛び出して行った。
戸をあけると長ぐつをはいた男が立っていた。近くの特定郵便局長である。
「お宅のルリ子ちゃんだ、死んでいる」
その顔が真青だった。歯の根も合わずにふるえている。
「死んでいる? どこに」
「川原だ、いま、釣に行って」
啓造は昨夜上りがまちに置いておいた往診カバンをとっさにかかえて家を飛び出した。
夏枝は啓造より先に走り出していた。村井は眠っている。松田と小使二人を文字どおりたたき起した。
啓造は林の中を走った。川原までの数百メートルの道が十里にも思えた。
死んでいると知らされても、自分のこの目で確かめなければ信じられなかった。
「よかった。死んでなどいやしないぞ。気絶していただけだ」
とルリ子を抱きかかえて来ることを想像しながら走った。死んでいるなどとは到底信じられなかった。もし信じたならば、今かすかに保っているかも知れないルリ子の命の火が、本当に消えてしまいそうで恐ろしかった。
どこで夏枝を追いぬいたかも気づかなかった。林をぬけて川沿いの小道を走った。浅瀬を飛ぶようにして渡ると、川原の石がゴロゴロとして幾度かつまずいた。
川原の遠くに白いものがひるがえった。
「あれだ!」
啓造は白く朝陽に光る布をめがけて、石によろけながら走った。夢の中で何かに追われている時のように、はがゆいほど足がのろかった。
近づくと、白く光る布はルリ子のエプロンであった。
「ルリ子の死」
ルリ子はうつ伏せになって倒れていた。小さな背に白いエプロンのひもが蝶のように風に揺れていた。
「ルリ子!」
ひざをついて抱き上げると顔を見た。蒼白だった。しかし死んでいるとはどうしても思えなかった。脈をとった。手がふるえて止まらなかった。
「あっ、脈がある!」
しかしその脈は、今駈けて来た啓造自身の指先の脈であった。
駈けつけた村井が、手をのばして閉じている瞼を開いた。瞳孔には何の反応もなかった。
ルリ子は血の気のない唇をかすかに開いていた。わずかにのぞいている虫くい歯が哀れだった。啓造はぼんやりと、今自分は夢を見ているんだなと思った。
その時啓造の体にぶつかるようにして、夏枝がルリ子の体を抱いた。
「ルリ子ちゃん! ルリ子ちゃん!」
夏枝がルリ子を強く揺さぶった。
「あっ、それは何ですー」
松田がしゃがんでルリ子の首をのぞきこんだ。
「院長! 首をしめられましたよ、これは」
松田が叫んだ。ルリ子の首には、はっきりと扼殺の跡があった。
「殺された? ルリ子が」
啓造は、ルリ子が殺されたとは夢にも思わなかった。心臓マヒか何かの急死だと思っていた。なぜか漠然とそう感じていた。
「殺されましたって?」
夏枝は叫ぶと同時に、つんのめるようにして倒れた。村井が危うく手をのべて夏枝を支えた。
「センセきらい、おかあちゃまもきらい。だれもルリ子と遊んでくれない」
といったルリ子の言葉を夏枝は再び聞いたような気がした。
村井のひざに気を失った夏枝を見ても、啓造は自分が何をすべきかわからなかった。にわかに頭脳が働きを止めたかのように、ぼんやりとしていた。
涙も出なかった。それでいて心のどこかが煮えたぎっていた。そしてもうひとつの心の片隅は、いたく静かであった。果てしなく、むなしかった。
今まで幾十人もの人間の死を、医師である啓造は見て来た。しかし、その何れの死よりも、ルリ子の死は切実さを持たなかった。信じられなかった。これは夢だと思いながら見ている夢のような感じであった。
ぼんやりと見上げた空に、白い雪がゆっくりと流れていた。
「今日も暑いな」
啓造は、そんなことを思った。そして何となく時計を見た。臨終の時に時計を見る医師としての慣いかも知れなかった。
「六時五分か」
彼が、低くつぶやいた時である。女中の次子や、いつの間にか集った近所の女たちのすすり泣きが聞え、つづいて大人たちの異様な雰囲気に怯えたのか、徹のカン高い泣き声が聞えた。
(徹が泣いている)
啓造は、はっと我に返った。にわかにルリ子の死が現実であることを思い知らされた。何かをしなければならないと思った。そのくせ何ひとつできなかった。ただどっかりと川原の上に座っていただけであった。
松田がルリ子をそっと川原にねかせるのも、夏枝を村井とだれかが抱えて連れ去るのも、ぼんやりとただ見ているだけであった。
「院長」
うかがうように啓造を見ていた松田が呼んだ。
「うん」
「警察に連絡させましたから、すぐ来ると思いますが……」
「…………」
「院長」
「…………」
「院長、警察に……」
「ああ、どうも」
啓造はうつろに答えた。
水底にいるように自分の動きが緩慢なのを感じながら、啓造はルリ子の手をそっと握った。小さく冷たい手であった。
「死んだのだ」
自分の指はあたたかく生きているのに、皮膚一枚をへだてただけの、そこにはルリ子の指が冷たく死んでいた。それが啓造には、ひどくふしぎに思われた。
「死んでいる」
再び啓造はつぶやいた。わが子が殺されたという、あり得べからざるむごい現実に、どのように反応してよいのか彼はわからなかった。結婚してこのかた、自分たちの将来にこのような恐ろしい日が待ち受けていようとは、ただの一度も予想したことはなかった。
啓造は今はじめて、何が待ち受けているかわからぬ「未来」の恐ろしさを知ったような気がした。
徹の泣き声が遠ざかった。啓造がふり返ると、次子に肩を抱かれて、しやくり上げながら去って行く徹の姿が見えた。
「だれが殺したのだ!」
啓造はやっと自分をとりもどして、つぶやいた。
何のために、一体だれが何の罪もないルリ子を殺したのか。そう思うと、啓造は憎しみに体中の血がいっせいに毛穴から噴き出るような気がした。
朝からじりじりと照りつける太陽を彼は見上げた。この太陽の下に、だれかルリ子を殺した奴がいる。そいつは今、とにかくどこかで生きている。そう思った時、啓造はすっくと立ち上っていた。
アメリカの飛行機が編隊を組んで、啓造たちの頭上を、音を立てて過ぎ去った。非情な響きであった。
ルリ子の葬式が終って十日ほどたった。早目に病院から帰った啓造は、二階の書斎の机にもたれて、ルリ子のことを考えていた。
(だれがルリ子を殺したのか、何のために殺したのか)
事件以来、いくども幾度も考えたことを、今また繰り返し考えていた。
葬式の時だった。焼香に村井の名が呼ばれると、彼は深くうなだれて立ち上った。その時、啓造は思わずはっとして村井をみた。瞬間であったが、村井が犯人ではないかと疑ったからである。
啓造は、今その時のことを思い出していた。彼の書斎の窓から、丈の高いストローブ松の林が十メートルほどすぐ先に見える。啓造は暗い木立にじっと目を向けたまま、その林の小道を犯人に手をひかれて、何も知らずにおとなしくついて行ったであろうルリ子を思い浮べた。
その犯人は村井であるように今もまた思われるのだ。長身の村井がルリ子の手をひいて、背をかがめながら歩いて行く姿を啓造は想像した。
(あいつのほかに、だれがルリ子を連れて行くか)
そうは思っても、村井がルリ子を殺す理由を見出すことはできなかった。それにもかかわらず、なお村井が犯人ではないかとの疑いを消すことはできなかった。あの村井の白い大きな手がルリ子の首をしめる様子まで目に浮んだ。
そんなことを思っている時、不意に窓の前に黄色い風船がふわりと現われた。ゴム風船は白い糸を引いてゆらゆらと揺れながら、風に吹かれて窓をよぎって流れて行った。それを見ると、啓造は急に涙がこみあげて顔を机の上にふせた。黄色い風船がルリ子の可憐な魂のように思われた。ルリ子を殺された悲しみが、十日たった今はじめて、体のすみずみまでしみ透っていくようであった。
妻も徹も家も地位も、何もかも一時に失ってしまった方が、まだこれよりは淋しくはないだろうとさえ思われた。
三歳のルリ子一人だけが、このうす暗い林の向うの川原で、何者かに殺されたということが憐れで耐えられなかった。啓造は歯をくいしぼって声をころして泣いた。
あの事件の前日の朝のことであった。ルリ子は出張する啓造の手に、いつものようにすがった。
「おとうちゃまのおてて大きいね」
ルリ子は小さな手を啓造の手に重ねていった。その時、啓造は、透きとおるような白いルリ子の手に、ふと不幸なものを感じたのだった。それがルり子との別れだった。
「おとうちゃまのおてて大きいね」
彼にとってそれは、ルリ子の短い一生の最後の言葉となった。啓造は涙を拭ったハンカチをしばらく目におしあてていたが、顔を上げると、じっと自分の手をみつめた。
啓造はじっと自分の手をみつめながら、この手はルリ子を救うことはできなかったと思った。大きいだけで何の役にも立たなかったと思った。
「おとうちゃまのおてて大きいね」
といったルリ子は、この父の手に安心を感じていたのだろうか。それとも、ただ大きいという驚きだけであったのだろうか。
啓造のこの手には、ルリ子の思い出は少なかった。ゆったりとした気分で、ルリ子を抱きあげたことが果してあったろうかと啓造は思い返していた。
昭和十八年の冬に生まれたルリ子は、戦時中で、病院の一番苦しいころに生まれたのだった。啓造の父が人手不足で過労のため倒れ、まだ二十八歳だった啓造が病院の経営を継いだ年だった。
医師も看護婦も薬品も、そして食糧もなにもかもが不足な中で、啓造は病院を一時閉鎖しようかと考えたことがあった。終戦になって預金が封鎖され、新円生活に入ってからは経営はいっそう困難になった。二十年来の事務長の敏腕がなければ、この危機をのりこえることができなかったかもしれない。美しかった病院の庭はばれいしょ畑になり、入院患者には自炊をしてもらうことになった。病院の内外はうすぎたなくなった。
そんなわけで啓造は朝はやく出勤し、夜おそくまで働くことで人員の不足をおぎなわなければならなかった。だからそのような心労の多い日々のなかで、ルリ子を抱くということもなかったのである。
わずか三年の命しかなかったルリ子の上にも、戦争の影がいろ濃くおちていたことを、今更のように啓造はしみじみと思いながら、ルリ子を抱くことのほとんどなかった自分の両手をながめた。
父である自分のこの手にだかれることの少なかったルリ子が、いかにも緑がうすく、しあわせがうすくおもわれて、あわれでならなかった。しかもあの幼い細いくびが何者かにしめ殺されたのかと思うと、啓造は大声でわめきたい思いだった。
(ルリ子を殺した犯人の手はどんな手か)
ふたたび村井が思い出された。しかし、病院であう村井ほ、とりたてて事件前と変ったところじゃなかった。
啓造は何の根拠もないこの疑いを恥じてたちあがった。階下にねている夏枝を見舞おうとおもった。夏枝はルリ子の死以来、床についたきりであった。
椅子から立ち上ったまま、啓造はためらった。あの日、村井と夏枝がひとつ部屋にいて、ルリ子を暑い戸外に追いやったことを忘れることができなかった。啓造は激しく妻を責めたかった。なじりたかった。しかしそれらの思いをじっと今日まで耐えてきた。夏枝がずっと病床にあったからである。
しかし今は、ルリ子があわれで思わず泣いた感情のたかぶりがあった。いつにもまして妻が憎かった。
川原で夏枝は村井にだかれるように気絶した。そのことを今になって啓造はねたましくおもいだしていた。
うつくしい妻をえてから、啓造の生来の嫉妬ぶかさは助長されたようであった。ふだんでも外出から帰った夏枝の顔が、いつもより生き生きしている時など、
(外で何かあったのだ)
と、啓造は疑心暗鬼で苦しくなることがあった。
「いやに生き生きしているね。何かいいことでもあったのか」
と口に出して気がるにひとこと問えばよいものを、ちょっとでも疑うと、うたがったことへの自己嫌悪もあって、
もう問いただすことができなくなる。
夏枝もまた、きかれなければ語らない口重なところがあって、それがある時は啓造をくるしめた。
今もまた啓造は、ルリ子が殺された日は、夏枝と村井が応接室に二人きりでいたことにこだわっていた。
「手は下さなくても村井と夏枝がルリ子を殺したことになるのだ」
啓造は声に出してそういうと書斎を出た。階段をおりると廊下があり、右手に応接室、茶の間、台所、つきあたりが勝手口で、廊下の左手は客間と寝室があった。そのまた向うに広い縁側がかぎの手になって女中部屋に続いている。
寝室にはいると、富枝はふとんの上におきて、こちらに背を向けてすわっていた。啓造が部屋にはいってきたのにも気づかぬのか、夏枝はじっと林の方をながめている。
「夏枝!」
きびしく声をかけたとき、タオルのねまきを着た夏枝の肩から不意に白い蝶が舞いたった。それは夏枝の肩の一部が白い蝶に化して、ひらりと舞いあがったようなふしぎな印象であった。
蝶は二、三度、とまどうように部屋のなかを往き来していたが、部屋をよこぎって明るい庭にでていった。
「夏枝」
啓造の声がやさしくなった。彼は妻があわれだと思った。憎しみが全く消えたわけではなかった。しかし目に見えて痩せ落ちた妻の肩から、白い蝶が舞いたつのをみたとたん、思いがけない愛情が胸いっぱいにひろがるのをどうすることもできなかった。
妻もまた、深いかなしみのなかで、村井とのことを悔いて苦しんだにちがいないのだ。啓造はルリ子を思うごとに、村井と妻への憎しみが深まるのをおさえがたかった。しかし今はその夏枝が無性にいとしかった。あわれだった。呼ばれても、なおじっと林の方を見たまま、もの思いにふけっている夏枝のかなしみが、そのまま啓造の胸につたわってくるようであった。
「夏枝」
ふたたび妻を呼んだとき、茶の間の電話のベルが鳴った。受話器をとると、
「警察の和田です。辻口さん、ホシがわかった!」
ルリ子の事件で懇意になった和田刑事の声であった。
「犯人が! わかりましたか!」
啓造は村井の名をちらりと思い浮べた。声がうわずった。足がばらばらになったかと思うほどガクガクした。
和田刑事の声が遠くなった。
「え? え? だれです? 犯人は」
「あ、もしもし、電話が遠いですね。聞えますか?」
「もしもし、聞えました。犯人はだれです?」
「佐石土雄、佐藤の佐に石ころの石、佐石土雄という男に心当りがありますか?」
村井ではなかった。根拠は何もないのに、啓造は村井の名が告げられるのではないかと思っていた。心のどこかで、村井が犯人であってはならないと思いながら、しかし、そうであってほしいとねがっているものがあった。そ
の期待がはずれて啓造は一瞬ポカンとした。
(佐石土雄?)
どこかで一度聞いたことがあるような気がした。たくさんの患者の名前をいちいちおぼえることはできなかったから、心あたりがあるかといわれれば、あるようでもあり、ないとはいいきれないものがあった。
「心あたりがあるんですか」
啓造の返事がおそいので、和田刑事は少しせきこんでたずねた。
「いや、ありませんが……」
あるいは一度でも診察したことのある患者かも知れない。
「ありません」
と、いってから啓造は思いきりわるく、案外よく見かける男かも知れないと思ってみた。
「全然心あたりはないんですね」
「ないようです。なにせ仕事が仕事ですから、一応カルテを調べてみてからご返事をします。ところでその佐石土雄というのはどこの人です? どこにいます?」
そういっているうちに、啓造は見たこともないその男に、いいようのない怒りと憎しみが燃え上るのを感じた。憎しみのために急激に体がふくれあがるような感じであった。その男におどりかかって締め殺してやりたかった。そうしたところで何の罪にもならないような、罪悪感のともなわない殺意で受話器を持つ辛がぶるぶるとふるえた。
「実はですね、佐石土雄は死んだんですよ」
「死んだ?」
啓造は耳を疑った。たった今、そいつの首を力いっぱい締め殺してやりたいと思っていた矢先ではないか。
「申しわけないんですがね、留置場で首をつりましてね」
「一体どういうことなんです? それは」
冗談じゃないと啓造は唇をかんだ。
「そいつは何で、何の恨みがあってルリ子を殺したんです?」
「それが、札幌からの電話なんで、詳しいことはわかりませんが、わかったらすぐお知らせします」
啓造は受話器を耳にあてたまま、ぼんやりと立っていた。しばらくして、電話がとうに切れているのに気づくと、彼はのろのろと電話の前をはなれた。
(なぜ、ルリ子が佐石土雄という見も知らぬ男に殺されなければならなかったのか)
依然として、それはわからなかった。
(なぜ、ルリ子はそんな男について川原まで行ったのだろうか)
啓造はどうしてもあの日のことを忘れることはできなかった。家には誰もいなかった。その家の中には村井と夏枝の二人きりだったのだ。次子と徹が留守ならば、せめてルリ子をかたわらにおくぐらいのたしなみが、人妻の夏枝にあってもいいではないか。誰もいない家の中に夫以外の男を入れることはないのだ。
「ルリ子はね、相手さえしてあげたら、一日中でも家にいるんですのよ」
かつて夏枝がいったことがあった。そんなルり子を宏の中で遊ばせておくのはむずかしいはずはなかった。
ルリ子を見知らぬ男の手に追いやったのは、村井と夏枝ではないのか。犯人の佐石という男はもとより憎い。だがその憎む相手は、啓造が一言の憎しみの言葉もたたきつけぬうちに自殺してしまった。この上は、村井と夏枝をにくむより啓造の気持のやりどころがなかった。
寝室にもどると、夏枝はさきほどと同じ姿勢で背を見せてすわっていた。廊下をへだてた茶の間でのいまの電話が、聞えないはずはない。だが夏枝は微動だにせずじっと床の上にいた。
(犯人のことを知りたくはないのか)
憎しみの目で夏枝をみつめていた啓造は不安になった。不安な思いで妻を見なおした啓造はぎくりとした。先ほどから同じ姿勢でじっとすわっているその姿は、生きている者の姿とは思えなかった。
啓造はズカズカとぼたん色の掛けぶとんをふんで夏枝の肩をだいた。
「夏枝!」
うつろな目だった。死人の目よりもなおうつろだった。
「犯人がわかったんだ!」
夏枝はかすかに首をふった。
「犯人は死んだよ」
夏枝はのろのろと啓造をみた。ふたたび目を庭にもどすと、うつろだった目が異様に光った。
「あ、あれ、あそこにルリ子ちゃんが」
指さして夏枝はよろよろと立ちあがった。
「ばかな!」
啓造はもがく夏枝をだきとめた。
「ルリ子ちゃんのところに行かせて、ほら、あのナナカマドの木の下に」
啓造は夏枝の目をのぞきこんだ。
「狂ったのか夏枝、ルリ子は死んだのだ。庭にいるはずがないじゃないか」
別人のようにやせほそった夏枝の肩を、啓造は思わずだきしめた。
「灯影」
犯人が自殺して一週間たった。啓造は、この一週間いくたびも読みかえした新聞を、今もまた書斎の机の上にひろげていた。
金色だった夕焼の雲が、徐々にむらさきに変って行き、林の上にはカラスが群れて、さわがしかった。
(留置場で首つり自殺
ルリ子ちゃん殺し犯人)
という四段ぬきの大きな活字をみただけで、啓造はまた胸がいたんだ。
「自殺するぐらいなら、ルリ子を殺さなきゃよかったんだ」
にがにがしくつぶやいたが、新聞から目をそらすことはできなかった。
(旭川市外神楽町医師辻口啓造氏長女ルリ子ちゃん(三つ)が絞殺された事件を捜査中の札幌署は、八月二日午後、札幌市内で容疑者として旭川市外神楽町日雇佐石土雄(二八)を逮捕。佐石はルリ子ちゃん殺しを自供直後、同署留置場独房で、着ていたシャツで首をつって自殺した。
同署では二日朝、佐石の泊っていた宿いさみ屋の主人長坂七郎さんから「赤ん坊連れの挙動不審の男がとまっている」との通報を受け、午後三時すぎ、佐石が外出するのを待って不審尋問をしたところ、身をひるがえして逃走、通行人の協力で間もなく署員に逮捕された。
最初佐石は「悪いことはしていない。ただ逃げただけだ」といっていたが「夜うなされるそうではないか」と問いつめられて、去る七月二十一日、旭川市外の美瑛川蝉でルリ子ちゃんを殺したことを自供した)
階下でうたう声がした。
「カム、カム、エブリボディ、ハウ、ドユー、ドゥー、アンド、ハウワーユー」
終戦と同時にはやりだした、証誠寺のふしの英語の童謡を、徹がうたっている。ルリ子もこの歌を徹といっしょに幼い声で歌っていたのを啓造は思い出した。今にもルリ子が共に歌い出すのではないかと思われた。啓造は、少し糊のききすぎた浴衣の胸をはだけて、新聞に視線をもどした。
佐石の写真が載っていた。二十八歳よりふけて見え、三十五、六には見えた。佐石はぼんやりと、どこかを見ているようでうなだれてもいなかった。しかしがっちりした体格に似合わずに何か力のぬけたさびしい感じに写っている。顔は、意外に整った顔で、眉のこい額のひいでたあたりには、知的な感じすらただよっていた。やや厚い唇のあたりが甘い感じだった。タコをしていたという経歴が不似合なぐらいだった。
(こいつがルリ子を殺したのか)
啓造は眉根をよせて、写真をみつめた。いかに敵意と憎しみをもってみつめても、犯人の顔には凶悪なものがなかった。ルリ子が手をひかれてつれられて行ってもふしぎではなかった。
写真の下に〈犯人佐石のたどった道〉という記事があった。
〈犯人佐石のたどった道。
佐石の語ったところによると、佐石は東京の生れで幼時両親を関東大震災で一時に失い、伯父に養われて青森県の農家に育ち、昭和九年の大凶作に十六歳で北海道のタコ部屋に売られ、後転々とタコ部屋を移り歩いた。昭和十六年入隊、中支に出征中戦傷を受け、第二陸軍病院に後送、終戦直前渡道、日雇人夫として旭川市外神楽町に定住、結婚した。内縁の妻コトは女児出産と同時に死亡〉
これもあんしょうできるほど何べんも読んだ記事であった。
(父親の辻口啓造氏は「警察から聞いていました。今は何も語りたくありません」と沈痛な面持で語った)
という記事も、読みかえすごとにわびしかった。
夕焼雲がすでにくろくかげっていた。啓造は、暮れのこる空をみながら、和田刑事の語ってくれたことを思い出していた。
「何せね、生れたばかりの赤ん坊を残されて女房に死なれたわけで、第一に困ったのは乳ですよ。それにおしめはとりかえなければならん、洗わなければならんというんですからね。ギャアギャア泣かれても、どうしようもないわけですよ。それに働きにいかなきゃ、口がひあがってしまいますからね。さいわい間借りしていたところのおかみさんが親切で、赤ん坊に湯もつかわしてくれたりしたらしいんですがね。あの日はお祭りで、続けて行っていた道路工事が休みだったそうですよ。暑い日でね、赤ん坊に泣かれて、いいかげんくたびれていた。ええい、赤ん坊なんかおいて泳ぎにいけとばかり、家を飛び出したらしいんです。そしてお宅の前を通りかかったちょうどその時、裏口からルリ子ちゃんがかけ出してきたっていうんですよ。その時、おれの子もせめてこの子ぐらいの年になればと思って立ちどまったんだそうです。するとルリ子ちゃんも立ちどまって佐石を見あげた。メンコイな、川に行こうかというと、ウンとすぐついていったというんですね。ところが、川に行くと祭りのせいか、だれもいない。ルリ子ちゃんがさびしくなって泣き出した。自分も泳ぐつもりで裸になったところだから、泣くなとすかしたらしいが、おかあちゃま、おかあちゃまとますます泣きたてたというんです。まあこれは間宮刑事の語なんですがね。赤ん坊の泣声でいいかげん疲れていて、神経衰弱だったのかも知れんというのです。自分の子ばかりか、よその子にまで泣かれると情けなくなってカッとした。おどすつもりで首に手をかけたら、すぐぐったりとなったので、驚いて逃げたと、こういうんですよ。佐石は自供後ひどく疲れた顔で、家内に死なれてから二十日間ロクにねむらなかった、これからひるねをさせてくれといったそうで、発作的な自殺じゃないかと思いますね」
和田刑事の語ったようなことも、新聞に書かれてあった。
「通り魔のようなものだった!」
啓造はつぶやいた。
(もし、ルリ子が一分あとに家を出ていたならば、犯人の佐石と顔をあわすことはなかったろうに)
ルリ子の不運というよりほかはなかった。
(いや、佐石にとっても、やはり不運といえるかもしれない。ルリ子に会わなければ、彼も殺人を犯さなかったわけだからな)
そう思うと、啓造は「偶然」というものの持つおそろしさに、身ぶるいした。気がつくと、部屋はうすぐらくなっていた。先ほどまで、林の上になきさわいでいたカラスたちも、しずかになった。啓造は電気スタンドのスイッチを押した。
「おかあちゃま、おかあちゃまとルリ子ちゃんが泣くので……」
といった和田刑事の言葉を思い出して、啓造は何ともいえない気持だった。「おかあちゃまとルリ子が泣きさけんでいた時に、夏枝、お前は村井と何をしていたのだ」
と、精神病院に入っている妻に、問いつめたい思いであった。
「ルリ子ちゃんが、ナナカマドの下に……」
と夏枝が指さしたとき、啓造は、
(狂ったのか)
と、ギクリとした。
(精神分裂症かもしれない)
と、とっさに彼はおもった。夏枝の人になじみにくい性格から考えても、分裂症になる可能性がないとはいえなかった。
しかし、先輩の精神科医、森の診断では、
「強度の神経衰弱ですよ。神経衰弱でも、幻視をともなう例がありますからね。入院して、電気ショックをやれば、まあ半月でエンテラッセン(退院)ということになりますね」
ということで、啓造は安心した。
ルリ子の幻影をみるほどの、深いなげきであったのかと、夏枝があわれでならなかった。そのようになるまで苦しんだ夏枝を、
(手をくださなくても、ルリ子を殺したのはお前と村井だ)
と、心の中で責めつづけていた自分が、ひどく冷酷な人間に思われた。今は何もかも許すべきだと思った。これからは、いたわりあって三人で仲よく暮そうと、彼は思いを新たにしていた。
しかし、夏枝は思ったより回復が早かった。医師もおどろくほどに、ぐんぐんともとにかえった。食欲もでて、少しずつ肥ってきた夏枝をみると、啓造はなぜか、その順調な回復を、すなおに喜ぶことができなかった。
(案外に、しぶとい神経だ。よく気も狂わんでいられるものだ)
と思うことさえあった。こんなにひどい日にあった妻を、まだ許していない自分に気づくと、啓造は自分で自分がやりきれなくて、電気スタンドのまわりを飛ぶ大きな蛾を、いつまでもみつめていた。
啓造は、やがて再び新聞に日をおとした。
(憎いには憎いが、考えてみると佐石もあわれな男だな)
そう思ったときだった。
「おとうさん、次子ねえちゃんと、おとなりで遊んできてもいい?」
階下から徹の声がした。
「ああ、でも遅くならないうちに帰るんだよ」
徹の遊び相手にもならず、この頃は夕食もそそくさに二階の書斎に、とじこもってしまう自分に啓造は気づいた。
(徹も、さびしいだろうな)
そうは思っても、今は遊んでやる気にはなれなかった。啓造は、再び佐石のことを考えた。わずか十六歳で監獄部屋とよばれる、おそろしいタコ部屋に売られた、孤児の佐石があわれでもあった。タコがすっばだかに赤いふんどし一つで、道路工事をしているのを、啓造は、学生時代に旅先でみたことがある。
(あれが人間か)
と思われる恐ろしい形相の棒頭が、けもののようにわめいていた。過酷な労働にたえかねて脱走すると、鉄砲をもった棒頭たちが、軍用犬数頭とともに、それを追い、運わるく連れもどされた男は、他へのみせしめに、川の中にさかさにつけられたり、背に焼けひばしをつけられる話も、その時きいた。
北海道や樺太の鉄道、道路、河川の工事などは、前借金で重労働する、このタコと呼ばれる人夫達のぎせいによって、進められたことを、啓造も知ってはいた。しかし、学生時代に見たタコの悲惨さは、想像以上であった。だから、憎い犯人ではあっても、佐石が十六歳の時、養父にタコ部屋に売られたということには同情ができた。
(タコ部屋から軍隊に入り、戦地で負傷をして……とすると、なんだ、この男は自由な社会というものをほとんど知らないんじゃないか)
啓造は、佐石をただ憎いと思うばかりで、今日ほど彼の過去を思いやることはなかった。結婚して一年たつかたたぬかで、生れたばかりの赤ん坊をおかれて妻に死なれた佐石の心のすさみが、わかるような気がした。
(佐石は、ルリ子を殺す意志はなかったのではないか)
そうも思われた。長年の労働と、軍隊生活で、佐石の手はあまりにもカのありすぎる手になっていたのかも知れない。かげんをしてカを出すということも忘れていたのかも知れない。
「殺された」
と啓造は思いたくなかりた。佐石の過失だったと思いたかった。憎しみにもえ、殺意のあふれる手で、力一ぱいしめ殺されたのでは、ルリ子があまりにかわいそうであった。佐石がおそろしい形相をしてはいなかったと思うことによって、その時のルリ子の恐怖が少なかったと思いたかった。そう考える方が、父親としてはまだ耐えられそうであった。
そんなもの思いにふけっていると、
「誰もいないの? 泥棒していくわよ」
階下で、若い女の声がした。
「どなたですか?」
啓造は、浴衣の衿をかきあわせながらいった。
「どなたですかは、おそれいったわね。いやになっちゃう。この辰子さんの声もわすれるなんて。早くおりていらっしゃい」
喪の家に、無礼なほどの明るい声である。夏枝の学校時代からの友人である。
「やあ、辰子さんにはかないませんね」
啓造は、救われるような思いで階下におりていった。
「どこも、かしこも、あけっ放しじゃない? 次ちゃんも徹くんも、どこへいったの。夏の着物ゴッソリ盗んでいけばよかった」
辰子はニコリともしないで、仏壇の前にすわって啓造を見あげた。
「その節は、ごていねいにどうも……」
啓造がキチンと両手をつくと、辰子は黒白のたてじまの単衣お召しのたもとから、煙草を出して火をつけながら、
「いやになっちまう。ここは、夏枝もダンナも、そろって、さようしからば、ごめん遊ばせなんだから。そんな他人行儀は、私には無礼だぐらい知っているといいのにねえ」
と、啓造にも煙草をすすめた。かるく目をつむって、煙草をくゆらせると、
「大変ね」
すっと声を落した。思いやりのにじみでた声であった。啓造がだまってうなずくと、辰子はちょっと目頭をおさえたが、再びハキハキと、
「そうよね、大変よ。大変という言葉はこういう時つかうのね。ルリ子ちゃんは死んでしまう、夏枝はパアになる。こんな大変なことはどこにもないわ。今ね、奥方のところへ行ってきたの。昨日と今日はダンナが見舞いにこないから、くるようにいってなんて、ゼイタクなことをいってたわ。元気だったわ」
花柳流の名取である辰子は、うつくしい手つきで煙草の灰をおとした。
「徹くんは?」
「次子とお隣りへあそびにいきましたよ」
「そう、徹くんも淋しいわね。ところでダンナはどうなの?」
辰子は「どうなの」というところだけは、優しくいった。丸顔の親しみやすい顔立ちで、かっきりと彫ったような二重まぶたの目がいきいきとしている。
「辰子さん、今日はゆっくりとしていってくれませんか」
啓造は年下のような口調になった。辰子の前にでるとなぜか自分の心にひどく素直になる感じだった。
辰子はそれにはこたえずにいった。
「お盆前だというのに、今夜はすこし涼しすぎるわね、縁側のガラス戸をしめましょうよ。ダンナも手伝ってちょうだい」
美しい足さばきで、暗い廊下に立ってゆく辰子のうしろ姿を啓造は見おくった。
開け放っていた縁側の戸をしめると、にわかにガラス戸越しにみる夜がふかくなったように思われた。
辰子は、お茶を入れてくると、横ずわりにすわっていった。
「あ、そうそう、三日ほど前にね、札幌に行ったら、ニシムラの喫茶で、高木さんにバッタリ会ったわ。辻口どうしてる、かわいそうなことをしたなあっていってたわ。あの人がかわいそうなんて言葉をつかうと、ちょっと身にしみるわね」
「ああ、高木は元気でしたか」
「相変らず元気よ。あの人って生きている間じゅう元気で、丈夫で、にくらしいみたいって人よ。この間も、とてもにくらしいことをいってたけれど……」
めずらしく、辰子はいいさしてロをつぐんだ。
「何ていっていましたか?」
「何といわれてもつらくはない?」
辰子はちょっと、きびしい表情になった。
「さあ、いわれてみないと……」
「そうね、あなたがた、お友達だからいうわね、高木さん、乳児院だかの嘱託をしているでしょう? あそこに犯人の子が、あずけられているんですって」
啓造は、自分の膝にきた小さな蛾をちり紙にとってからいった。
「そうですか。そういえば市の乳児院に、犯人の子があずけられたとか和田刑事がいってたようですね。そうだ、高木の関係しているところですね、あそこは」
「彼、奇縁だなあって、いっているの。それからが憎らしいのよ。辻口の奴、汝の敢を愛すべしと、よく学生時代におまじないのようにいっていたが、まさか、いかに何でも犯人の子をひきとって育てるとは、いわんだろうって」
仏壇に飾ってあるルリ子の写真に、啓造の視線がいくともなしにいった。
ルリ子は白い服を着て、かがんで何かの花をさし出して笑っていた。すぐに立ちあがってこちらに走ってくるような、そんな感じの写真であった。
「ばかな! 犯人の子を引きとるなんて、そんなことができるもんか!」
と、口まで出しかかって、啓造は口をつぐんだ。いつか徹に「敵とは何か」とたずねられたとき、「敵とは仲よくしなければならない相手だ」といった自分の言葉を思い出したからである。
だまっている啓造をみて、辰子がいたわるようにいった。
「わたしね、高木さんに、それが親友にいう言葉なのと、きめつけてやったの。汝の敵を愛せよなんていっていたときは、辻口さんに敵がいなかったからじゃない? っていったら、辻口って辰ちゃんが思っているより人物なんだぜっていってたわ」
啓造は答えなかった。辰子もだまってお茶を飲んでいる。沈黙がつづくと啓造はふいに、
(今、この家には辰子さんと二人っきりだ)
と思った。
「高木は妙に、買いかぶるんですよ。わたしは、敵の子を引きとるほどの人物じゃありませんよ」
この家に、辰子と二人っきりだと気づくと、啓造は沈黙をおそれて口をきった。
「そうね。わたしもそう思うわ。みかけは聖人君子だけれど。聖人君子なんて、ちょっとした化物の部類よ、大ていは眉つばものよ」
辰子と二人でいることに、おそれる自分を見すかされたような気がした。
「化物はひどい。もっとも、わたしは聖人君子じゃないですがね」
啓造は苦笑した。苦笑してから、
(ほんとうに佐石の子を引きとってみようか)
一瞬、そんな思いが心をよぎった。よぎっただけで粟肌がたった。
(まちがったって、佐石の子など育てることができるものか)
「どうしたの、その顔」
ゆがみそうな表情の啓造に、辰子の声がやさしかった。啓造はさりげなく、
「いや、この事件で懇意になった和田刑事がね、かわいそうなのは、生後まもない佐石の子だというんですよ。母の死も父の首つりも知らずに、オッパイさえもらえば、ねむっているんだって」
「そうなの、そりゃかわいそうね」
「辰子さんも、かわいそうだと思うんですか。わたしはそれをきいた時、腹が立ちましたよ。和田刑事にもいってやりましたがね、殺されたルリ子の方が、何倍かかわいそうじゃありませんか」
「勿論、ルリ子ちゃんはかわいそうよ。かわいそうなんてものじゃないわ。むごすぎるもの。でもよ、犯人の子だってかわいそうよ」
「そうですかね」
啓造は釈然としない顔つきだった。
「もしルリ子ちゃんが、父親も母親もなくて、一人で生きていくと思ってごらんなさい」
辰子にそういわれてみると、小さな子が一人で生きていくのは、一人で死んでいくのと同じように、あわれであった。
「もし、ルリ子だったら、かわいそうですね」
「もし、自分の子だとしたら、もし自分だったら……というように、いちいち換算しないと、ものごとを判断することができないのね。人間ってものさしがいくつもあるものね」
「そうかも知れない。公平に考えると佐石の子もかわいそうといえなくはないですよ」
しかし啓造には、和田刑事や辰子のように、単純にかわいそうだといいきれないものが残った。
(佐石の子を引きとってみようか)
と、先ほど一瞬でも思った自分が許せなかった。
だが、この心に浮んだ一瞬の思いが、やがて彼を苦しめ、夏枝を苦しめることになろうとは、啓造もその時は、知ることができなかった。
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朗読劇「悲劇のカルテット」『氷点』
(1)啓造の叫び
(2)村井と夏枝
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