『塩狩峠』( 三浦綾子小説作品 はじめの一歩 )

“はじめの一歩”とは?

三浦綾子の作品を〝書き出し〟でご紹介する読み物です。
気に入りましたら、ぜひ続きを手に入れてお読みください。出版社の紹介ページへのリンクを掲載していますので、そちらからご購入になれます。紙の本でも、電子書籍でも、お好きなスタイルでお楽しみくださいませ。物語との素敵な出会いがありますように。

三浦綾子記念文学館 館長 田中綾

小説『塩狩峠』について

連載 … 信徒の友1966年4月〜1968年9月
出版 … 新潮社1968年9月
現行 … 新潮文庫・小学館電子全集
舞台は東京、札幌、旭川、そして和寒わっさむ塩狩峠しおかりとうげ。実在のモデルとその出来事を盛り込みつつ、作者自身の半生と体験を題材に、永野信夫の成長を描く青春物語。傷つきながらも真に人を愛することを知った信夫は、自分の生き方と志を成し遂げようとする。

「鏡」

 明治十年の二月に永野ながの信夫のぶおは東京の本郷ほんごうで生まれた。
「お前はほんとうに顔かたちばかりか、気性までおかあさんにそっくりですよ」
 祖母のトセがこういう時はきげんの悪い時である。亡き母に似ているということは、決してほめていう言葉ではないことを、信夫は子供心にも知っていた。
(おかあさまって、どんな人だったのだろう?)
 母は信夫を生んだ二時間あとに死んだと聞かされている。信夫は今、鏡にむかってつくづくと自分の顔をみつめていた。形のよい円らな目、通った鼻筋、きりっとしまった厚くも薄くもない唇。
(おかあさまは、きれいな人だったんだなあ)
 十歳の信夫は、その濃い眉に走る自分のかん気な表情には気がつかない。
(何でおかあさまにそっくりなのが悪いんだろう?)
 信夫はトセの胸の中を知るはずもない。
 やがて信夫は口をへの字に曲げてみる。死んだ母親もこんな風な顔をしたのだろうかと信夫は思う。片目をつぶる。眉をつりあげて鏡に向かってにらみつける。ちょっとこわいぞと思う。おちょぼ口をして笑ってみる。
(おかあさまはこんなにして笑ったのかな)
 信夫はもう一度笑ってみた。こんどは大きく口をあけて歯をながめた。一本のむしばもなく白い歯がならんでいる。おくに下がっているのどちんこを信夫はじっとみた。
(何でこんなものがあるんだろう)
 母にも、こんな妙なものが下がっていたのかと思うと、信夫の胸のあたりが、ふいにへんなかんじがした。ふだんはそれほどにも思っていなかった母が、急に恋しい心持ちになった。信夫は口の中に指をさし入れて、のどちんこにさわろうとしてゲッと吐きそうになった。すると目に涙がにじんだかと思うと、涙がポロポロとこぼれてしまった。
「信夫、何を泣いています?」
 うしろで祖母のトセの声がした。祖母はがっしりとした体つきで、怒ると父の貞行さだゆきよりずっと恐ろしい。だがだいたいにおいて信夫をかわいがってくれたから、信夫は祖母がきらいではなかった。ただ母のことを口にする時の祖母だけは、妙に意地悪くていやであった。
「のどに手を入れたら涙が出たの」
 信夫はそういったが、ほんとうは何となく悲しくなって出た涙のようにも思われた。
「ばかなまねをしてはいけませんよ。人前で涙を見せるのは平民へいみんです。うちは士族しぞくですから、そんな恥ずかしいことをしてはいけませんよ」
 祖母はそういって、信夫のそばにぴたりとすわった。祖母がひざをくずした姿を、信夫は一度もみたことがない。だから女はみんなこうして坐るものと信夫は思っていた。ところがそうでもないことを、信夫はつい先日発見した。
 信夫の家に出入りしている小間物屋こまものやろくさんという男がいる。六さんはくしとか羽織のひも、半えり、糸、はさみなどを、重ねた箱に入れ、からくさ模様の大風呂敷に包んで背負ってくる。
「ごいんきょさま」
 六さんはトセのことをそう呼んだ。六さんはこの二、三年ほど前、新潟にいがたから東京に出てきたばかりである。トセの故郷も新潟だったから、六さんと祖母は話が合った。西洋フワッションなどという流行語を得意そうにつかったりして、六さんは長いこと台所のあがりがまちで話こんでいく。
 信夫も六さんがくるのを待ちかねていた。六さんが好きなのではない。六さんがときどき連れてくる虎雄とらおという子供がいたからだ。虎雄は信夫より二つ年下の八歳だった。
 信夫の父は日本銀行につとめていた。家は本郷の屋敷やしき町にあり近所にはあまり同じ年ごろの子もいなかったせいもあって、信夫は虎雄のくるのが楽しみであった。
 いつか信夫は六さんにつれられて、一度虎雄の家に遊びに行ったことがある。ガタゴト音のするどぶ板を踏んで、戸をあけるといきなり部屋があったのに信夫はおどろいた。だがそれよりいっそう信夫をおどろかせたのは、三十ぐらいの女が胸をはだけて、足を横に出したまま食事をしている姿だった。
(女もあんなにぎょうぎが悪いのか)
 信夫はつくづくと思ったものである。
 今も祖母がきちんとひざをそろえて信夫のそばに坐った時、信夫は何となく虎雄の母の姿を思いだした。
「涙はぜったい人に見せてはいけませんよ」
 祖母がくりかえした。
「はい」
 と信夫はうなずいてから、
「おばあさま。おばあさまの口をあけて見せて」
 とトセのひざに手をかけた。
「どうするんですね、口をあけて」
「のどの奥にこんなものがあるかしらん?」
 信夫は大きく口をあけてみせた。
「女が大きな口をあけることは恥ずかしいことなのですよ」
 トセは信夫の相手にならなかった。


 父の永野貞行は温厚であった。旗本七百石の家に生まれたというよりは、公家くげの育ちのような、みやびやかな雰囲気の人柄であった。信夫を勝気な母のトセにまかせたきりで、ほとんど信夫には干渉することもなかった。だから、信夫は父が恐ろしいとも、やさしいとも思わなかった。だが、生まれてはじめて、その父にきびしく叱責される事件が起こった。
 もう四月もまぢかな、あたたかい日曜日のことだった。その日も小間物屋の六さんが虎雄をつれて、永野家にきていた。信夫は虎雄と物置の屋根に腹ばいになって、日なたぼっこをしていた。虎雄は名前に似ぬやさしい子で、黒豆を二つならべたような愛らしい目をしていた。
「ちょうちょう ちょうちょう
    なのはにとまれ……」
 近くの屋敷からきこえてくるオルガンに信夫は耳をすましていた。信夫には、オルガンを弾いているのが、なぜか大好きな根本ねもと芳子よしこ先生のような気がした。根本先生は色が白く、その細い目がやさしかった。えび茶色のはかまを胸高にしめて足早に歩く姿が、その辺の女たちとは全く別の人間のように信夫には思われた。
 根本先生は毎年一年生ばかり教えている。信夫も一年の時に、根本先生に受け持たれた。先生はよく生徒の頭をなでた。先生が近よってきて、そっと頭をなでると、いたずらをしていたわんぱく小僧たちはもじもじしておとなしくなった。
 先生が近よってくると、何かいい匂いが漂う。祖母のトセのようにびんつけ油の匂いとはちがうと信夫は思った。先生と手をつなぐと、やわらかくて、すべすべしていて、信夫の手までつるつるになるような感じだった。
 信夫は一年生のとき、根本先生がどこかにお嫁に行ってしまうのではないかと、急に不安になったことがある。
(あした学校に行ったら、先生はもういないかも知れない)
 そう思うと信夫は心配でたまらなくなってしまった。
(そうだ。ぼくが根本先生をお嫁さんにすればいいんだ。そしたら先生はずっとどこにも行かずにいてくれる)
 名案だと信夫は思った。
 翌日休み時間の鐘がなって、生徒たちはぞろぞろと外の運動場に遊びに出た。しかし信夫はぐずぐずと教室に残っていた。
「あら、永野さんはどうしました? 遊びに行かないんですか」
 信夫はだまって、こっくりとうなずいた。先生はおどろいて足早に近づいてきた。
「おなかでも痛いのですか」
 先生のいい匂いがした。信夫は首を横にふった。
「じゃ、外へ出て元気にあそびましょうね」
 先生は信夫の頭をなでた。
「先生……」
 信夫は口ごもった。
「なあに?」
 先生は信夫の顔をのぞきこむようにした。
「……あの……ぼくが大きくなったら、先生をお嫁さんにもらうの。だから、それまでどこにも行かないで待っててね」
 信夫は思いきって一気にいった。言ってみるとそう恥ずかしくもない。
「お嫁さんに?」
 先生はおどろいたようにそういってから、
「わかりましたよ」
 とにっこりして、信夫の着物の肩あげをちょっとつまんだ。
「ほんとうにどこにも行かないでね」
 念を押すと、先生は信夫の手をそっと握って微笑した。信夫はうれしかった。
(もう先生はどこにも行かないぞ)
 信夫は得意満面という顔つきで、元気よくバタバタと廊下をかけて外に遊びに出た。
 信夫は今三年生である。そんなことを先生にいったことは忘れている。しかし依然として根本先生は好きだった。廊下で会うと、校長先生におじぎするよりも、もっとていねいにおじぎをする。根本先生と廊下で会った日は一日たのしかった。
「虎ちゃんの先生はやさしいなあ」
 虎雄は一年生である。
「うん。うちのおっかあさんは物さしを持って追いかけるけどもよ。信ちゃんのおばあさんも物さしで殴る?」
 虎雄は先生のことよりも、自分の母親のことが気がかりのようであった。
「いや、おばあさまは殴らない」
 いつのまにか、オルガンの音は途だえていた。父に叱られる事件はこのすぐあとに起こった。
「ねえ信ちゃん、あの空の向こうに何があるか知っているかい」
 屋根の上でみる空は、下でみる空とどこかちがう。
「知らん」
 信夫はきっぱりとした口調で答えた。
「ふうん。三年生でも空の向こうに何があるのか、わからんの」
 虎雄の黒豆のような目がにやりと笑った。
「空の向こうに行かなきゃ、わかるわけがないや」
 信夫は利かん気に眉をピリリとあげた。
「行かなくっても、わかってらあ」
 虎雄は下町の言葉づかいになった。
「ふん、じゃ何がある?」
「おてんとうさまがあるよ」
「なあんだ。ばかだね虎ちゃんは。おてんとうさまは空にあるんだよ」
「うそさ。空の向こうだよ」
「空だよ」
「ちがう! 空の向こうだったら!」
 めずらしく虎雄が強情をはった。
「お星さんや、おてんとうさまのあるところが空なんだ」
 信夫は断乎だんことした口調でいった。
「うそだい! ずがをかく時、家の屋根のすぐ上は空じゃないか。ここが空だよ」
 虎雄は自分の腹ばいになっている屋根の上の空気を、かきまわすように腕を振った。
「あっちだよ、空は」
 信夫はゆずらない。
「うそだ! 空の向こうだ」
 二人はいつしか自分たちがどこにいるのか忘れていた。二人はにらみ合うようにして物置の屋根の上に立っていた。
「うそだったら!」
 虎雄が信夫の胸をついた。信夫は体の重心を失ってよろけた。
「ああっ!」
 悲鳴は二人の口からあがった。
(しまった!!)
 虎雄が思った時、もんどりうって信夫は地上に落ちていた。
 しかし信夫は幸運だった。その日はトセが布団の皮をとって、古綿をござの上に一ぱいに干してあった。信夫はその上に落ちたのである。まっさかさまにころげ落ちたと思ったのに、打ったのは足首であった。
「信ちゃん、ごめんよ」
 虎雄が泣きだしそうな顔をして屋根から降りてきた。
「おれはお前に落とされたんじゃないぞ! いいか!」
 信夫は眉をしかめて足首をさすりながらいった。
「えっ! なんだって?」
 虎雄は信夫の言葉がわからなかった。
「お前がおれをつき落としたなんて、だれにもいうな!」
 信夫は命令するように、口早にいった。虎雄はポカンとして信夫をみた。
 悲鳴をきいてまずかけつけたのは六さんであった。
ぼっちゃま、どうなさった」
 六さんは青い顔をして立っている虎雄をねめつけた。
「なんでもないよ。遊んでいて屋根から落ちたんだ」
「屋根から!」
 六さんは叫んだ。そしていきなり虎雄のほおをいやというほど殴りつけた。
「虎! お前だな」
 虎雄はいくじなく泣き声をあげた。
「どうしたというのです?」
 祖母のトセだった。
「どうも、ごいんきょさま、すみません。虎のやつが……」
 言いかけた六さんの言葉を信夫が鋭くさえぎった。
「ちがう! ぼくがひとりで落ちたんだ!」
 信夫の言葉に六さんの顔がくしゃくしゃにくずれた。
「坊ちゃま!」
「そんなことより怪我はありませんか」
 トセは取り乱してはいなかった。
「大したことはないようですが、お医者さまにつれて行って下さい」
 祖母は信夫の顔色をみて六さんにいった。あわてて六さんが信夫をおぶって近所の医者につれていった。足首の捻挫だけで骨折はなかった。それでも医者から帰って、一応布団の上にねかされると、信夫は大分つかれていた。
「大したことがなくて結構でした」
 貞行が部屋にはいってくると、トセはそういって、入れ代わりに台所に立って行った。
 貞行をみると、六さんがあわててたたみにひたいをこすりつけた。
「どうも、虎雄がとんだことを致しまして……」
 虎雄もしょんぼりとうつむいていた。
「虎雄ちゃんじゃないったら!」
 信夫がじれた。
「いったい、どうしたというのだね」
 貞行はきちんと正座したままで、おだやかに言った。
「実はこのガキが、物置の屋根から……」
「信夫をつき落としたというのだね」
「はあ」
 六さんは鼻に汗をうかべている。
「ちがう。ぼくがひとりで落ちたんだ」
 信夫がいらいらと叫んだ。貞行は微笑して、二、三度うなずいた。信夫に年下の友だちをかばう度量のあることが嬉しかった。
「そうか。お前がひとりで落ちたのか」
「そうです。ぼく町人ちょうにんの子なんかに屋根から落とされたりするものですか」
 信夫の言葉に貞行の顔色がさっと変わった。六さんはうろうろとして貞行をみた。
「信夫っ! もう一度今の言葉を言ってみなさい」
 りんとした貞行の声に信夫は一瞬ためらったが、そのきりりときかん気に結ばれた唇がはっきりと開いた。
「ぼく、町人の子なんかに……」
 みなまで言わせずに貞行の手が、信夫のほおを力いっぱいに打った。信夫には何で父の怒りを買ったのかわからない。
「永野家は士族ですよ。町人の子とはちがいます」
 祖母のトセはいつも信夫に言っていた。だから、町人の子に屋根からつき落とされたなんて、口がけても言えなかったのだ。信夫は父をにらんだ。
(ほめてくれてもいいのに!)
「虎雄くん。君の手を見せてほしい」
 貞行は虎雄に微笑をみせた。虎雄はおどおどとよごれた小さな手を出した。
「信夫! 虎雄君の指は何本ある?」
「五本です」
 殴られたほおがまだひりひりと痛んだ。
「では、信夫の指は何本か? 六本あるとでもいうのか」
 信夫はむすっと唇をかんだ。
「信夫。士族の子と町人の子とどこがちがうというのだ? 言ってみなさい」
(ほんとうだ。どこがちがうのだろう)
 言われてみると、どこがちがうのか信夫にはわからない。しかし祖母はちがうと言うのだ。
「どこかがちがいます」
 信夫はやはりそう思わずにはいられない。
「どこもちがってはいない。目も二つ、耳も二つだ。いいか信夫。福沢ふくざわ諭吉ゆきち先生は天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず、とおっしゃった。わかるか、信夫」
「…………」
 信夫も福沢諭吉の名前だけはよくきいていた。
「いいか。人間はみんな同じなのだ。町人が士族よりいやしいわけではない。いや、むしろ、どんな理由があろうと人を殺したりした士族の方が恥ずかしい人間なのかも知れぬ」
 きびしい語調だった。父がこんなきびしい人だとは、信夫はそれまで知らなかった。しかしそれよりも、
「士族の方が恥ずかしい人間かも知れぬ」
 と言った言葉が胸をついた。士族はえらいと当然のように思ってきた信夫である。それは雪は白い、火は熱いということと同じように、信夫には当然のことであった。
(ほんとうに人間はみんな同じなのだろうか)
 信夫は唇をきりりとかみしめて枕に顔をふせていた。
「信夫。虎雄くんたちにあやまりなさい」
 厳然として貞行が命じた。
「ぼく……」
 信夫はまだ謝罪するほどの気持ちにはなれなかった。
「信夫あやまることができないのか。自分のいった言葉がどれほど悪いことかお前にはわからないのか!」
 そういうやいなや、貞行はピタリと両手をついて、おろおろしている六さんと虎雄にむかって深く頭を垂れた。そして、そのまま顔を上げることもしなかった。その父の姿は信夫の胸に深くきざまれて、一生忘れることができなかった。

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