中城ふみ子――三浦綾子と同年生まれの歌人

北海道帯広出身の歌人に、中城(なかじょう)ふみ子がいます。三浦綾子と同年の1922年生まれですが、中城ふみ子は1954年8月、乳がんで闘病中に他界しました。享年わずか、31。

中城ふみ子の短歌が全国的に知られたのは、まさに、最晩年のことでした。「短歌研究」第1回50首の応募で特選入賞、1954年4月号で鮮烈なデビューを果たしたものの、同年9月号では、「追悼特集」が組まれることとなったのです。その劇的な生涯は、渡辺淳一が小説『冬の花火』にも描いています。

さて、没後50年を機に創設された短歌賞「中城ふみ子賞」があります。今年は、第8回作品募集の年で、私も選考委員の1人に名を連ねています。6月2日(土)には、同賞記念講演「歌人としての三浦綾子――中城ふみ子と同年生ミリオンセラー作家の横顔」(仮)を、とかちプラザでいたします。

久々に歌集『乳房喪失』をひらいてみると、「銃口」という一連があり、はっと息をのみました。内容は異なりますが、三浦綾子最後の長編『銃口』と同じ言葉が、ここにあったとは――

 

子が忘れゆきしピストル夜ふかきテーブルの上に母を狙へり

 

銃口を擬されたるとき母は消え未練なひとりの女が立ちゐる

 

4人の子ども(1人は夭折)を愛し、育てた「母」ふみ子でも、通院と闘病で育児がままならず、「未練」に唇をかむ夜もあったのでしょう。けれども、「母」から「ひとりの女」に立ち返ったことで、むしろ、“表現者”としての“中城ふみ子”が誕生し、彼女にしか歌えない世界が拓(ひら)けていきました。

 

冬の皺よせゐる海よ今少し生きて己れの無惨を見むか

 

これは、雪降る日、小樽の親戚宅から札幌の病院に治療に向かう列車で作られたという歌。哀切な歌ですが、自分の「無惨」を見ることよりも、「今少し生きて」という言葉のほうに、生ききることへの切実な想いが託され、代表歌として現在も“生き続けて”います。

 

※「第8回中城ふみ子賞」(新作50首の公募で、4月30日まで受付)についてのお問合せは、帯広市図書館内「中城ふみ子賞実行委員会」へ(TEL:0155-22-4700)

 

田中 綾

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