『ひつじが丘』( 三浦綾子小説作品 はじめの一歩 )

“はじめの一歩”とは?

三浦綾子の作品を〝書き出し〟でご紹介する読み物です。
気に入りましたら、ぜひ続きを手に入れてお読みください。出版社の紹介ページへのリンクを掲載していますので、そちらからご購入になれます。紙の本でも、電子書籍でも、お好きなスタイルでお楽しみくださいませ。物語との素敵な出会いがありますように。

三浦綾子記念文学館 館長 田中綾

小説『ひつじが丘』について

連載 … 主婦の友1965年8月〜1966年12月
出版 … 主婦の友社1966年12月
現行 … 講談社文庫・小学館電子全集
札幌と函館を舞台にした現代小説。お嬢様育ちでプライドの高い奈緒実は、記者で画家志望の良一と、両親の反対を押し切って結婚。が、人を愛し通すことの難しさに直面し、「愛するとは、ゆるすことだよ」と諭した父の言葉をかみしめることになる。

「*」1

 泳いでみたいような青い空であった。じっとみつめていると、空の奥からたぐりよせられるように、細い絹糸にも似た雲が湧いてくる。
 昼食後、杉原京子は、教室の二階の窓によって、先ほどから空をながめていた。白い絹糸と見た雲は、みるみるうすいベールとなり、それがいつのまにかポッカリと空に浮かぶ雲となった。
 ようやく雲が形をとると、京子は微笑して、視線を下の校庭に移した。人かげのない広い校庭に、バレーボールがひとつ転がっている。校庭の周囲には、六月の陽をいっぱいに浴びたリラの花が咲いていた。
 札幌の人々は、京子たちの学校を北水女子高校と、正規の名前では呼ばず、もう長いことリラ高女と呼んでいた。リラの木が多かったからである。紫に白の絵の具をたっぷりとかきまぜたような、リラの花の色と、その香りが京子は好きだった。
 透きとおるような色白の、どこかうれいのある京子の横顔は、セーラー服よりは、むしろ十二単衣でも似合いそうな風情があって、昭和二十四年の高校生とは思えない。
 食事を終えた生徒の何人かが、机の上に腰をかけて、流行歌をうたいはじめた。
「………たれを待つやら
 銀座のまちかど……」
 流行の〝カンカン娘〟である。
 すると、他の一団が対抗するように、
「………あおい山脈
 雪わりざくら……」
 と、うたいはじめた。
「カンカン娘」と「青い山脈」が教室いっぱいにひびいた。
 と、その時、勢いよくこの三年A組のドアが開いた。急に歌声が低くなった。
「ビッグニュース。ビッグニュース」
 明るい、よくとおる声で入ってきたのは、となりのB組の山崎タミ子である。ズングリとして色は黒いが、胸のホックが今にも弾けそうな豊かな胸をしている。A組の生徒たちは、入ってきたタミ子を見て、思わずニヤニヤした。
 タミ子は、ニュース屋を以て任じている。毎日のように、さまざまのニュースを同学年の四クラスに、にぎやかに伝えてあるく。だが、そのニュースなるものは、校長が廊下で紙くずを拾っていたとか、某先生は新しいくつをはいてきたとかいう類の、至って他愛のないニュースばかりで、きき耳をたてるほどのものではない。
 しかし、身ぶり手ぶりの多い話し方に愛嬌があって、校長が紙くずひとつ拾ったぐらいの話でも、きく者をけっこう楽しませ、笑わせた。だから今も、A組の生徒たちは、笑う用意をして山崎タミ子を見たのである。
「どうせ、山崎さんのビッグニュースなんて、小使室の三毛が子猫を三匹生んだなんていうぐらいのもんね」
 だれかが茶化した。
「すごいのよウ。ああ、すてきな人!」
 たれが何を言おうと、タミ子は気にもとめずに、大仰に自分の胸をだいて、ため息をついた。
「すてきな人? だれのこと?」
 クラス一の美人と自他共にゆるしている川井輝子が、勝気そうに、美しい眉をピリリとあげた。形はよいが細い目が冷たい。輝子は、今流行のロングスカートをまねて、規定すれすれまで長くしたスカートと、背丈をこれ以上どうすることもできないまでに短くしたセーラー服をたくみに着こなしている。
「だれがって、今ここにあらわれる人よ。転校してきたらしいの。このクラスの竹山先生と、校長室から出てくるのを見たのよ」
 陽気なタミ子は、川井輝子のふきげんな様子に目もくれない。
「そんなにきれいな人?」
 たれかが言った。
「もちろんよ。ミス札幌にでも、ミス北海道にでもなれるわよ。うそだったら、首あげる。とにかく、あんな感じの人、あまり見たことがないわ。さあ、忙しくなっちゃった。ほかのクラスにも知らせなきゃ」
 山崎タミ子は、かけ足をするように、両のにぎりこぶしを腰にあてて、教室をとび出した。と思うと、すぐに引きかえして顔だけ見せて、
「きた、きた」
 と叫ぶや、ウインクをして再び走り去った。
 京子は思わず微笑した。うれしかったのである。川井輝子は、どういうわけか、このごろ京子につらく当たった。教師たちに、特に異性の教師たちに、京子が目をかけられるためかもしれない。
 何よりつらいのは、小料理屋の娘である京子を、社長の娘の輝子が「パンパン」とか「アンパン」とか、聞こえよがしに悪口をいうことであった。
(うちはパンパン屋なんかじゃないわ)
 女手ひとつで、兄の良一と自分を育てた母の苦労を京子は知っていた。だから、パンパン屋などと言われる毎に、輝子を刺し殺したいほど憎くなるのだった。しかし京子には、勝気な輝子とは口争いすらできなかった。
 いま、山崎タミ子が告げたような、美しい生徒が入ってくるならば、輝子は京子への意地悪いまでのライバル意識を、その人に移すにちがいない。そう思って京子はうれしかったのだ。
 山崎タミ子が走り去ると、やがて担任の教師竹山哲哉が、教室の入口に姿を見せた。
 竹山哲哉は英語の教師である。ハラリとひたいに垂れた髪をかきあげるのが、生徒たちには魅力だった。竹山の気どらない、しかし熱のこもった英語の授業は人気があった。あるいは竹山が熱心な教師でなくても、人気はあったことだろう。二十六歳の独身の男性というだけで、女子高校の生徒たちには、じゅうぶん魅力的な存在である。しかも竹山は、どこにいても目につくほどの、清潔な感じの青年であった。
 竹山の後から、転校生が入ってきた。よく伸びきった、均整のとれた肢体だった。その姿を見ると、ざわめいていた生徒たちは一瞬電流にふれたようにハッと息をのんだ。
「御紹介します。函館のT高校からこられたヒロノナオミさんです」
 そう言って、竹山は黒板にていねいな字で、
「広野奈緒実さん」
 と書いた。
 深く静まりかえっているような、奈緒実の黒い瞳に、生徒たちの視線はたちまち吸いよせられた。
 注視を浴びながらも、広野奈緒実は、はにかみもしない。木彫りのようなカッキリとした二重まぶたを、まばたきもさせずに、ゆっくりと一同を見わたして一礼した。それがひどく大人っぽい感じだった。
 A組の生徒たちは、新任の教師を迎えるような錯覚を感じた。しかしそれは快い圧迫感であった。
「広野奈緒実さんのおとうさんは……」
 竹山が言いかけた時だった。奈緒実はゆるくウエーブしたような長目のおかっぱを激しくふって、竹山の言葉をさえぎった。竹山はちょっと驚いたようすで、奈緒実をながめた。だが、すぐ二三度うなずいて苦笑した。
「では、みんなで、仲よくして下さい」
 そう言ってから、
「杉原さん」
 竹山が京子を呼んだ。
「ハイ」
 突然自分の名前を呼ばれて、京子はほおをあからめて立ちあがった。京子は、奈緒実を一目見ただけで、ふしぎな感情に胸をゆすぶられて、うっとりとその顔をみつめていたのである。
「あの人が、杉原京子さんです。杉原さんの横の席があいていますから……」
 竹山はそう言うと、忙しそうに教室を出て行った。
 奈緒実はゆっくりと京子のそばに近よった。京子は自分自身が転校生のように動悸しながら、
「あの……杉原京子です。どうぞよろしく」
 とていねいにおじぎをした。奈緒実も京子も、相手が自分の一生に重大なかかわりを持つ存在になろうとは、この時は夢にも思わなかった。
 奈緒実の目に親しみぶかい微笑が浮かんだ。京子はそれを見ただけでドキリとした。奈緒実は無言のまま礼を返して席に着いた。
 奈緒実の席は窓がわであった。京子は言葉をかけようとして、いくどか奈緒実の方を見た。しかし奈緒実は、ただ黙って晴れた空をながめていた。
 奈緒実には、話しかけることをためらわせる何かがあった。とりすましているのともちがう。冷たいというのでもない。自分の部屋にでも、とじこもっているように、奈緒実は見事に独りになっていた。
 ほおづえをついて、空を見ている奈緒実には三年A組の誰にもないふしぎな雰囲気があった。それは孤独と呼ぶべきものかもしれなかった。
(川井さんなんか、足もとにも及ばないわ)
 京子はそっと輝子の方をふり返った。
 午後の始業のベルが鳴った。

「*」2

 その日の放課後、A組の生徒たちは何となく興奮していた。北国の六月の陽ざしは、金の砂のようにさらさらと肌に快い。彼女たちは、校庭のリラの木の下に腰をおろしていた。よく手入れされた芝生の上に、たれもかれも思い思いに足を投げだしている。
「あの広野さんていう人、変わってるわね。とうとう、誰とも口をきかずに、さっさと帰っちゃったわ。口ぐらいきいたってばちが当たらないんじゃない?」
 川井輝子の刺すような口調だった。
「でも、わたしにはあれが魅力だな。あの人にペチャペチャ、おしゃべりされるより、ああしてじっと空でもながめていてほしいわ」
「ほんとうね。その方が何となく神秘的ですてきだわ」
「そしてさ。あの人すごく大人みたいでしょ? 頭もいいんじゃない?」
「でも、やっぱり、ちょっと不愛想だわ」
 たれかが、輝子の肩を持った。
「あら、ひどいわ。不愛想じゃないわ。口をきいたって、愛想の悪い人は悪いわ」
「そうよ。広野さんって、何となくこうしんとしてさ。湖みたいだもの」
 彼女たちは、てんでに奈緒実の印象を語り合っている。
「京子さん。あんたポーッとしていたわよ。お熱あげたんじゃない?」
「あら、京子さんは竹山先生よ。それよりあんただって、奈緒実、奈緒実ってノートに書いていたわよ」
「へえ、そうなの。わたしも負けずに、広野さんに熱あげようっと」
「のぞみなし、のぞみなし」
 大半は奈緒実に好意的であった。
 京子は、いま誰かに、
「京子さんは竹山先生よ」
 と言われたことが心にかかった。竹山哲哉と、京子の兄の良一は大学時代からの友人だった。時折三人で街を歩くこともあって、それを見た生徒が、竹山と京子のことを、面白がって噂にしたことがあった。
(わたしは、広野さんとお友だちになりたいわ)
 竹山には無関心なのだと、京子は自分自身に言いたかった。
 芝生にリラの影がようやく長くなり、一同が帰りかけようとした時である。B組の山崎タミ子が上ぐつのまま、芝生の上をかけてきた。
「タミ子さん。今度は号外売りにきたの?」
 たれかの言葉に一同は、はじけるように笑った。
「そのとおり。号外、号外。ところであのきれいな人さ。何ものか知っている?」
 タミ子は人の笑いなど意にも介さない。
「何ものって、何のこと」
「つまりさ。どこのどなたか御存じですかって、言ってるのよ」
 A組の生徒たちは、互いに顔を見合わせた。教師の竹山が、
「広野さんのおとうさんは……」
 と言いかけた時の、激しく頭をふって、さえぎった奈緒実の印象が、みんなの心に残っていた。
(どんな家の人かしら?)
(もしかしたら、わたしの家と同じかもしれない)
 京子は、奈緒実が自分と同じ境遇であることを、ひそかにねがった。
「あんた知ってるの。山崎さん」
 一人が言った。
「勿論! 知ってるわよ。キミは地獄耳のおタミさんを知らねえな。竹山先生が、おとうさんの紹介をしようとしたら、あのきれいな人は、ダメ! って言ったんでしょ? それも知ってるのよ。わたしは」
「きれいな人、きれいな人って言わないでよ。広野奈緒実って名前がちゃんとあるのよ」
 川井輝子が冷たく言った。
「知ってる、知ってる。広野奈緒実って名前ぐらい」
 タミ子は男のような口調で言った。
「一体どこの娘なの」
 川井輝子がじれた。
「まあ落ちついておききなさい。あんたのような、金持の社長の娘じゃないのよ。安心でしょ? さっきね、職員室へ行ったら、柴田先生が『今日入ってきた子は美人ですねえ。どこの娘ですか』って言ってるのよ。そしたら竹山先生が『牧師の娘なんですがね。そのことを紹介しようとしたら、いやだと言うんですよ。どうしてなんですかね』って言ってたの」
(牧師?)
 京子はふいに淋しくなった。奈緒実は自分と同じ境遇の娘ではなかった。
「へえ、牧師さんなの? 何で知られるのがいやなのかしら」
 北水女子高校は、ミッションスクールである。牧師は尊敬される存在だった。
「ほんとうにねえ。牧師さんのお嬢さんなんて、ちょっとすてきだわ。何も恥ずかしいことないじゃない?」
 話し合っている級友たちを背にして、京子はしずかに立ちあがっていた。

「*」3

 竹山哲哉は、明日の授業の準備をしていた。放課後の職員室には、二三人の教師しか残っていない。校庭の方から、時々喚声が聞こえてきた。教師たちのチームと、三年のチームのバレーの試合が、始まっているのだ。
「竹山君」
 呼ばれて竹山が顔をあげると、向かいの席の幕田が長い顔をつき出すようにして、
「君のクラスの広野奈緒実ってのは、学習態度がいかんですなあ」
 と言った。
 幕田は五十近い国語の教師である。頭がすっかり白くなって、年よりずっと老けて見える。
「幕田先生の時間でも、悪いのですか」
 竹山は思わず言った。幕田は、ミッションスクールの教師としては、型破りの男である。雷というニックネームで、時々落雷する。
「悪いどころじゃないよ、君。俺の方を見て話を聞いていることは一度もない。ノートもとらん」
 幕田は呆れたように言った。
「注意して下さいましたか」
「いや、それがどうもね。あれはまた何となく注意のしにくい子でね。今日こそと思うが、何となく注意しそびれるんだな」
 幕田は声をひそめるようにして苦笑した。
「そうですか。いやどうもすみません。ぼくから注意しておきましょう」
 雷の幕田でさえ、注意しそびれるというのならば、他の教師たちも同様だろうと、竹山は思った。
 竹山は、今も授業の準備をしながら、自分がいつのまにか、広野奈緒実を意識しているのに気づいていた。奈緒実は転校以来、十日を過ぎているのに、授業時間に挙手したことがない。ノートもとらない。
 最初のうちは、転校してきたばかりで、この学校の雰囲気に馴染めないせいだろうと同情していた。何とかして、明日こそ一度ぐらい手をあげて答えてほしいと思った。クラスの全員が答えられるような質問も用意してみた。しかし、奈緒実は依然として窓の外をながめているだけであった。他の生徒が声をあげて笑う時でも、奈緒実は笑わなかった。
 哲哉は、日が経つにつれ、次第にいらいらするようになった。このごろでは、奈緒実を思い出すだけで、教えるということに自信を失いそうになっていた。
 翌日、竹山は奈緒実の態度を、決して許すまいと思って教室に出た。テキストは、竹山がガリ版刷りにした、マンスフィールドの『園遊会』である。奈緒実は、相変わらず視線を外に向けていた。
 竹山は、むらむらする思いに耐えながら、テキストを読んでいった。彼は授業の流れを中断したくはなかった。一人の生徒のために、他の生徒たちの時間を割くのは避けたかった。放課後に、奈緒実を呼んでよく注意した方がいいと思った。
 授業時間も終わりに近づいていた。
「では、今言ったことは大切なことですから、ノートして下さい」
 竹山はそう言って、生徒を見わたした。生徒たちは、一斉に前こごみになってノートをとりはじめた。竹山は奈緒実を見た。奈緒実の机の上には、ノートも筆入れも置いてはいない。
 哲哉はついにたまりかねた。
「ミス広野!」
 生徒たちが、思わずギクリと顔を上げたほどの、激しい語調だった。奈緒実は、ゆっくりと視線を哲哉に向けた。ふしぎなものでも見るように、奈緒実は竹山のきびしい視線を受けとめた。
「君は、なぜノートをとらない?」
 奈緒実は、顔をあげてじっと哲哉をみつめたまま答えなかった。
「君は、今日ばかりじゃない。いつも授業時間中外ばかりながめている。一体何を考えているんです」
 奈緒実は答えなかった。
「何を考えているのかと、きいているんだ」
 哲哉は、鋭く問いつめた。奈緒実は静かに立ちあがった。生徒たちは、ノートをとるのも忘れて、奈緒実を注視した。
“ I have been thinking about your wife. What a wonderful women she will be! How happy she is to be married to a man like you! ”
(先生の奥さんになる人はどんなにすてきな女性かと思っていました。先生のような方と結婚する女性は何という幸福なお方だろうと思っていたのです)
 極めてあざやかな英語だった。美しい発音であった。しかし少し早口のため、生徒たちには意味がよくききとれなかった。けれども英語の時間とはいえ、叱責に対してとっさに英語で答えた奈緒実に、生徒たちは驚嘆した。
 竹山の顔に血がのぼった。怒りに似て怒りではなかった。奈緒実の言葉を額面通りうけとったわけではない。だが二十六歳の独身の竹山には、強烈な言葉だった。一方ばかにされたような気がしないでもなかった。しかし竹山の怒りを軽くかわした奈緒実を叱る気にはなれなかった。叱れない自分が歯がゆくもあった。
 ベルが鳴った。教室を出るとき竹山は奈緒実をふり返りたかった。しかしそのまま廊下に出てしまった。その日以来、奈緒実は三年A組の偶像となった。

「*」4

 朝からむしむしと暑かった。一学期の終わりの日であった。いよいよ明日からは長い夏休みに入る。京子は何とかして、一度奈緒実と一緒に帰ってみたかった。
 奈緒実は竹山に注意されて以来、授業時間に外を見ることはなくなった。しかし依然として、進んで挙手することはなかった。相変わらず無口で、ほとんど人と言葉を交すこともない。一日の授業が終わると、いつもさっさと一人で帰ってしまった。
「さようなら」
 今日も奈緒実は京子にそう言うと、すばやく教室を出てしまった。長い夏休みを前に、別れを惜しむという気配がみじんもなかった。京子は急いで後を追った。玄関を出た奈緒実に追いついた京子は、
「広野さん」
 と思いきって声をかけた。奈緒実がふり返った。
「あの……」
「なあに」
「あの、一緒に帰って下さらない?」
 奈緒実は困惑したように、くもった空をちょっと見上げた。
「わるいけれど、今日は寄るところがあるの」
 奈緒実はかるく頭を下げて立ち去ろうとした。その時、
「牧師のお嬢さんは、パンパン屋の娘なんか相手にしませんってさ」
 聞こえよがしに言う声がした。奈緒実は思わず立ちどまった。いつのまにか川井輝子が敵意に満ちた目を光らせて玄関の前に立っていた。奈緒実はゆっくりと歩みを返した。
「今、何ておっしゃったの」
「牧師のお嬢さんは、パンパン屋の娘なんか相手にするわけがないと言ったのよ」
「パンパン屋って、どなたのこと?」
「決ってるじゃない。その人のことよ」
 輝子は、あごで京子をさし示した。
「京子さんのおうちは、パンパン屋じゃないわ」
「そんなこと、あんたにはわかりはしないわよ」
 輝子はかん高い声で言い返した。
 生徒たちが四五人よってきた。京子は青ざめて、じっと唇をかんだ。
「京子さん、帰りましょう」
 奈緒実は京子の背に手をかけた。京子の目から涙が溢れ落ちた。京子の涙を見ると、奈緒実は輝子の方に向きなおった。
「川井さん。あなた失礼よ」
「何が失礼なの。パンパン屋だから、パンパン屋と言ったのよ」
「ひどいわ。そんなひどいこと、おっしゃるもんじゃないわ。川井さん、あなたどうしてそんなに京子さんをばかになさるの」
「わたしには、その人をばかにする権利があるからよ」
 輝子は平然として言い放った。奈緒実はあまりのことに、輝子の顔をまじまじと見た。
「川井さん。人をばかにする権利なんか、だれも持ってはいないわ。どんな人だって、ばかにしてはいけないわ」
 奈緒実の言葉に、輝子が皮肉に笑った。
「あら、そう。それじゃ広野さんに伺いますけれどね。あんたは転校してきて、一ヵ月以上も経ってんのよ。それなのに、あなたの態度は一体何よ。まるで人をばかにしてるじゃない? クラスの人とは、ろくろく話もしないし、先生たちの話だって、きいているんだか、いないんだか、一度だって手をあげたことがあるの? あんたの方が、よっぽど人をばかにしているじゃない?」
 勝ちほこったように輝子は言った。奈緒実は、一瞬おどろいたように輝子をみつめた。いつしか、まわりに人垣が築かれていた。
「広野さんは、先生たちやクラスの人たちをばかにしているのよ。学校全体をばかにしているのよ。それなのに、『ばかにしてはいけないわ』なんてよくお説教づらをできるわね。いくら牧師の娘だって!」
 輝子は追討ちをかけた。奈緒実は輝子の言葉にちょっと黙っていたが、すぐに深くうなずいた。
「ほんとうね。川井さん、あなたいいことをおっしゃって下さったわ。ありがとう」
 意外に素直な奈緒実の言葉に、輝子は戸惑ったような表情を見せた。
「わたし、決してみなさんをばかにしたつもりじゃなかったの。でも言われてみると川井さんのおっしゃる通りだわ。悪かったわ。わたしは、ただ考えごとで頭がいっぱいだったのよ」
「考えごと? 冗談じゃないわよ。先生の話も耳に入らないほど考えていたというの? お友だちと話もできないほど、考えごとをしていたというの? でたらめもいいかげんにしてよ」
「でたらめじゃないのよ。でも、わたしは誰ともお話をしたくなかったのは事実なの。今それが、ほんとうに失礼なことだということがよくわかったわ。悪かったわ。ごめんなさい」
 奈緒実はつづけて、
「でもね。川井さん。あなたが京子さんにおっしゃったことも、いけないと思うわ」
「わたしは、ちっとも悪いとなんか思わないわ」
 輝子は、ふてぶてしく言った。
「まあ」
 たまりかねて京子は言った。
「川井さん。うちは小料理屋よ。でもパンパン屋じゃないわ」
 京子の声がふるえた。
「いいえ。パンパン屋よ」
 輝子はゆずらなかった。
「おやめなさい。川井さん」
 奈緒実が詰めよった。
「広野さんなんか、何も知らないくせに引っこんでてよ!」
「川井さん、あなたって……」
「さっき言ったでしょ? わたしには、この人をばかにする権利があるんだって……」
 ふいに輝子の目に涙がきらりと光った。奈緒実には、輝子がなぜ涙を見せたのか、わからなかった。
 突然輝子がくるりと背を向けて、校舎の中にかけこんだ。とり巻いていた人の輪がくずれた。
「どうして……。どうしてあんな……」
 ひどいことを言うのかと、京子は言いたかった。
「川井さんてひどいわね」
 と奈緒実は言ったが、単なる意地悪で、輝子が京子をいじめたとは思えなくなっていた。単なる意地悪にしては、しつこすぎると思った。
 二人はだまってアカシヤの並木通りを歩いて行った。アメリカ兵が街にあふれていた。アメリカ兵のまわりだけが、陽気で活気に満ちているように見えた。
 二人は、喫茶店「エルム」の前に通りかかった。
「のどがかわいたわ。入らない?」
 奈緒実は先に立って、「エルム」の店に入って行った。昼近い喫茶店は少し混んでいた。入口近い席に二人は坐った。
「入口のそばって、落ちつかないけれど」
 奈緒実は、沈んでいる京子の顔をのぞきこむようにした。
「わたし、怒るととってもおなかがくの。カレーライスの三杯ぐらい平気になっちゃうの」
 奈緒実の言葉に、京子はやっと微笑した。その時、奥の席から男たちが二三人、入口のレジスターに近づいてきた。その一人がふっと、うつむいている京子に視線をとめた。かすかに笑ったその目が奈緒実に移った。男の視線が釘づけになった。
 奈緒実は何げなく、二三歩はなれたところに立っているその男を見た。おさのような、きれいな目がおどろいたように、奈緒実をみつめていた。奈緒実と視線が合うと、男はおし返すように奈緒実をみつめたまま、テーブルに近づいた。
 奈緒実は思わず体をこわばらせた。
「あら!」
 うつむいていた京子が声をあげた。男はズボンのポケットから、百円札を四五枚、無造作にテーブルの上においた。と思うと、すっと店の外へ出て行った。
 奈緒実は呆気あっけにとられた。
「兄なの」
 京子があかくなって、百円札を小さく折りたたんだ。

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