私は今、BS朝日で全国放送された三浦綾子生誕100年記念番組「いのちの言葉つむいで」を観て、このブログを書いている。敗戦という言葉を表題に使ったのは、日本とイタリアの両国が共に敗戦国であるという単純な事実からそう書いたのであって、別に政治的な主張をしようなどという意図は毛頭ないことを、あらかじめ断っておく。
まず綾子さんの生誕100年を記念するにふさわしい、優れた番組が創られたことを共に慶び合いたいと思う。私は特に文芸評論家である黒古一夫先生の、「人の生死を扱うのが文学の王道であって、三浦文学は人はいかに生きるか、死んではいけないのか、つまり人の生死を扱っている」から多くの人々に読まれるのであろうというところに感銘を受けた。
その上でこの番組が質の高い音楽プロデュースの上に成り立っていることに気付いたのである。具体的には、綾子さんの生きていく上での苦悩を表現する時に使われているカッチーニの「アヴェ・マリア」である。カッチーニの名前はご存知だろうか。私の持っているアヴェ・マリア名曲集には、クラシックの偉大な作曲家として名高いシューベルト、バッハ、ブラームス、ブルックナー、エルガー、ヴェルディ、リストの名前が並んでいる。その中の三番目に挙っているのが聞き慣れない名前カッチーニなのである。番組の中では効果的な使われ方をしているが、残念ながら4分07秒に及ぶこの曲の全曲を使っているシーンというのはない。ぜひCD店で手に取って聴かれることをおすすめする。
今年の2月、プーチンのロシアがウクライナに攻め込んだ時には、二度の世界大戦を経験した人類はもはやこの21世紀に本格的な戦争に及んだりすることはあるまいと高をくくっていた。だから今回のプーチンがしかけた戦争には全世界が驚愕した。そして3月、4月と戦火が止まず、拡大していく中で、静かに全国各地でウクライナを舞台にしたある映画がリバイバル上映されるようになった。それが制作から半世紀を経た不朽の名作『ひまわり』である。この映画の哀愁を帯びたテーマ曲を作曲したのが、かの映画音楽の巨匠と謳われたヘンリー・マンシーニである。マンシーニが作曲した映画音楽を列挙するとすれば、「ムーン・リバー」「酒とバラの日々」「子象の行進」「ある愛の詩」「ピンク・パンサー」「刑事コロンボ」などが挙げられるだろう。そうした音楽を創ってきたマンシーニが、戦争がもたらした悲劇を題材にしたイタリア映画の作曲を依頼された時に頭に浮かんだのが、短調の曲だったのは必然だっただろう。今までに何度もテレビで再放送されてきた『ひまわり』だが、今年の6月に地上波(北海道ではHBC)で再放送されたので、観た人は多かったと思う。あの映画のミラノ駅でのラストシーンは何度観ても胸を締めつけられる。こんなひどい戦争を二度と起こしちゃいけない。ほとんどの人はそう思うのではないだろうか。
そして、人々が綾子さんの作品『青い棘』『母』『銃口』を読む時も、同じ想いを抱くのではないだろうか。私達案内人も、これから何度でも三浦文学の持つ価値を再発見し、人々に伝えていくことだろう。その時、脳裏に浮かんでいるのは、私の場合でいえば、カッチーニの「アヴェ・マリア」ではないだろうか。そんな風に思えるのである。ところでこの「アヴェ・マリア」は16世紀の作曲家ジュリオ・カッチーニ作として定着しているが、実は現代の作曲家によるもののようで出典もはっきりとはしていない。
最初に私は「日本とイタリアが敗戦国であるのは単純な事実」と書いたが、これは誤解を生む書き方かもしれない。イタリアは降伏した後、1945年7月には日本に対して宣戦布告をして、戦勝国と同じような立場で終戦を迎えている。しかし国内は内戦が続き市民生活はボロボロで、戦後も敗戦国のような顔をしてぐったりと戦後世界を生きていくことになった。だからこそ『ひまわり』のような名作が生まれたのである。それに対して一方の日本はどうだったか。
日本は、敗戦国であるのにその事実を認めようとはしない人間があまりにも多すぎるのである。白井聡氏の言う「敗戦の否認」である。だからいつまでたってもダラダラと負け続けるのである。
朗読劇「『道ありき』萩の丘にて」の冒頭で、校長先生が、「堀田先生、しっかりしてください。私は校長として、はっきり申し上げます。我が国は戦争に負けたのです」というセリフがある。この場合、私は「しっかりしてください」と言われているのは堀田綾子だけでなく日本国民全員のように思う。
三浦綾子という作家を持てたことは、日本人にとって幸いなことであっただろうと私は思っている。
by 三浦文学案内人 三浦隆一