【案内人ブログ】No.11(2018年2月)

〇案内人をして思うこと

            三浦文学案内人 山崎健一

 

三浦文学案内人講座を修了して、三浦文学案内人に委嘱されて、案内人をしてきました。
案内人同士のシフトを組んで文学館で待機し、来訪される方に案内の希望をお聞きして案内する場合や、文学館から、電話やインターネット等で案内希望の予約を受けて、その時間に合わせて文学館に出かけて案内をする場合もあります。

三浦綾子は小説を1964年(昭和39年)の「氷点」から「銃口」まで30年間、書きつづけました。そして1999年(平成11年)三浦綾子は亡くなり、亡くなってから現在まで18年たちました。三浦綾子の小説や作品は書かれてから短くても18年、あるいは初期のものでは50年以上経っています。

案内人として、その作品や三浦綾子という作家の人柄などをどこまで、どうお伝えするかは、私にはとてもむずかしいのです。

 

小説「氷点」の物語の辻口啓造と妻の夏枝、主人公陽子らが暮らす家は、外国樹種見本林 (「見本林」ともいう) の入口の丈高いストローブ松の林の庭つづきにありました。

旭川に来て、三浦綾子がその林に一歩足を踏み入れた時、名状し難い感動に襲われた*1という見本林の中を歩いて木の香りがふり注いでくるのを体感して、「氷点」の世界の一端がよくわかりましたと言われる方もあります。

同感です。

(文学館もまた見本林の中に建っています)

その一方、三浦綾子は「氷点」を書きながら、人間の社会はなぜこんなにも幸福になりにくいのかを考え、罪の問題につき当たった。そして、書きすすめるのがむずかしくなった時、三浦綾子は、旭川六条教会の川谷威郎牧師の説教が、どれほど支えになり、また示唆を与えられたか計りしれない*2

と書いています。

ルリ子を殺した犯人の子という冷酷な運命を知らされて、主人公陽子は人間の中に流れる汚れた血に気づく。自分一人さえ正しければと思って生きて来た誤りに気づく。罪にめざめ、原罪を意識し、自殺しようとした。

三浦綾子はこの原罪に対する意識を書くために、「氷点」を書いた。その意図するところを、受け取ってくれた人もあるし、そうでない方もある。陽子の遺書を書く前の心理をもっと描写すべきであったかと思う。*3

と書いています。

三浦綾子は、「氷点」で原罪を訴え得ただろうか。陽子の遺書を書く前の心理をもっと描写すべきであったかと書いています。私自身が三浦綾子の意図をほんとうに理解できているかどうかわかりませんが、「三浦綾子は小説『氷点』で原罪に対する意識を書いています」と言うくらいまでは案内できるかもしれません。しかし、それ以上に「原罪」とか「原罪に対する意識」についてお伝えするのはむずかしいのです。

もちろん、辞書をひらけば「原罪」とか「意識」の説明を読むことができますが、さらにそれに加えて、辻口家の夫婦、親子、兄妹の人間関係、それぞれの感情、性格・行動等の理解が出来ていなければならないし、それ以上に、川谷威郎牧師の説教に支えられ、示唆を与えられ、三浦綾子が、生みの苦しみを持って書いたであろう罪の問題についてほんとうに理解したと言う自信がありません。

 

 

三浦綾子は汽車で上富良野を通過したとき、「続泥流地帯」のラストシーンを思い出した。登場人物の深城節子が深雪楼から曽山福子を連れ出して旭川に逃げていくのに乗った汽車が、汽笛をならしてもくもくと黒煙を上げて、主人公の石村拓一と耕作兄弟が稲刈りをしているところに近づいて来た。耕作は息をつめて汽車を見た。

三浦綾子は、「続泥流地帯」の小説の一文を思い出しながら、「何だか、ほんとに耕作が立っているような気がするわね」と同行の夫の光世さんに言った。そして「あ、そこよ! 耕作の家は!」といって持っていた白いハンケチをふった。小説では、福子が逃げ出すことができたら、白いハンカチをふる約束だったのだ。

小説と現実が、三浦綾子の胸のうちで一つになった。とうに終わったはずの小説が、再びよみがえる。50年前の出来事が現在のことに思われる。「続、泥流地帯」は、そのような小説なのである。*4

 

三浦綾子にとって続泥流地帯は、小説と現実が一つなり、その境がないだけでなく、過去と現在の境もないように思われます。

三浦綾子が感動を持って書いた小説が、色あせないでいつまでも読まれ続ける理由がここにあるように思われます。

 

 

*1 この土の器をも 28

*2 この土の器をも 31

*3 ごめんなさいといえる「著者から読者へ-新刊書しょうかい氷点-」

*4 ごめんなさいといえる「汽車の窓から」

 

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